中村哲医師とペシャワール会の35年【下】想いを受け継ぎ伝える|MK新聞掲載記事
目次
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、2019年12月にアフガニスタンで亡くなった中村哲医師に関する記事を、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただき掲載してきました。
2000年以来、これまで30回以上にわたって中村哲医師に関する記事を掲載してきました。
中村哲医師を支援してきたペシャワール会大阪による、2020年8月5日の講演内容を基にした、MK新聞2020年12月1日号の掲載記事です。
ペシャワール会大阪の松井千代美さんが2020年8月5日、八尾市久宝寺「まちなみセンター」で行われた集会でお話されていた内容を文章にしたものです。(MK新聞編集部)
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中村哲医師とペシャワール会の35年【下】
世の中の人の役に立つ人になれ 一隅を照らす
昨年、事件の後、テレビの番組で先生のことを尋ねられた時、気温が50度にならんとするかの地で、長年寝食を共にし、井戸掘りや用水路建設に長く関わった元ワーカーの蓮岡さんは、「先生が、現地の人に対して威張ったところを見たことがない。活動を誇らし気に語るところを見たことがない。常に現地の人に敬意を払い、ワーカーやその家族にも心をくだいて計画を立て、作業を進められていました。水は砂漠を潤しただけではなかったということを実感しました」と述べています。
「世の中のお役に立たなければいけん。お前はそのために生まれてきた」
幼い頃からお父さんにそう言われていたそうです。
論語を素読し、多くの港湾労働者を束ねる家で育ち、キリスト教の洗礼を受け、座右の銘はと問われると、伝教大師最澄の「一隅を照らす」ですという方でした。
私も昔、徳洲会病院でお話を聴き、その後の懇談会で「何の資格もない私に出来ることは」と尋ねました。
先生は「何か大きなことをしようとしなくても、身の回りの小さなことで良いのです」と仰っていたことを思い出します。
今思えばまさに「照一隅」だったのだと気付きました。
そんな先生に、現地では、中村哲先生ありがとうではなく、「中村先生を遣わせてくれたアッラーに感謝」だそうです。
人生の一番大きな転機は医者から土木屋への転身だったと仰る先生は、パシュトゥン語・ウルドゥー語・ペルシャ語が飛び交う現場で泥にまみれ、重そうな袋を担ぎ、掘削中の井戸に入り、中学の同級生に「あの運動音痴が」と驚かれる重機操作をなさっています。
先生はきっと楽しかったのではと思います。
私が、2019年5月に先生を新大阪から講演先の河内長野市にお連れした時のことですが、河内長野駅から「これから先生をご案内しますので」とお電話し、着いた時も「今日の講演会でお話される中村先生をお連れしました」と言ったのですが、校門で守衛さんに、当然ですが、名前を書くように言われ、瞬間湯沸かし器の私は、一瞬ムッとしました。
連絡したのに、先生を迎えにいらしても良いのではと、多分全身でカリカリオーラを出していたのだと思います。
その時、後ろにいらした先生が「私、書きます」と仰って、すっとお書きになられました。
私は冷や汗が出ましたが、今にして思えば、学校にとっては良かったと思います。
しかし、すぐに出迎えて下さった校長先生の案内で入った校内は、中村哲先生をお迎えする準備は万端で、廊下にはパネルが貼られ、事前にお話もあったようでした。
講演中の会場は静まり返り、講演後の質問は「人生最大の決心は」「座右の銘は」「アフガンで一番美味しい食べ物は」など活発で、若い人に聴いてもらえるのは良いなと思いました。
もしこの会場に教育関係の方がいらしたら、是非、中村哲先生やペシャワール会、それに連なる人々のお話を聴く機会を設けていただけたらと思います。
事務局だけでなく全国に元ワーカーの方がいらっしゃるので、声をかければ喜んで話してもらえると思います。
もちろん関西にもいらっしゃいます。本部に支援室がありますのでご照会いただくのも良いですし、私たちでも紹介のお手伝いは出来ると思っています。
今回お話をいただいたことで、本を読み返したり、ワーカーの生き生きとした映像を見たり、直接お話を伺ったりしていると、改めて素晴らしい群像だな、誰か映画にしてくれないかなと思っています。
中村哲先生への想い
私たちの先生への想いが分かるエピソードを2つお話します。
昨年武庫川女子大学で講演された時、書籍販売を託されました。
その日、学校が私たちのお弁当も用意して下さるとのことで、人数を報告していたのですが、前日応援が増えることになり、書籍の後片付けもあり、福井さんと私は残りました。
その時、食事を済ませた方が、私の方に駆け寄り「松井さん、握手してあげる。今、先生に握手してもらったの、手を洗ってないから」と手を出してくれました。
もちろん、私はすぐに握手してもらいました。70を過ぎた小母さんが間接握手で大喜びする。
彼女や私にとって先生はそんな存在でした。
今一つは、今年1月25日福岡であった先生のお別れ会でのこと(余談ですがこの日は事務局が想定していた2倍の5,000人もの人が全国、いえ、海外からも参加していました)、帰りに、希望者は献花の薔薇の花を持ち帰っても良いとアナウンスがありました。
私たちは福岡で泊まるので持ち帰るなんて考えもしなかったのですが、お一人、大事そうに抱えてらして「荷物は全部宅急便で送って、先生の薔薇を持って帰ります」と言って橿原まで持って帰られました。
