中村哲医師とペシャワール会の35年【上】飢餓を救う命の水|MK新聞連載記事

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中村哲医師とペシャワール会の35年【上】飢餓を救う命の水|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、2019年12月にアフガニスタンで亡くなった中村哲医師に関する記事を、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただき掲載してきました。
2000年以来、これまで30回以上にわたって中村哲医師に関する記事を掲載してきました。

中村哲医師を支援してきたペシャワール会大阪による、2020年8月5日の講演内容を基にした、MK新聞2020年10月1日号の掲載記事です。

ペシャワール会大阪の松井千代美さんが2020年8月5日、八尾市久宝寺「まちなみセンター」で行われた集会でお話されていた内容を文章にしたものです。(MK新聞編集部)

中村哲医師とペシャワール会の35年【上】飢餓を救う命の水

遥かなる地、ペシャワールへ

人様の前でお話するなんて考えたこともなく、とんでもないと一旦はお断りしたのですが、少人数の座談会程度と言われ、中村哲先生が直接お話出来なくなった今、どんなに下手で上手く伝えることが出来なくても、お伝えすることを考えなくてはいけないのかなと、厚かましくもここに座らせていただきました。
専門的なお話や難しいお話は出来ませんが30余年間見てきたことや感じたことを少しお話させていただきます。
拙い話ですが、お時間をいただきたいと思います。

アフガニスタンは、正式名称はアフガニスタン・イスラム共和国と言います。先程のスライドにもありましたが、日本から西へ6,000km離れたところにあります。
国土の面積は日本の約1.7倍で大半が山岳地帯です。人口の8割以上が農民という農業の国でしたが干ばつや戦乱が続き、農業が出来なくなった人々は、軍閥や米軍の傭兵になるか、都市部やパキスタン・イランなどの近隣諸国へと逃れて行かざるを得ない状態が続いています
(※面積:65万2,864㎢―国土の80%山岳地帯、人口:約2,500万人、1919年イギリスの保護領から独立、1973年迄王政)。

そのアフガニスタンで35年間、正に命を賭けて現地のためにと活動されてきた中村哲先生が昨年の2019年12月4日、アフガニスタンで銃撃されました。
哲学者・鶴見俊輔氏に「日本の希望は中村哲だけだ」とまで言わしめた人に突然訪れた死でした。ただただ、無念の一言です。

「100の診療所より1本の用水路を」と聴診器を手離し、命の源「水」に取り組む中村先生
「100の診療所より1本の用水路を」と聴診器を手離し、命の源「水」に取り組む中村哲先生

あの日以来、中村哲先生のことは新聞やテレビでかなり報道されましたのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、少し、先生の歩まれた道や八尾市との関わりをお話いたします。
中村哲先生のパキスタン・アフガニスタンでの35年は、前半15年は医師として、後半の20年は2000年からの中央アジアの大旱魃を受け「飢えや渇きは薬では治せない」と命の水を求め土木屋として活動されました。
そして、その35年間は欧米やソ連や短期逗留のジャーナリストからの情報ではなく、内側からアフガニスタンを見続け、著書や報告書などで発信し続けた歴史の証人でもありました。
中村哲先生が初めてパキスタンの地を踏まれたのは1978年福岡登高会のティリチミール遠征隊の同行医師として行かれた時のことです。
その後、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の要請で1984年「ハンセン病コントロール計画」に参加するため、ご家族と共にパキスタンの北西辺境州の州都ペシャワールに赴任されました。
その前年に中村哲先生の活動を支援しようと同級生や山のお仲間、教会の方々というお顔の分かる方々で結成されたのがペシャワール会です(発起人82名、1983年12月632名 会報第一号発刊、1984年4月1,300名)。

まず、医療ですが、キリスト教系の団体から「ハンセン病コントロール計画」へ参加要請があった時、1期3年で2期ということでしたが、すぐに応じました。
それは、山が好き、蝶々が好きというのと同時に、1978年福岡の登山隊に医師として帯同した折、医師がいるのを聞きつけて、遠くから多くの患者が押し寄せたけど、薬や時間に限りがあり、充分な対応が出来ず、恨めしそうな視線を背にその場を去ったことが、ずっしりと重く心に残っていたからだそうです。

