アフガン緑の大地計画の現場から―ペシャワール会の農業計画は現地主義|MK新聞2009年掲載記事

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アフガン緑の大地計画の現場から―ペシャワール会の農業計画は現地主義|MK新聞2009年掲載記事

MKタクシーの車内広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただいた中村哲さんの記事を、2000年以来これまで30回以上にわたって掲載してきました。

MK新聞2009年6月1日号、6月15日号、7月1日号の掲載記事の再録です。
原則として、掲載時点の情報です。

 

 

アフガン緑の大地計画の現場から―ペシャワール会の農業計画は現地主義 ペシャワール会農業指導員・高橋修

(ペシャワール会大阪・松井千代美記)

2009年4月12日、京都市の出町柳駅にほど近い「かぜのね」において、昨年亡くなられたペシャワール会、伊藤和也さんの追悼写真展開催の中、写真展を運営するピースウォーク京都により、農業指導員として伊藤さんたちと農業計画を担ってこられた高橋修さんの講演会が開かれました。
「農家が自立するような働きかけができるのか。自分流が通せるのか─であって、中村先生の本に感激してということではないですよ」。
「何故ペシャワール会だったのですか」の問いに、高橋さんはにこやかにこう仰いました。

1930年生まれ、1952年から36年間勤めた京都府の職員を退職後、2年間のブランクを経て、10年間JICAなどの専門家としてインドネシア、スリランカなどで技術協力を経験され、農業の普及に関わり続けてこられた高橋さんが、その集大成の場として選択されたのがペシャワール会で、自分たちの技術を教える技術移転ではなく、その土地にあった現地主義を貫くことでした。
すなわち、主役は農家であり、資機材は現地調達、そして現地の技術に改良を加えつつ農家の自立を促す働きかけができるかどうかということでした。

10年間の海外での公的活動を終えた高橋さんに、ペシャワール会からの紹介を受けた全国農業改良普及協会からの打診がありました。
海外生活の中で、できるだけのことはしながらも、その方針に少し違和感を感じていた高橋さんは、日本の物差しで測るのではなく、自分流の現地主義が通せるところか否か見極めてからの決断となったのです。
そして、2002年から6年間、ペシャワール会の農業計画担当の指導者として、現地のワーカー、現地の農家と共に生きる農業普及に努められることになったのです。
以下、高橋さんの報告です。

ペシャワール会の高橋修さん
ペシャワール会の高橋修さん

農業・食糧と人の心

アフガンでまるで湧いてくるようなタリバンを見ていると、私が子供の頃、家族が多く口減らしのために海軍に入った従兄弟のことを思い出します。
アフガニスタンでもタリバンに入れば給料がもらえる、自爆テロとなれば家族が一生食べられるとか、真偽のほどはともかくそんな噂を聞いたことがあります。
食糧不足は戦争の下地になるのではないでしょうか。
アフガニスタンは文明の十字路と言われますが1800年以降は戦乱の十字路で、今でもそこかしこ、家のそばにまで地雷や戦車の残骸が残る地域です。

パキスタンとの国境近くのダラエヌールに試験農場はあります。近くにガンベーリー砂漠があり、年間総雨量はおよそ180㎜(京都:1800㎜)、年によっては春先にはヒンズークッシュ山脈の雪解け水による鉄砲水に見舞われ、冬にはまれにですが雪が降り、春、3~4月は連日目を開けてはいられないほどの砂嵐、夏は45℃に達する猛暑、その上06年には8月に雹(ひょう)が降り、さつま芋、トウモロコシなどの作物が全滅するなどの厳しい自然環境です。
こうしたところで10人以上の家族を食べさせるのは大変なことです。
牛糞も薄く伸ばして干し燃料にするので、土地を肥やす有機物がないのが現状です。このようなところに日本の農業技術をそのまま持ち込むのは全く無理なことです。
おのずと、その土地その土地に即した現地主義にならざるを得ません。

