ペシャワール会 故中村哲さんの父 中村勉の創作を発掘|MK新聞2021年掲載記事

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ペシャワール会 故中村哲さんの父 中村勉の創作を発掘|MK新聞2021年掲載記事

MKタクシーの車内広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただいた中村哲さんの記事を、2000年以来これまで30回以上にわたって掲載してきました。

ペシャワール会 故中村哲さんの父 中村勉の創作を発掘

前列中央(目をつぶっている)が中村勉。N印の野球帽が中村哲少年(中村哲「天、共に在り」NHK出版から)

前列中央(目をつぶっている)が中村勉。N印の野球帽が中村哲少年(中村哲「天、共に在り」NHK出版から)

ペシャワール会の故中村哲さんの生まれや育ちを追っている中で気にかかっていたのは、父親の勉さんについてのまとまった情報がほとんどないことだった。中村哲さんの著書でも断片的に触れられているだけである。
私は2017年4月に、中村哲さんが手本にした筑後川山田堰の見学に来たアフガニスタンの灌漑工事技術者の歓迎会に出席し、福岡市での用を済ませた後、若松市を訪ね、中村哲さんの叔父で作家の火野葦平(ひのあしへい)の旧宅河伯洞(かはくどう)を訪ねたことがあり、火野の仕事場であった2階の書斎を写真に収めている(火野の妹・秀子が中村勉の結婚相手)。
いろいろ教えてもらいたいことが生じてきて、今年の9月初めにペシャワール会会員としてFAXを送ったところ、思いがけず、まだお会いしたことのない坂口博さん(火野葦平資料の会)が資料を送ってくださった。
それは『九州文化』という同人誌全巻の総目次で、各号に中村勉とペンネーム濱二一の作品があった。
とりあえず、同誌を部分的に所蔵している福岡県立図書館にコピーを依頼すると、ふくおか資料室からそれらが送られてきた。
以下は、中村勉、濱二一の作品をもとに、書いてみたものであり、見出しに“発掘”としているが、ペシャワール会のだれかが中村作品を知っているという話はこれまで耳にしたことがないので、あえて“発展”とした。

冴え冴えと思いの澄む秋

『九州文化』という同人誌が1934(昭和9)年に福岡市中島町(現・中央区)金文堂内の九州文化社から刊行された。創刊号の日付は8月1日。
同人のうち7人が「プロムナード」を執筆しているが、その一人、濱二一が中村勉のペンネームで、「十年間、全く自分の文学的耕作を1怠っていた私が、こうした雑誌に関係を結んで、再び文筆を温めるようになろうとは。/もの言わねば腹ふくるる、、、、-このふくるるは瓦斯溜まってふくるるのであるから、この際、健康のために、大いに発散したいと思う。
夢見るような情緒のみが芸術ではあるまい。/最近九州に蟠踞している文学雑誌を観る時、この感慨が特に深い」と書いている(旧仮名遣いや旧漢字は改めている)。

そして本名の中村勉で3ページ近くの長い詩「黄昏断片」を載せている。
黄昏時、山と樹に囲まれた山村で若衆(あんじょ)たちがせっせと稲を刈り、女たちは稲束を担いで帰ったばかり。
山道を一人歩いていると、無宿者、放浪者という言葉が思い出される。
田舎の小駅では子供たちが夜になっても、コマまわし、ジャンケン、石けりなどをして遊んでいて、「若い駅員さんよ、子供たちをあまり叱らないように」と結んでいる。

この1934年の10月号の「秋日和讃」は「何と朗らかな秋ではないか/一本松の根かたに/しょうべん、、、、、を飛ばせる農夫の姿にしてもが/すっかり一つ風物になりきっている」と始まり、「いい秋だ いい秋だ/恋人はいないが/冴え冴えと思いの澄む秋である」と歌う。

