ターリバーン再支配下のアフガニスタンへ㊤|MK新聞2023年掲載記事

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ターリバーン再支配下のアフガニスタンへ㊤|MK新聞2023年掲載記事

MKタクシーの車内広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただいた中村哲さんの記事を、2000年以来これまで30回以上にわたって掲載してきました。
今回はRAWAと連帯する会の桐生 佳子さんの記事をご紹介します。

MK新聞2023年8月1日号掲載分です。

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ターリバーン再支配下のアフガニスタンへ㊤

8年ぶりのアフガニスタン。
ずっと行こうと模索していたがビザが取れなかった。
今回突然のことだったがビザ申請が認められたのである。
理由はわからない。3月12日に出発。ドバイ経由でアフガンに入国。
早朝のフライトでカーブル空港に着くとまだ朝の⑦時半、入国手続きもスムースに進み外に出ると朝日がまぶしい。
1年半ほど前のあの混乱が全くうかがうことができないごく当たり前の以前の空港と同じ光景に、なぜかしっくりしない。
これでよいのか? もう終わったことなのか? という気持ちで出迎えの所へ向かった。
現地の知り合いが用意してくれた車に乗り込み、町に入る。
あちらこちらにターリバーン兵士が銃を持ち検問に当たっている。
一見して私たちが外国人ということは分かっているだろうが、ドライバーと一言二言言葉を交わすと「行け」と手で合図をする。
大方は何も言わずに通してくれる。

何か違和感を覚えた。
よく考えると町に色がなくなっているではないか! 黒いのである! 何が黒いかというと女性たちの服装がこれまでと違い、全身真っ黒の「アバヤ」という衣装なのである。
これまでアフガニスタンで「アバヤ」を見かけたことはなかった。
せいぜいブルカである。ブルカはほとんどブルーで、ほかにも色はあるが皆明るい色である。
ところが今回のカーブルの街中はほとんどが真っ黒だった。若い女性も黒である。
のちに分かったことだが郊外に出るとブルカが多かった。

バス停の女性たち

 

ホテルはカーブル市の中心部シャレナウ公園にほど近い古いホテル。
敷地はゆったりし、中庭を囲んで建物が並ぶ。このホテルに入るにも厳重なチェックがある。
車はミラーを使って車体の下も調べる。
カバンの中までチェックされてから、やっとフロントに入れる。部屋は4階だった。
もちろんエレベーターはないので階段で上がる。さすがに重いトランクは運んでもらった。部屋は広い。
日本のホテルとはずいぶん違う。けれどもとにかく古くてソファーは布地が破れている。
天井にはおしゃれにいくつもの電灯がついているが、ほとんどは明かりがつかない。
シャワーはあるが、なかなかお湯は出ないし、水栓を開けるには固定されたシャワーヘッドの真下に水栓があるのでびしょぬれになる。
で、このシャワーを使ったのは1回だけだった! 3月はまだ寒いのである。

ホテルでの食事は中庭に面した食堂で食べることができる。
私はアフガニスタンやパキスタンに行くと毎回のように胃腸を壊すので、今回は極力アフガン料理を食べないことに徹した。
どうやら現地の油が合わないようである。
理由は、日本で知り合いのアフガン人が作ってくれるアフガン料理で胃腸を壊したことは一度もないからである。
他にも現地での緊張感も関係して精神的なものかもしれない。
というわけで、ここではピザを頼むことが多かった。本当においしいピザで飽きることはなかった。
朝食は毎日ほとんど同じメニューだった。ナンと飲み物はティーバックの緑茶か紅茶、ミルク。ジュースがある時も。卵料理は頼むと作ってくれる。ゆで卵を置いてある日もある。他に毎日必ずあるのはニンジンのジャムとリンゴか何かの果物のコンポート。両方ともすごく甘い。

ホテルの中庭はあずまや風の建物やハト小屋がある。
ちょうど行ったときはあんずの花の咲く頃で1本の大きな木があり、きれいな花が満開だった。
芝生が美しく、通り道の石畳にはたくさんの植木鉢が整然と並べられている。
古いけれど、静かで居心地の良いホテルだった。

今回の旅の目的は、2021年8月のターリバーンによる政変以後、アフガニスタンの女性や子どもたちはどのような状況にあるのかを知ることであった。
とりわけ、RAWAと連帯する会が建設・運営をサポートしている学校を訪問すること、RAWAが運営する「秘密の学校」を見学することを大きな目的に上げていた。
どちらもカーブルから外の地域にある。

驚いたのは、私たち外国人ツーリストはカーブル市内ならどこに行くのも自由だが、市外に出るときは許可証が必要ということだった。
ツーリストオフィスに出向き、許可証を申請しなければならない。
この時のいきさつも色々あるが、オフィスに登録されたのガイドを雇わなければならなかった。
ちなみに、現在のアフガニスタンでは、はっきりとターリバーンとわかる人たちと、一見ごく普通の市民や学生ではあってもターリバーンと通じている人が大変多く存在しているということである。
ホテルの従業員も町の商店の店員も警戒するに越したことはない。
というわけでこのガイドさんにも気を付けて対応せざるを得なかった。
ただ、個人的には優しい人のようで、3日間行動を共にしたが別れるときに「あなた方が訪問したところはとても貧しい地域で、子どもたちは学用品も買ってもらえない。
次回来るときはそういうものを支援してやってほしい、また清潔な飲み水がなく、すぐに病気になるのでそれも改善できるように何とか力を貸してほしい」と言っていた。

シャレナウ公園横の屋台

 