その後、自宅に飾られ、薔薇が枯れるとポプリにして送って下さいました。
一緒に行った女性4人分を送って下さったのです。
「香りは少ないけど、他の薔薇を入れたくなかったの、先生の薔薇だけで作りました」と仰っていました。
中村哲先生はお花とクラシック音楽が大好きな方でした。特に薔薇とモーツアルトがお気に入りだったようです。
あの日以来新聞の俳壇や歌壇に多くの句や歌が寄せられていますが、2020年4月28日の毎日新聞川柳ならぬ万柳欄にも「ODA中村医師とつい比較」というのを見つけました。
皆さんの心深くに何時までも先生はいらっしゃるんだなと改めて思いました。
ちなみに10年程前の講演会で福元さんが「用水路建設に係った費用は15~16億円。日本政府がアフガン復興のために拠出したお金はこれまでに2,000億円、アメリカが一年間に費やす戦費は2兆円、先ごろ日本政府が発表したアフガン支援策は5年間で4,500億円」と仰っていました。
ついでに言うとF35戦闘機は一機110億円超え、これを100機となると軽く1兆円を超え、維持費を考えると頭の中を考えられないような数字がぐるぐる回ります。
年間の税収が60兆円云々と言われる日本の財政を考えるとこれで良いのかなと思ってしまいました。
先生はお星様に、小惑星 中村哲の誕生
気持ちが落ち込みそうなので最後にとても嬉しいお話を。
2020年6月に「中村哲」という小惑星が誕生しました。
火星と木星の間にある小惑星の一つが「中村哲」と命名されました。札幌市在住のアマチュア天文家が24年前の1996年に発見した小惑星です。
小惑星としては大きな方で直径5.8km。イトカワが500mだそうですから、やはり大きい方ですね。
大きいからとか小さいからなんてどうでも良いことですが、一寸嬉しいです。と同時にこの広い宇宙でそんなにも小さいイトカワにハヤブサは行って帰ったんだと思うと改めて「ハヤブサ偉い」と思ってしまいました。
人の役に立つ人になれと言われて育った少年は73年を経て、大きな大きなお星さまになりました。
今頃、上から、「真珠の水」アーベ・マルワリードと名付けた用水路を見ながら、お止めになられたはずの大好きな煙草の煙をくゆらせているかもしれません。
中村哲先生は今も、何時も傍に
「ここに居るんです」と九州大学医学部時代からの友人であり現在ペシャワール会会長の村上先生は少し右手を上に伸ばして仰います。
「ここに居るんです」と。
私は先生が亡くなられて初めて、先生の日常が気になりました。
何を召し上がっていたんだろうとか、お風呂はあったんだろうかとか。
お元気な時は一度もそんなことは考えなかったのですが。今日のような機会を頂いたこともあり、あれこれひっくり返していると、そうだな、あんなこともこんなこともあったなと、思い出します。
私にとって先生のことは今が一番身近なのかもしれません。先生に出会えたこと、これは私にとって一番の宝物です。
中村哲先生にもう直接会うことは出来なくなりましたが、ペシャワール会は中村哲先生の意思を継いで事業を継続することを表明しています。
今後とも、中村哲先生のこと、ペシャワール会のことをお心に止めていただければ嬉しいです。宜しくお願いいたします。
拙い話にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
追記:基地病院移転について
1998年完成し、ハンセン病を柱としつつアフガン難民の一般診療を行い貧民層の支えとなっていたペシャワールのPMS基地病院に2007年5月、パキスタン政府から改善命令が出されました。
PMSは連邦政府に認可された難民医療団体であると同時に1998年にはハンセン病患者の為の北西辺境州認可の社会福祉法人としての合法的位置も得ていました。
しかし、「難民支援機関でありながら、州の社会福祉法人とする二重登録は違法である。政府が認める正規の医師・看護師を置き、管理者もパキスタン人にせよ」との要求でした。
これに従えば診療の主力であったアフガン人スタッフは行き場を失います。
そもそもハンセン病診療に関心を示すパキスタン人の医療関係者は皆無に近く、現場の看護師たちはPMSが長い年月をかけて育てた人ばかりでした。
その上、改善命令とは別に入国ビザが極端に制限され始め、それまで1~3年発給されていたものが2週間しか許可されず、病院の実質的な管理が不可能になり2008年10月現地委譲します。
解せないのは、州の社会福祉法人の登録が違法なら、なぜ9年前にパキスタン政府が自らそれを勧めたのかということです。
今回の基地病院の移転の背景は想像するしかありませんが腑に落ちないことは確かです。
その後、大半がアフガン人というハンセン病患者を移すため、アフガニスタンのジャララバードに急ごしらえの施設を準備し、アフガン側に入れないパキスタン国籍の看護助手や職員はパキスタンの看護学校に入学させ、自活出来るように手配しました。
ペシャワール会大阪:松井千代美
1944年 愛媛県弓削島生まれ
1963年 広島県立因島高等学校卒業
1965年 大阪府立大阪社会事業短期大学卒業(1981年、大阪府立大学社会福祉部設置により1982年3月廃止)
1988年 ペシャワール会入会
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について
ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。
MK新聞への連載記事
1985年以来、35年間にわたってMK新聞に各種記事を連載中です。
1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)