ターリバーン再支配下のアフガニスタンへ㊥|MK新聞2023年掲載記事

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ターリバーン再支配下のアフガニスタンへ㊥|MK新聞2023年掲載記事

MKタクシーの車内広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただいた中村哲さんの記事を、2000年以来これまで30回以上にわたって掲載してきました。
今回はRAWAと連帯する会の桐生 佳子さんの記事をご紹介します。

MK新聞2023年9月1日号掲載分です。

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ターリバーン再支配下のアフガニスタンへ㊥

(前号より続き)

バーミヤンへの旅

これは日帰りというわけにはいかず、2泊3日で考えていたが帰国前ということもあり、少し余裕を持ちたかったので、1泊2日の行程にした。
この日も朝早く出発。前回のことも考えて、朝食用に前日にハンバーガーとジュースを買い込み途中で食べようと持って行った。私はあいにく風邪をひいたのか、熱はないのに咳が止まらない。同行する人たちに気兼ねするほどだった。道はカーブルからまっすぐ西へ。郊外に出ると道路わきに小さな小川が流れ、畑はほとんどびっしりと果樹が植えられている。手入れが行き届き、木は整然と植えられているのに感心した。つぼみが膨らみ、あと2~3日で花が咲きそうな様子だった。これこそ、有名な絵本のモデルとは違う場所ではあるが「世界で一番美しいぼくの村」ではないかと思った。車窓から写真を撮りまくる。道を行く子どもたちが愛らしい。山道に差し掛かり、どんどん上っていくとそこはまだ冬景色。雪が積もり一面の銀世界。真っ白な山々が神々しいばかりに朝日に輝いている。こんな景色が見られるとは思わなかった。感動する。峠を下ってどんどん行くと茶色の景色になってくる。ああ、バーミヤンだなあと思う。
遅めの昼食にこのあたりで一番おいしいというレストランに行く。地元の特有のスタイルの席と普通のテーブル席がある。私たちはテーブル席の方に。おいしそうな料理がどんどん運ばれてくる。おいしいことはわかっているのだが、私はほんの少しだけ食べることにした。けれどもその少しが本当においしかったので、今でも心残りである。その後、ホテルに。大きな美しいホテルである。ちょうど、バーミヤンの爆破された石仏の石窟の向かい側に位置していた。

バーミヤン石仏破壊後

バーミヤンの街の市場にも行ってみた。日用品店、食料店、八百屋、雑貨屋、ナン屋など多くの店が軒を連ねている。夕方、だんだん寒くなってくる。手押し車にはまだ野菜がいっぱい積まれている。若者が寒そうにそばに立っている。今日中にこの野菜は売れるのだろうかと気にかかる。ホテルに戻り、夕飯はレストランに行くというので私はパスしてホテルで休養することにする。ありがたいことにこのホテルにはバスタブがついていて、お湯が出る。ただ、バスタブの栓はない。探し回って、サイズは合わないが似たようなものを見つけこれを詰め、タオルで漏れを防ぎ、やっとお風呂に入ることができた!
翌日は、観光全開! 爆破された石仏の跡を見に行く。ユネスコが修復するはずだったのが中断している。本当に大きい! 写真でしか見たことはないけれど、写真でしか見たことはないけれどアフガンの人々から愛されていたと聞いている。是非本物の石仏を見たかった。ここは西の大仏でBig BuddhaともLarge Buddhaとも呼ばれている。もう少し東にも少し小さな石仏があって、そこまで歩く。これは東の大仏(Small Buddha)と言われているが、完全には破壊されていなくてほんの少しだが残っているところもある。石仏のあるところから前面の畑にはポプラの木がたくさん植えられていて葉が落ちた木のシルエットが美しい。まるで絵ハガキのようだ。ちょうどアフガニスタンでは新年を祝う日だったので地元の子どもたちもおしゃれをして晴着を着せてもらい大仏跡に遊びに来ている。一緒に写真を撮る。他にも三々五々、休日を楽しむ人たちが遊びに来ている。
その後、ゴルゴラの丘に行く。実は、ゴルゴラの丘がこの地にあるということは知らず、行きの車の中で「アフガニスタンのどこにあるのでしょうね?」と話していたところだったので驚いた。この丘は昔、チンギス・ハーンが攻めてきたときに、この地で孫が戦死し、復讐のために生きるものすべてを皆殺しにしたといわれたところである。ユネスコの世界遺産にもなっている。その様な凄惨な面影を残すものは何もない。ただ、少し遺構のようなものが残る土の丘である。
さて、帰りは暗くなる前にカーブルに着きたくて、昼食は昨日のレストランからのテイクアウト。車を走らせ、ドライバーさんが選んだ昼食場所は、なんとあの真っ白な雪景色を見下ろせる峠だった。寒い! 車の中で待とうかと思ったが、そういうわけにもいかず外に出る。2人のドライバーさんがそれぞれの車のラグを持ち寄って即席のランチパーティーが始まる。風が弱まり、太陽も出て、快適なランチタイムになった。素晴らしい風景である。大きな羊の骨付きごはんはよだれが出そうなほどおいしそうだった。私はここでもぐっと我慢。チキンのから揚げを少し食べたがこれも絶品である。
予定通り、暗くなる前にカーブルに到着。カーブルの街に入ると、都会に戻ってきたなあと思うがあの美しい静かなバーミヤンが懐かしいと思った。

