戦乱と大旱魃のアフガニスタンから―ペシャワール会 講演会に参加して|MK新聞2008年掲載記事

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戦乱と大旱魃のアフガニスタンから―ペシャワール会 講演会に参加して|MK新聞2008年掲載記事

MKタクシーの車内広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただいた中村哲さんの記事を、2000年以来これまで30回以上にわたって掲載してきました。

MK新聞2008年11月1日号の掲載記事の再録です。
原則として、掲載時点の情報です。

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戦乱と大旱魃の アフガニスタンから―ペシャワール会 講演会に参加して 金子恵美子(かりの会)

多くの人々の関心の中で

去る2008年9月14日、大阪市中央区の市立中央会館で、「ペシャワール会」事務局長の福元満治氏の講演会「人災と天災の荒野~アフガニスタンからの報告」が開かれ、参加してきました。
ご存知のとおり、8月26日に「ペシャワール会」日本人ワーカーの拉致殺害事件が起きています。
こうした胸痛い事件があって初めてマスコミでも取り上げ、人々の関心が向くというのは本当に皮肉なことです。当日は会場一杯の人々であふれていました。

講演内容は、自ずと今回の事件が中心になりましたが、アフガニスタンの歴史、「ペシャワール会」の理念と歩み、そして今回の事件の背景と犠牲になられた伊藤和也さんのことなど、密度の大変濃いものとなりました。
この紙面で全てを書くのは難しいので、印象に残ったことだけを書かせてもらおうと思います。

 

「人災と天災の荒野」アフガニスタン

アフガニスタンは西アジアに位置する人口2,200万、その95%が農民という農業国家です。
乾燥地、砂漠地帯であるアフガニスタンの農業を可能にしているのが、国のど真ん中にドスンと腰を下ろしているヒンズークッシュ山脈の雪が解けて流れ出る水のおかげとのこと。
アフガニスタンには「金がなくても生きていけるが雪がなくては生きていけない」という言葉があるそうです。
ところが、1999年位からこのヒンズークッシュ山脈の水が涸れ始め、数世紀に一度という大旱魃に見舞われ、それは年々深刻になっています。
田畑は涸れ、人々は非衛生的な水を飲み、その結果、伝染病が蔓延し数多くの、特に幼い命が失われています。

その上に、1979年の旧ソ連によるアフガニスタン侵攻と9年間に及ぶ戦争。この間に200万人が死に、600万人が難民になりパキスタンなど国外への流出を余儀なくされました。
1989年の旧ソ連軍の撤退後、難民の帰還支援などの目的で国際団体がアフガニスタンに押し寄せ、20億ドルという莫大なお金が使われましたが、旧ソ連の支援を受ける共産党政権とアメリカの支援を受ける反政府勢力による内戦が続き、難民は国に戻ることはできなかったと言います。
1991年には、湾岸戦争が勃発し、西側NGOの撤退が相次ぎ、200余りもあった国際支援団体がみなアフガニスタンから姿を消してしまったとのことです。
「国際支援」というものを考えさせられる話です。
そして92年に共産党政権が倒れると、地方から軍閥が首都カブールをめざして市街に押し寄せ市街戦が激しさを増すのですが、皮肉にも農村には「平和」が訪れ、200万もの難民が自力で故郷に戻ったとのことです。
1993年にはアフガニスタンの軍閥による連合政権ができるのですが、軍閥間の争いが続き、国土は荒廃していきます。

このような時、パキスタンの難民キャンプに設けられたイスラムの神学校で学んだ学生たち(タリバン)による決起がなされ、1996年に首都カブールが制圧されタリバンによる暫定政権が打ち立てられました。
タリバンの掲げた古くからの習慣と厳罰主義に基づく「平和と秩序回復」の目標は、都市生活者には受け入れがたいものであったようですが、軍閥の抗争にうんざりしていた多くの人々、特に農村共同体の人々には違和感なく受け入れられました。
アフガニスタンは次第に治安を回復し、大きな安堵感に包まれていったと言います。
しかしながら「国際協調」しないタリバン政権に対し、国連安保理は1999年と2000年に経済制裁を課します。
私たちの記憶にアフガニスタンという国を印象づけたタリバンによる「バーミヤンの石仏の破壊」はその直後に起こった事件です。
ここに先述した大旱魃がアフガニスタンを襲います。
このような瀕死の状態にあったアフガニスタンに、2001年10月、「反テロ戦争」の名による米英軍の集中砲火が浴びせられ、今に続いています。

 