戦争の傷跡が残る
戦争の傷跡が残る

農業の主役は農家であり、現地の技術を改良しながら資器材は現地調達を基本に、ペシャワール会の橋本康範、伊藤和也、進藤陽一郎、山口敦史さんらにより農業改良が進められてきました。
アフガンの農家の努力を正当に評価することにより、彼らは自分たちの経験や自慢話を話すようになり、それらの中から、今何をするべきかを知ることができます。

まずは主食を

まずは主食を―と、米、小麦、さつま芋などの収穫高を上げることに取り組みました。
米は当初、橋本さんが「お酒は飲めない、楽しみもない中、(日本の)若者があんなに一生懸命働いているのだからせめて美味しいお米を食べさせてやりたい」との熱意に応えて、日本米(短粒米)の栽培を始めました。
これが作付け面積10a当たり600㎏穫れました。これは現地の平均の1・5倍の収穫量です。
乾燥期の高温により砕け米が発生するという難点はありましたが、田植えを毎年少しずつ遅くすることにより解決の目途がつきました。
農家の要望に応えてキャナル地域でも日本米を普及していきたいと考えていました。

次に小麦ですが、2005年の秋、伊藤君から「現在使われている小麦は収穫量が少ないから、日本の品種を試験栽培してみたい」との提案がありました。
彼の積極的な提案を喜びつつも、品種を変えるという安易な方法を選択することをたしなめる気持ちもあり、まずは現地で長年栽培されてきた品種の特性を100%発揮させることを提案しました。
その後の彼からの報告は近隣農家の栽培状況を観察比較し、ついにノウハウを見つけた喜びがあふれるものでした。
播種の時期、播き方(薄播き、小畦をたてる)、手入れ(中耕・土寄せ)など、これは○○さんのやり方、これは○○さんのやり方と現地の技術の良いところを集めた結果、10a当たり200~250㎏だった収穫量は475㎏になったというものでした。

農家の希望を聞く
農家の希望を聞く

「子供たちが将来、食糧のことで困ることがないように」と、自分の持てる農業の技術を教えるんだと勢い込んでいた伊藤君が、現地の知恵を生かし、工夫して、共に生きるやり方へと変わってきた証でした。

同じ作付け面積で養うことのできる人数は、小1人、水稲1.7人に対してさつま芋は4.5人です。
やせた乾燥地でも栽培できるさつま芋には日本も戦中戦後随分お世話になりました。
しかし栽培に取りかかったものの、2003年以来、種芋の貯蔵・育苗の技術、黒斑病、黄金虫の防除、それに盗難対策と越えなければならない山はたくさんありました。
被害続きで一時諦めかけたのですが、たまたまさつま芋に悪戦苦闘する様子が、朝日新聞の「ひと」の欄に取り上げられ、引くに引けなくなり再挑戦することとなりました。
塩分を含む土壌と戦いながら種芋の選定、保存、育苗から収穫まで失敗や成功を重ねる間、我々と苦楽を共にした試験農場の担当農家の成長はめざましく、その後は周辺の農家に対して自信を持って指導に当たるようになりました。
人材の育成、自立する農家を育てる、これが農業普及に携わってきた私が求めるものでした。

大豊作の甘藷
大豊作の甘藷

蕎麦は貯蔵が可能なので、主食がなくなる端境期に食べることができます。
一年中様々なものがある日本とは違い、季節ごとに穫れた作物で食べつなぐアフガンでは重宝します。
トウモロコシの株間に播いて、70~80日で収穫できます。現地には製粉機がなく、粉砕機で粉が荒いので製麺はできません。
伊藤君が調理方を色々試していましたが、今のところナンに3割程度混ぜて食べるのが良いようです。
畑の肉と言われる大豆は、日本から持っていったものは、理由は分かりませんが、現地は親日家の虫が多いとみえ、非常に虫が付きやすく、パキスタンから持ち込んだものやインドネシアで買ってきた品種を栽培しています。
発芽には苦労しますが、乾燥に強く、通常は1茎に100くらいのところ700ほどのさやをつけます。