サンダル工場からベッド数70の大病院まで

ペシャワールミッション病院に赴任の2年後1986年には、来る患者を待って診るだけでなく、ハンセン病の合併症としては一番多い「うらきず」と呼ばれる足底穿孔症予防のサンダル工場を作りました。
また、アフガン人医療チーム結成のため、日本での支援者を求め帰国。韓国でのハンセン病の研修(再建外科)。翌1987年にはアフガン人チームを率いてアフガン難民キャンプへ巡回診療を始め、1989年にはJAMS(日本・アフガン医療サービス)設立。
無医地区での診療体制の確立を視野に入れ、院内に人材育成の為「診療員育成コース」を開設。
診療員選定にあたっては、故郷が大好き、都会に出るのは嫌という若者を無理に引っ張ったそうです。
都会に憧れる人は仕事が出来るようになると都会に残り、故郷へは帰らないそうです。これでは山岳地帯の医療従事者にはなってもらえません。
だから故郷大好き、出たくないという若者を診療員として育成していました。1991年ダラエ・ヌールに初の診療所を開設。1998年には、敷地面積2,000坪、建坪1,000坪でベッド数70床総工費7,000万円の基地病院PMS病院(ペシャワール会医療サービス病院)を完成させました。

家に水道がないので、川に水くみや洗濯をしにきた子どもたち
家に水道がないので、川に水くみや洗濯をしにきた子どもたち

この病院を基地として10ヵ所(パキスタン山岳部2ヵ所。アフガニスタンの山岳部3ヵ所。カブールに5ヵ所)の診療所を運営。
山間部に半年毎の交代でチームを派遣し診療に当たりました。
しかしこの基地病院は政情の変化により、パキスタンに譲渡することになり(2008年)、医療部門は現在はダラエ・ヌール診療所のみです。
診療は全て無料でしたが、処方された薬を売る人が出てきたので、初診料として10円、20円を徴収することになりました。もちろん、本当に貧しい人やハンセン病の人は無料です。

大旱魃(かんばつ)の中、命の水をと「緑の大地」計画

その後、医療のみならず2000年から始まった中央アジアの大旱魃で、国民の約半分の1,200万人が被災し、内400万人が飢餓線上にあり、放置すれば100万人が餓死するだろうとWHOが発表する中、ペシャワール会は2002年3月「緑の大地」計画を発表し、水さえあれば生きられると水源確保に乗り出しました。
中村哲先生の医師から土木屋への人生最大の決心であり転身でした。

「緑の大地計画」の骨子は
① 飲料水源の確保
② 農業用水路の建設
③ 乾燥に強い作物の研究・普及の三本柱で、これにより旱魃で荒廃したアフガン農村の復興を長期的な展望で目指すものでした。

①の飲料水源については、既に2001年から井戸掘りは始まっており、2008年までに飲料用1,600本、灌漑用を13本掘り、カレーズ(カナートとも言われる地下用水路)を38ヵ所修復しました(風の学校に協力依頼)。
この間に、9・11の事件があり、この最貧国ともいえるアフガンで、「テロとの戦い」と声高に叫ぶアメリカ及び有志連合はアフガンを空爆。
そんな中、事件の翌月10月~翌年3月までに27万人分の食料をペシャワールからアフガンに運びました。
費用は、2001年10月13日国会でテロ特措法成立前参考人として出席し、「自衛隊派遣は有害無益。飢餓状態の解消こそが最大の問題」と発言し、国会は発言を取り消せなどと言う議員もおり、紛糾したものの国民の多くから寄附金が寄せられこれを当てることが出来ました。国会発言だけでなく全国各地で講演し募金集めにご自身が奔走されました。
食料の配付で残ったお金を元に「緑の大地計画」は実行されました。

子どもは、川にかろうじて残った泥水を飲んでしまう。水不足が、多くの子どもたちの命を奪った
子どもは、川にかろうじて残った泥水を飲んでしまう。水不足が、多くの子どもたちの命を奪った