ナンガルハール州への1日旅行

カーブルとナンガルハール州の州都ジャララバードへは車で3時間ほど。
以前、もう20年近く前に行ったときは4時間半ほどかかったように記憶している。
その頃の道は穴ぼこだらけで砂煙を上げて走った。今はもう道路は整備されていて走りやすい。
早朝5時の出発だった。まだ町は暗い。カーブル川に沿って走る。
少し明るくなりかけの頃、カーブル川を見ると、なんと白く泡立っているのである。なぜだろうと思った。最近はどこでも洗剤を使う。下水処理がきちんとなされていないのでこのように泡立っているのではなかと推測した。間違いかもしれない。

 


道はどんどん険しい山岳地帯に入っていく。切り立った岩と激流に挟まれて車はひた走る。
確か以前はこの辺りでは逃げ場がないので襲われることが多かったとも聞いたことがある。
もちろん今はそんな心配はないように思う。途中少し地面が開けたところがあって小さな建物があり、一人の男性が表に出ていた。
私たち一行の男性たちが用を足したいとその人に頼むと、岩の間を降りて行ったところを教えてくれた。
女性はダメということだった。その後、道はだんだん下っていく。行きかう車の数も多くなっていく。
だいぶん川幅が広くなり、川向うには畑や集落も見えだし、商店が並ぶところに来た。
ここでは川でとれた魚をフライにして食べさせる店があった。
出発が早かった私たちは朝ご飯を食べていない。ここで朝食をとることにした。
とりたての鯉を2匹、天秤にかけて重さをはかる。
すぐに包丁さばきも鮮やかに鱗とはらわたをとり、ぶつ切りにする。
大きな鍋に油がたっぷり入っている。ジャガイモのフライドポテトを作っている。
その鍋に今切ったばかりの魚をいれて油で揚げる。部屋は清潔とは言い難いが仕方がない。
ナンとフライドポテト、魚のフライが運ばれてくる。
どういうわけか、油切りの紙はハングルで書かれた新聞紙。

とりたての鯉

食事後、店の前の幹線道路を見ていると、トラックに家畜を載せていたり、家財を満載にしたトラックなどがどんどん通り過ぎていく。
私たちは一路ジャララバードを目指す。
ジャララバードでは中村哲さんの水路や取水口などを見学し、中村哲さん記念公園にも行った。
美しく整備されていて、芝生が敷き詰められていて、周囲には美しい花が咲いていた。
真ん中には哲さんの顔が描かれたタワーがあった。


偶像崇拝を嫌うターリバーンだが、哲さんの顔は大丈夫のようだ。
ここでは私たちが日本人と知ったアフガン観光客から熱烈な歓迎を受けた。
中村哲さんの素晴らしい偉業のために、日本人全員が喜ばれているので何か面はゆい気持ちになった。
哲さんと一緒に仕事をしたという男性が身振り手振りで哲さんの素晴らしさを伝えてくれているのを見て涙が出た。
テレビの映像ではなかなか全容がわからない中村さんと現地の人々で作られた水路の素晴らしさと青々と緑化した広大な土地を見て心から感動した。
帰りはジャララバードで約束していた人とも会い、遅めの昼食も取り、また一路カーブルへ向かった。
帰りは少し雨が降り、日も落ち、ぐんぐんとスピードも上がっていった。
カーブルの街に入るあたりだったか、ターリバーンの検問所で車を止められた。
何か! と一瞬緊張したが、なんとその兵士は英語が堪能なのか英語で話したかったのか、気さくに声をかけてきて、何かしてほしいことはないかとか、まあ、お茶でも飲んで行けというようなことを言った。
ありがたく断って、ホテルへの道を急いだ。

(次号に続く)

 

■RAWA

Revolutionary Association of the Women of Afghanistan (アフガニスタン女性革命協会)は、アフガニスタンにソ連が侵攻する少し前の1977年、アフガニスタンの首都カーブルでミーナーという女性により設立された。73年のクーデターで王政から共和制となったものの基盤は弱く、78年の4月革命で急進的な親ソ連政権が樹立し、いきなり識字教育の徹底化(違反者の処罰)・イスラームによる土地所有権を無視した土地改革など、当時のアフガン社会では極端と思われる政策がとられ、社会は混乱した。その中でミーナー「社会の変革なくして女性の解放はない」と命懸けで女性たちのために活動をつづけた。10年後、親ソ連政権の諜報部員らによりミーナーは暗殺されたもののRAWAは、諸外国の支配からの解放、自由、民主主義、社会正義、そして女性の権利の獲得をめさして活動をつづけている。

■RAWAと連帯する会

2001年のアメリカを中心とする連合軍によるアフガニスタン侵攻の後、日本では、アフガニスタン全土への攻撃に対し、ブッシュ大統領の責任を問う「アフガニスタン民衆法廷」が開かれた。04年には、アフガニスタンとのかかわりを継続するために「RAWAと連帯する会」が立ち上げられ、さまざまな活動に取り組んでいる。とりわけRAWAによる教育活動への支援に力を入れている。

■「RAWAへのカンパのお願い」

アフガニスタンの女性や子どもたちの活動を支援するということは、毎年きちんとお金を送ることなのです。彼女たちは世界からの支援が減っている中で、またターリバーンの再支配のもとで、貧しい人たちに食糧・教育・医療を提供するために頑張っています。どうぞよろしくお願いします。

RAWAと連帯する会はお寄せいただいた会費(年会費2000円)やカンパは全額アフガニスタンに届けています。諸経費は物販の収益等で賄っています。(アフガニスタンへの渡航費用もすべて個人負担です)

<振込先>

口座名:RAWAと連帯する会

郵便振替口座番号:00930・1・76874

<連絡先>

Email:rawa-jp@hotmail.co.jp

☎090・3656・7409(桐生)

 

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40年以上も発行を続けるMK新聞を、皆さま、どうぞよろしくお願いします。

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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