飼料作物

アフガニスタンでは財産として牛、山羊等を飼っているので家畜の飼料を確保することは大変重要です。
飼料作物として導入した種類はソルゴー、アルファルファ、燕麦などです。
アルファルファは真夏及び1月~2月の厳冬期を除いて年10回程度刈ることができます。
アルファルファはアフガン原産の植物で我々は改良品種を里帰りさせたことになります。
またアルファルファは食用としても好評です。
ソルゴーは年3~4回収穫できるようになり、単位面積当たりの収量も3~4倍に増加しました。
冬は燕麦やライ麦を使います。燕麦は最も飼料が不足する1月にも収穫でき、冬から春にかけて2~3回刈り取りが可能で一般的に栽培される小麦などと同じ要領で栽培出来るので評判はいいようです。

また、飼料の少ない冬場を乗り切るため、サイレージ作りに挑戦したのですが、最初の2年間は失敗続きでした。
腐敗する原因も掴めず中断も考えましたが、3年目にサイロの側壁にビニールフィルムを垂らすなど、より気密性を確保し、また、ソルゴーと一緒に詰め込んだトウモロコシの糖分により発酵が上手く進んで成功しました。
これにより、農家が冬場の餌を気にすることなく家畜を飼育できるようになりました。

生活に潤いをもたらす作物

アフガニスタンでは緑茶を飲用していますが、ほぼ100%輸入に頼っています。
中村先生の「お茶は作れないか」の一言に乗ってしまい、高温、少雨、土は高アルカリのこの地でお茶作りに挑むことになり、4人の農業現地担当者には大変苦労をかけてしまいました。
いまにすれば、この労力を他の作物に費やしていたらと思うこともあります。2003年から5年間の悪戦苦闘の歳月を経て、漸く番茶・新茶の収穫が可能になりました。
夏場の高温には遮光用にソルゴーや杏の木を植え、アルカリ土壌の改良には硫黄華、酸性肥料や有機物を投与し、繊細な管理作業に慣れていない農家の人に、やって見せ、やらせて褒めるを繰り返してきました。
土壌のpHは6.5以下、出来れば6以下でなければ育たないと言われるお茶ですが、何故か茶摘が出来るほどに生長しました。

かわいい葡萄泥棒
かわいい葡萄泥棒

葡萄に関しては、ここでは野生の株があちこちにあり、葡萄は生えているもので栽培するものとの意識がありません。
そこで、実際に見て回り、良さそうな株を選んで挿し木用に枝を剪定し、挿し木苗を生産、配布しています。これまで、実る寸前に近隣の子供たちに盗み食いされ、味の分からないまま世話をし続けていましたが、そろそろ皆の葡萄を食べる笑顔に会えるのではと思っています。

農薬の自給

農薬の自給とマラリア蚊防除に除虫菊を栽培しています。
除虫菊は日本でも1955年頃までは瀬戸内で盛んに栽培されていましたが、今では、観光用に栽培されている程度です。
これまで農薬用に馬酔木の栽培や煙草の吸殻利用をしてきましたが成功しませんでした。
当初雑草と区別すら出来なかった除虫菊については、今では試験農場の目玉になっています

成果の普及

農業計画の成果を普及する取り組みの一つとして、試験農場の生産物の試食・紹介、意見交換の場として村の長老と関係農家を招待し、広報活動を兼ねた収穫祭を毎年開いてきました。
メニュー・料理法や栽培技術の説明をし、お土産として種子を配布しました。
和気藹々(わきあいあい)、大成功のうちに収穫祭を終えました。試行錯誤の中、教えてやる、与えてやるでなく、彼らのしてきたことを認め、現地の人の目線に立ち、共に生きることが農業普及の理念ではないかと思います。伊藤君の成長を見てもこの活動が意義深いものであったと思います。

農家に招待してもらった食事
農家に招待してもらった食事

共に生きる

終わりに、「教えに行くのでなく、人助けに行くのではなく、共に生き共に喜びを得るために行く」これは橋本さん、伊藤さん、山口さんと共に、ペシャワール会の農業計画の活動に携わってきた進藤陽一郎さんの言葉です。
昨年2008年のパキスタン・アフガニスタンの情勢の変化により、ペシャワール会の現地日本人は中村先生を除いて全員引き上げることを余儀なくされ、ペシャワール会の農業計画は一時中断となりました。
しかし、ダラエヌールの試験農場は現地の農家の人たちにより、作物が栽培され、形を変えて今尚、農業計画は生かされています。

以上で報告を終わります。

食事質疑応答

現地の食事のメニューは?