この頃、実は先生の御次男が脳腫瘍に罹られ大変な時期だったのです。発病後1年半、2002年12月にご子息は10歳で帰らぬ人になられました。
その時の先生のお気持ちは察するにあまりあります。ご子息と多くのアフガンの民の命を抱えていらしたのです。

②の農業用水路の建設については、井戸掘りに並行して2003年からクナール川の水をガンベリ砂漠まで引き込む用水路を創り、砂漠を耕作地に変えるという壮大な計画に着手し、2010年までに27㎞の用水路を創りました。
27㎞といえば近鉄上本町から五位堂辺り、八尾までは10㎞弱(9・6)ですからすごいお仕事だったと思います。
アーベ・マルワリード(真珠の水)と名付けられた用水路は砂漠16,500ha(大阪市の約4分の3)を耕作地に変え、65万人の人が暮らせるようになりました。

用水路建設には現地の人を雇用しました。現地の人はほとんどが石を扱うことには慣れているので建設作業に特別の訓練は必要ではありませんでした。
大がかりの機械が無くても地元の人が造り、地元の人が維持修復出来るよう工法は江戸時代に日本で行われていた方法を採用しました。
蛇篭を使って護岸を築き、取水口は福岡県の筑後川の山田堰で用いられている斜め堰を参考にしました。蛇篭は1×1×2と1×0.6×2mの2種類を造りました。
また護岸に柳を植えることにより、その根が石に巻き付き護岸を補強しました。
そして、用水路が完成し農業ができるようになるまでは、日当の240円が人々の生活を支えました。
傭兵にならなくても家族を食べさせることができたのです。総てが地元の人の為に、地元が望むことをするが第一義でした。

③の乾燥に強い作物の研究・普及では、ダラエヌール渓谷の村に借地し、試験農場を作ることとしました。
ここでは、既に200以上の井戸が掘られたうえ、カレーズが再生され、農業が復活していたからです(土地への想いが強いアフガニスタンで借地を可能にしたのは、長年のこの地での医療活動により、信頼を得ていたからです)。

共に生き、共に喜びを得るために

農業の指導者として、稲田定重さんと高橋修さんというこれ以上の方は居ないのではという専門家お2人を得て2002年3月の地質調査から始まり、農業だけでなく農業を志願する若者をも育てられました。
お二人とも公務員時代に農業改良普及員を経験され、稲田さんは福島県庁から村役場に派遣され9年間村づくり活動に携わられ、退職後は農業の傍らドキュメンタリーの企画、制作をされていました。

先ほど流していました「癒しのキャラバン果てしなく」は1998年NHKで一時間ものとして放送されたものでコーディネーターは稲田さんです。
一方高橋さんは京都府を定年退職後、JICAの専門家として約10年間タイやカンボジアなどアジア各地で活躍されてきた方です。
70歳を超えてペシャワール会の活動に、それも農業部門の立ち上げから参加されています。

先ほど申し上げました2002年3月の現地調査に始まり2008年日本人が引き上げるまで携わられました。
その間、5回アフガンに行ってらっしゃいます。
ここでも、現地主義は健在で、現地の知恵を生かし、それに少し手を加える。決して日本流を押し付けないということでした。
「食べ物さえあれば心は荒まない。農村の安定は国家の安定につながる」これは高橋さんが講演会で仰った言葉です。
私に人間社会を形成するうえで「農業」が持つ重みを感じさせてくれた言葉でした。
中村哲先生に心酔し、高橋さんの指導を受けながら活動したワーカーの進藤さんは「教えに行くのでなく、人助けに行くのではなく、共に生き共に喜びを得るために行く」と記しています。

ペシャワール会大阪:松井千代美

1944年 愛媛県弓削島生まれ
1963年 広島県立因島高等学校卒業
1965年 大阪府立大阪社会事業短期大学卒業(1981年、大阪府立大学社会福祉部設置により1982年3月廃止)
1988年 ペシャワール会入会

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、35年間にわたってMK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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