ある日のアフガンランチ

学校訪問

カーブル郊外のとある町に行く。ここでは2つの学校を視察。どちらも貧しい地域にある。
1つ目の学校は男子生徒は校舎の外のまばらに木が生えているところで野外授業。女子生徒は校舎の中の教室を使っているようだった。ちょうど下校時間で女の子たちが校舎から出てきたところだった。先生たちは、これまでの外国からの支援が終了したので、今後も支援が欲しいと言っていた。
もう1つの学校は私たちが支援している学校。子どもたちも先生方もすでに下校した後だったので、管理人にかぎを開けてもらい校舎内を見学した。これまで写真でしか知ることができなかった学校を実際に見ることができ感動した。

 

「秘密の学校」訪問

教室は先生の家の一部屋。ここでは、年齢幅の広い生徒たちが学んでいる。もちろん子どももいる。長引く戦乱、貧困、親の無理解など様々な理由で学ぶことができなかった女性たちが、ダリー語や算数を習う。子どもも学校が遠くて行きにくい子が来ている。口々に、これまで字が読めず苦労してきたが、今は読むことができ、バスにも乗れるし生活がしやすくなってうれしい、裁縫教室も作ってほしい、裁縫ができれば少しでもお金を稼ぐことができる、そのお金をためてパキスタンの病院に行きたい、などと話してくれた。また放課後には人権や宗教のことなども教えているということだった。
もう1つは英語を教える「秘密の学校」だった。若い女性が英語を教えている。ここで学んでいるのは、今学校に行くことができない中学生以上の女学生たち。1年間のコースである。英語を学ぶのは楽しい、学校に行けないので友達に会えない、家では家事の手伝いに追われる、将来は医者になりたいなどと話してくれた。どちらも近所には気を使い、理解を得るようにしているということだった。また一度に多くの人が出入りするのは目立つので少しずらして出入りをしていると言っていた。また、もしターリバーンがやってきたら、小さな子どもたちのために教えていて、年配の人は付き添いだと言うつもりだという。そしてこれは親戚の集まりだとか何かのためのパーティーをするところだとか、言い訳の理由をいくつも考えていた。細心の注意を払いながら、けれども希望に満ちた小さなちいさな学校だった。
学校で学ことができない女性たちにとって、この「秘密の学校」は、知識を得る砦のようなものではないかと思った。これほど心から学ぶこと、知識を得ることに喜びをもっているというのは、私にはいつの間にか忘れていた感動だった。

 

(次号に続く)

 

■RAWA

Revolutionary Association of the Women of Afghanistan (アフガニスタン女性革命協会)は、アフガニスタンにソ連が侵攻する少し前の1977年、アフガニスタンの首都カーブルでミーナーという女性により設立された。73年のクーデターで王政から共和制となったものの基盤は弱く、78年の4月革命で急進的な親ソ連政権が樹立し、いきなり識字教育の徹底化(違反者の処罰)・イスラームによる土地所有権を無視した土地改革など、当時のアフガン社会では極端と思われる政策がとられ、社会は混乱した。その中でミーナー「社会の変革なくして女性の解放はない」と命懸けで女性たちのために活動をつづけた。10年後、親ソ連政権の諜報部員らによりミーナーは暗殺されたもののRAWAは、諸外国の支配からの解放、自由、民主主義、社会正義、そして女性の権利の獲得をめさして活動をつづけている。

■RAWAと連帯する会

2001年のアメリカを中心とする連合軍によるアフガニスタン侵攻の後、日本では、アフガニスタン全土への攻撃に対し、ブッシュ大統領の責任を問う「アフガニスタン民衆法廷」が開かれた。04年には、アフガニスタンとのかかわりを継続するために「RAWAと連帯する会」が立ち上げられ、さまざまな活動に取り組んでいる。とりわけRAWAによる教育活動への支援に力を入れている。

■「RAWAへのカンパのお願い」

アフガニスタンの女性や子どもたちの活動を支援するということは、毎年きちんとお金を送ることなのです。彼女たちは世界からの支援が減っている中で、またターリバーンの再支配のもとで、貧しい人たちに食糧・教育・医療を提供するために頑張っています。どうぞよろしくお願いします。

RAWAと連帯する会はお寄せいただいた会費(年会費2000円)やカンパは全額アフガニスタンに届けています。諸経費は物販の収益等で賄っています。(アフガニスタンへの渡航費用もすべて個人負担です)

<振込先>

口座名:RAWAと連帯する会

郵便振替口座番号:00930・1・76874

<連絡先>

Email:rawa-jp@hotmail.co.jp

☎090・3656・7409(桐生)

 

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MK新聞について

MK新聞とは

「MK新聞」は月1回発行で、京都をはじめMKタクシーが走る各地の情報を発信する情報紙です。
MK観光ドライバーによる京都の観光情報、旬の映画や隠れた名店のご紹介、 楽しい読み物から教養になる連載の数々、運輸行政に対するMKの主張などが凝縮されています。
40年以上も発行を続けるMK新聞を、皆さま、どうぞよろしくお願いします。

ホームページからも最新号、バックナンバーを閲覧可能です。

 

フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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