翌1935年新年号には本名の「朝―志布志の海濱にて」がある。「檳榔島(びんろうじま)から吹いて来た緑いろの風が 睫毛にじゃれて、、、、/こそばゆい/そしてその感触の/すがすがしさ 檳榔島を洗って来た緑いろの波が/踝にじゃれて、、、、/こそばゆい/そしてその感触の/すがすがしさ」と、自然と戯れ、「ちょっとふりかえってみると/鮮やかに植えつけられた自分の足跡が/先駆とか/発見とか/独歩とか/個性とか/清浄とか/等々々々/すべて好もしい足跡ばかりだ」回顧し、「ああ あすも あるこう」と、ある種の意志で結ぶ。

たまたまこの詩の次に置かれた内田博「蟷螂」は、これまで見てきた中村の作品とは趣がきわめて異なる。
かまきりに食われるままにじっとしている羽虫について、「もし羽虫が悔恨を。涙を流して訴え。それについて歌ったとしても。蟷螂は食うのを中止しただろうか。/涙を流すな。野良犬のように尾を垂れ。涙を流すな。/最後の一本の足をもてあそぶ蟷螂が、さかさに。にたり。にたり。と嗤っている。」と表現する。
私の考えでは、これは中村の抒情的な自然詠の裏側にある世界だ。当時の左翼あるいはそれに近い立場の人間の、徹底的な思想弾圧による鬱屈した内部世界がそこにはあるように思える。

ここで当時の時代背景を中村、玉井勝則(火野の本名)の体験と合わせて簡単に見てみたい。
1931年、玉井は若松港沖仲仕労働組合を結成、書記長に就任。
当時、日本共産党の力は相次ぐ弾圧で弱まっていたが、この労組は中村と通じて日共麾下(きか)の全協(日本労働組合全国協議会)と連絡を取っていた。

弾圧の中で

1932(昭和7)年3月1日 満洲国建国宣言。この年の1月玉井は仕事で上海に派遣され、その間に全国共産党検挙が行われ、2月28日に若松駅に着くと、そのまま2人の特高(特別高等警察)に逮捕された。
中村は非合法活動の責任者であったため、数年の実刑を課された。
玉井はプロレタリア文化連盟など、合法面を担っていたが、労組と全協との関係は隠し通すことができ、一週間ほどで釈放された。
玉井は前年のストライキの頃から、日本共産党の方針に疑問を抱くようになり、自身の検挙後、転向を決意した(以上、玉井の労組結成から転向の決意までの経緯は玉井の自筆年譜=『火野葦平選集』第8巻末尾による。この件についての中村自身の記述は今のところ見つかっていない)。

1933(昭和8)年1月、ヒトラー首相就任。2月、小林多喜二虐殺。6月、日本共産党の指導者佐野、鍋山、獄中から転向声明。
1934(昭和9)年 ナルプ(日本プロレタリア作家同盟)解体。
ところで、入手できたコピーの中で異色なのは35年6月号にペンネーム濱二一の名で掲載している4ページの短編『ざまあみろ!!』だ。
勤務先の主人や両親からはまじめ青年と見られている私が、遊郭の「白い造花のように粉飾した女達」の一人に惚れ込んでしまったが、しまいには冷たくあしらわれてしまうじぶんを、ざまあみろ、と罵倒するという、物語にもならない作品。
転向以前、仲間の間では活動家の指導者であり、かつ廓通いで有名だった中村の自虐的告白である。

『九州文化』35年7月号には茂地正人の『獄中通信』も掲載されているが、それは玉井勝則(火野)と中村夫人・秀子が示した温かな思いやりや差し入れなどへのお礼の言葉である。
さらに8月号の茂地『独房からの手紙』は3通とも中村秀子宛となっている。

入手できた中村・濱作品のごく一部を紹介しただけだが、残りの中村・濱の作品のコピーも入手できるはずなので、その時も何か書けるかもしれない。
最後に濱の詩「月を仰いで」(35年12月号)全文を紹介する。

月を仰ぎながら歩いた/月を仰ぎながら歩きつづけた/月は実に明朗な姿で僕に接近して来る/時々雲に阻まれて姿を消すが/所詮雲は雲に過ぎない
僕にしても時々は石塊につまずく/時々は海にもはまる/だが矢張り起って/何度も何度も起ちあがって/歩きつづける/月を仰ぎながら