ニヒリズムと原理主義

捕まった犯人の一人は21歳のアフガニスタンの青年です。
「大金が手に入る」として犯行に加わったと自供しているとのことです。講演者の福元さんは怒りを通り越して情けないと言っていました。
そして、この事件は一人の青年の倫理や道徳の問題ではないのだと。
当初から福元さんたちは、この事件は、「ペシャワール会の活動を知らない、又タリバンなどの政治的組織の犯行ではなく、金目当ての事件だろう」と予想したとのことです。
ペシャワール会の24年に及ぶ現地の人と一体となった現地の人のための活動を知っていれば、絶対このようなことはしない、またタリバンのような政治的組織であれば、そのことの政治的マイナスを考えてやらない、アフガニスタンの中で広がりつつある日本への不信を背景とした物取りであろうと推測されたということです。

長く続く戦乱と大旱魃の二つが、アフガニスタンの人々の経済的貧困と精神の荒廃を生んでいるということを福元さんは今回の事件の原因に挙げられていました。
この30年にも及ぶ戦乱の中で生まれた多くの難民。犯人の父親も故郷の土地を追われたそんな一人であったと言います。
青年は父親の収容されたパキスタンの難民キャンプで生まれ育ちました。
何百万人という人が収容されている難民キャンプには、自然もなく、金もなく、ただその日を生き延びるだけの生活。
夢や希望が描けず、人々の心は荒れ果て、青年たちはニヒリズムや原理主義へと向かうようになると。
日本の日雇い派遣に追いやられている青年の心情風景にも重なると福元さんは言われていました。

今はパキスタンでタクシーの運転手をしているというこの父親は、伊藤さんが活動していたダラエヌールの親戚から「現地語だけでなく少数民族の言葉も話し、農業を教えてくれて地元の人々から非常に感謝されている人だったと聞いた。それを知って一層悲しくなった。伊藤さんの家族に申し分けない」と語ったとのことです。
本来ならば手を携える伊藤さんと犯人の青年だったはずなのです。
獄中の青年もこのことを理解したときに、自分の犯した過ちの深さと大きさを真に知るのではないでしょうか。

そして、私もまたアフガニスタンに悲劇をもたらしている戦乱を、米国への給油活動ということで手助けしている日本国の国民であるということ、今回の無念な事件とも決して無縁ではないのだということを自覚しなければならないと思いました。

 

アフガンを愛した伊藤和也さん

最後に、伊藤和也さんという人について、そのご家族について感銘を受けたことを書きます。
伊藤さんは、2003年、「僕に何かあったら、アフガニスタンにこの身を埋めてくれ」と言って家を発ったとのことです。
26歳の青年にこのような覚悟を持たせたものは何だったのでしょうか。
伊藤さんは幼い頃から農業に関心を持ち、農業高校、農林短大へと進み、アメリカの農家でも農業経験を積んだと言います。
その伊藤さんの心を捉えたのがアフガニスタンでした。
アフガニスタンを緑の大地に変え、子供たちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づける力になりたい、というのが伊藤さんの「ペシャワール会」ワーカー志望の動機でした。
そしてアフガニスタンでの5年間は水を得た魚のようであったと言います。
農業は伊藤さんの天職であり、アフガニスタンはそのために準備された地であったと思えてなりません。
現地の人々に溶け込み、全身全霊でアフガニスタンの地を緑の大地に変える活動に打ち込んだ伊藤さんは、アフガニスタンを愛し、子供たちを愛し、趣味でもあるカメラにその愛する多くのものたちを収めました。
テレビにも映った、菜の花畑で菜の花を片手にニッコリ微笑む少女の写真は、伊藤さんの思い描いたアフガニスタンの未来、暖かくて美しい夢をそのまま写し出しているように思えます。

5年間のアフガニスタンでの実践の中で、伊藤さんは人間的に大きく成長したと誰もが言っています。
その深い悲しみの中にありながらご両親は、「和也は家族の誇りであり、胸をはって自慢できる息子であります」と言われ、9月1日に行われた告別式では、拍手をもって送り出して欲しいと言われたそうです。
伊藤さんはこのご家族の希望により約700名の参列者の拍手によって旅立たれ、その遺骨の一部は伊藤さんが愛したダラエヌールの地に戻るそうです。
伊藤さんは帰国してアフガンに戻るとき家族が「行ってらっしゃい」と送り出すと、「行くんじゃなくて帰るのだ」と言って出て行ったそうです。
伊藤さんはその望みどおりアフガニスタンの土になりました。アフガニスタンを緑の大地に変えていくアフガニスタンの人々と「ペシャワール会」と共に永遠にアフガニスタンの人々の中で生き続けることでしょう。
そして何よりも、アフガニスタンと日本を真の友好で結ぶ永遠の礎石となり、日本がアジアの一員として進むべき道を照らしてくれることでしょう。
伊藤さんが生きたのは31年間だけでしたが、やることをやった生涯であったと思います。しかし、その死はやはり無念でなりません。

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、35年間にわたってMK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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