朝食・・・ナン、砂糖入り緑茶
昼食・・・ナン、焼き飯
夕食・・・ナン、焼き飯、シチューもどきスープ(たまにチキン入り)。

めったにないイチジクつきの朝食
めったにないイチジクつきの朝食

寝具はどのようなもの?

船底型になった手作りのベッドにマットを敷き、夏は蚊帳を吊って外で寝る。
サソリ対策に寝袋は必需品。

水源は?

灌漑用水路はダラエヌール渓谷の下流にあり、二ヵ所の試験農場には使えない。
従ってカライシャヒ農場ではカレーズの水を、順番を待って使用。
ブディアライ農場は直径6m、深さ20mの井戸からポンプアップして使用。

日本人も参加しての田植え
日本人も参加しての田植え

養鶏は試みられなかったのか?

意見はあったが、
①孵化場が近くにない
②餌の入手が困難
③狐・山犬対策
④鳥インフルエンザ対策
これらの目途がつかないので反対した。

余暇には子供たちとサッカー
余暇には子供たちとサッカー

栄養失調とかはなかったか?

話を聞いたことはあるが、直接は見ていない。お金がないと難民にもなれない(バス代もない)現実がある。

田に適した土地か?

水さえ確保できれば可能。中・下流は砂、砂利だが上流は粘土質。

指導は厳しかったと聞いているが?

自分の子供のように接した。

体調を崩されたことは?

10年間の海外生活(JICAなどによる派遣)では赤痢、コレラ、ジンマシンにかかったが、アフガンでは便秘ぐらい。

就学率は?

5割、高学年になると2割ぐらい。

共に生きるとは?

現地の人の目線に立つ。教えてやる、与えてやるのではなく、彼らのしてきた道を認めること。

伊藤和也さん撮影の写真に囲まれて講演する高橋さん
伊藤和也さん撮影の写真に囲まれて講演する高橋さん

伊藤さんのこと

昨年2008年8月26日の伊藤さんの事件が報じられた日のことに質問が及んだ時、それまで穏やかに、訥々とではあっても澱みなくお話しされていた高橋さんは「辛いですね」と言ったまま言葉に詰まりました。
間をおいて、伊藤さんが亡くなったことを前提に話す報道機関の電話を直ぐに切ったこと、電話攻勢や押しかけて来る取材陣の様子、記事の内容、それらを見て「新聞社など、名前だけで判断してはいけませんね」と。
今でも「何故、伊藤君なのだ。何故、ペシャワール会なのだ。何故、ダラエヌールなのだ。何故、何故、と思います」と仰る高橋さんに、明るいニュースを届けられるのは何時の日でしょうか。

農業に惹かれ、アフガンに惹かれ、アフガンの人々に惹かれた伊藤さんは、これからも、彼の地で、何よりも愛した子供たちを見守り続け、人々の心に生き続けることでしょう。
客があれば、もてなすために、娯楽の少ないこの地で楽しみにしている闘鶏の一方の鶏を調理し、1ヵ月の収入分程のご馳走をする。
また、自分たちの年齢さえよく分からないのに、たまたま知った私の誕生日を祝ってくれる。
そんな人たちを見ていると、もう少し治安がよく、若さがあれば、気持ちが触れ合う中で、もう一度農業計画に携わってみたいと仰る高橋さんの笑顔は、常に農業の改良普及に関わられたことの幸せを物語っているようにみえました。

(ペシャワール会大阪 松井千代美 記)

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「MK新聞」は月1回発行で、京都をはじめMKタクシーが走る各地の情報を発信する情報紙です。
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、35年間にわたってMK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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