付記

前列左端・中村勉、前列右から2人目・火野葦平。1944年4月2日福岡(花書院「火野葦平Ⅱ 九州文学の仲間たち」から)。なお、「九州文化」と「九州文学」は違う雑誌

前列左端・中村勉、前列右から2人目・火野葦平。1944年4月2日福岡(花書院「火野葦平Ⅱ 九州文学の仲間たち」から)。なお、「九州文化」と「九州文学」は違う雑誌

『九州文化』の総目次を坂口博さんから送ってもらわなかったら、この稿は成らなかった。
また、部分的だが同誌を所蔵する福岡県立図書館のふくおか資料室の女性スタッフの厚意ある対応に助けられた。
そしてわざわざ同館まで出向いてコピーを郵送してくれた友人である福岡市内在住の某大学名誉教授にも助けられた。記して心からお礼申し上げます。

アフガニスタン報道寸感と2冊の本の勧め

MK新聞2021年10月号でペシャワール会村上優会長による2回にわたるアフガニスタンの現状報告を紹介することができたが、アメリカ軍撤退直後の首都カブールのパニック報道を見ながら考えることがあった。
連日のカブール空港の映像を見ながら、あれではあたかもアフガン全土がタリバン支配で恐慌状態であるかのような印象を受ける。
首都としてのカブールは米軍占領下の欧米向けのショウウインドウであり、子女教育や女性の自由などは“見せるため”という側面があったはず。
米軍撤退でそれらの風景が消えたのはタリバンのせいだと、タリバン批判が“はやり”になっている。
しかし、ソ連の侵略、米軍の盛大な空爆で自給自足の生活を送る、国民の大半を占める農民には、愛する肉親や友人を失った人たちは無数にいるはずで、その人たちはもう一度米軍の支配を受け入れるだろうか。
復讐法を信じている人たちが、アメリカ軍に来てほしいと、言うだろうか。
強力な外国軍の存在で実現した自由とはいったい何なのか。

そして、ペシャワール会に即していえば、中村哲さんの死後以来、やむを得ないとは思うが、賛歌と聖人化が流行している。
便乗本も出ている。
しかし、聖人化は中村哲さんが最も嫌ったものだったではないか。
一面的なカブール報道、タリバン批判、中村哲聖人化は同根のように思えて仕方がない。それに便乗していれば、楽なのだろうか。
中村哲さんとペシャワール会の現地での活動を支えたのは力ではない。会員の拠金と有志の寄付など民間のお金と、限られた地域に根差した地道な何十年にもわたる努力の成果とそれがもたらした地元住民との信頼関係である。
カブールで、アフガニスタンで、それぞれの地域に根差した活動を地道に続けていくことでしか必要なものは手に入らないはずだ。
以上、この稿冒頭に紹介した中村勉同様「腹ふくるる」思いをメモしてみた。

なお、これまで10年近く、アフガン関連文献を求めて、3種ほどの関連文献目録と、大阪府立図書館、大阪市立図書館、さらにジュンク堂の検索端末で調べ、これはと思うものに目を通してきた。
その中には外務省欧亜局第一課の『アフガニスタン国内視察報告』(1936年2月)100ページ余りもあるが、この機会に、アフガン理解に資する本2冊だけを紹介したい。

佐々木徹著『アフガンの四季』中公新書1981年。
著者は1944年生まれ(中村哲さんの2歳上)1971年、大阪外国語大学ペルシア語科卒、71年~74年カブール大学文学部史学科在籍。現地の四季ごとの生活が平易な言葉で描かれている。

林裕著『紛争下における地方の自己統治と平和構築 アフガニスタンの農村社会メカニズム』ミネルヴァ書房。
著者は中村哲さんも使っていたダリ語(ペルシア語由来)を使って現地農民と対話しており、その内容は中村哲さんの現地理解と重なる。
しかもダリ語を使える学者は貴重である。この本は林さんが関西学院大学に在籍していた時の出版で、お会いしようと思ったが、大学に連絡した時は既に福岡大学に移籍された後だった。

(2021年10月11日記)

ペシャワール会

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(MK新聞2021年11月1日号)

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

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1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
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1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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