素人シェフ、辺境で奮闘する『アフガン飯炊き日記』を読む|MK新聞2017年掲載記事

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素人シェフ、辺境で奮闘する『アフガン飯炊き日記』を読む|MK新聞2017年掲載記事

MKタクシーの車内広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただいた中村哲さんの記事を、2000年以来これまで30回以上にわたって掲載してきました。

MK新聞2017年11月1日号の掲載記事の再録です。
原則として、掲載時点の情報です。

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素人シェフ、辺境で奮闘する 荒野一夫著『アフガン飯炊き日記』を読む

ペシャワール会が建設した用水路(書籍表紙ページ)

ペシャワール会が建設した用水路(書籍表紙ページ)

2005年12月のペシャワール会会報に「男性炊事担当者募集」の知らせがあった。
それを見た荒野さん、翌2006年5月に36年間勤務した京都市役所を定年の2年前に退職、6月にアフガンヘ。
そして現地での日常を友人たちにメールで送信した9ヶ月間の記録をまとめて今年2017年6月、古希の記念として自費出版した。

2006年6月、最初に着いたのはパキスタンのPMS(ペシャワール・メディカル・サービス)病院で、数日後の6月14日、アフガニスタンの国境に向かった。
助手席には自動小銃を持ったガードマンが同乗、これは外国人に義務付けられている。
カイバル峠を超え、ジャララバードのPMSスタッフハウスに到着、荒野さんの部屋は平屋三室の一つで、窓の外のぶどう棚が太陽光を遮っている。
ここに寝泊まりするのは中村哲さん初め7人の日本人ワーカーで、60代が3人、4人が若者(*ペシャワール会では現地で仕事をする日本人を“ワーカー”と呼ぶ)。
夏なので朝6時には工事現場に向かう。
中村哲さんは土埃の中、ユンボを運転し、堤防の盛り土をするダンプに指示を出している。
着任の4日後、日本での休暇を終えた青年があいさつに来て、「彼女にふられてきました」。(*若いワーカーには“自分探し”の人がいると、中村哲さんが何かに書いている)。
1週間後に作ったのがひじきと人参の煮物、ジャガイモのおひたし、キュウリの辛子漬け、かき玉汁で、ひじきには歓声が上がった。ご飯の炊きあがりはいつも祈る思いで確かめる。

荒野さんと当時のキッチン。ガスボンベの上部がコンロになっている。(書籍222ページ)

荒野さんと当時のキッチン。ガスボンベの上部がコンロになっている。(書籍222ページ)

 

荒野さんはペンネームではなく本名、これまで同姓の人に会ったことはないそうだ。
1947年、能登半島の突端、石川県珠洲郡生まれ、1966年、京都市で印刷工として生活を始め、公務員試験に合格して1969年から市役所勤務、1976年にエスペラント講習会で出会った女性と結婚、娘と息子に恵まれたが、奥さんが35歳で亡くなり、以後2人の子どもを育てた。

もともとわずか2時間、夕食を作るだけの仕事で、時間の潰し方を考えてきてくださいと言われての着任だったが、英文の支出伝票に確認のサインをしたり、工事用の鉄筋やセメントの買い付けに同行したり、スタッフハウスに給油にやって来る現地のドライバーに伝票を渡すなど、いろんな用事も加わり、おぼつかない英語と全く分からないパシュトゥ語に四苦八苦。
安全のため街のぶらぶら歩きは厳禁、買い付けに同行した車が渋滞に巻き込まれると、手押し車、驢馬(ろば)車、乗用車、トラックが少しでも空いているところに突っ込んでどうにもならず、警笛、怒鳴り声が飛び交う。
橋のたもとに焼けたトラックがあったが、これはトラックとバイクが衝突して、バイクの青年が死に、その家族が仇討に放火したものという。(*目には目を、の復讐法の世界)

日記には、荒野さんの生活の一端が垣間見られ、その生き方を想像させる話も出てくる。
ショパンを聴きながら、餞別でもらった香をたき、本を読む。
太宰治の『斜陽』の「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」は、17歳の時に読んで以来、鮮やかに記憶されている。若い頃は太宰のほか、「苦悩教の教祖」高橋和巳を耽読した。
そして「癌で生を終えたいと日頃思っている。生を終える心の準備、身辺整理ができる」(190ページ)と書いた時は58歳。
現地では女性に会う機会がないせいか、DVDで見た小雪や薬師丸ひろ子がよけい素敵に見える。
なにしろ男が女性に合図をしただけで、その父親に銃で追い回される世界だ。ただ、アフガンの男たちは髭の手入れを怠らない。

さて“本職”の料理人としての評価は高かった。
体調を崩した人にはおかゆを届け、時にちらしずしを供し、「コロッケを食べるとホッとする」と言われ、「日本に帰れば定食屋ができますね」の声も。
任期を終えて、いざ帰るとなると、アフガン男たちは「戻って来い」「日本に帰るな」と声をかけてくれた。
帰る時には飾りつけされた大きな箱が2つ、英語で「ささやかな贈り物 ジャララバードスタッフからミスター・アラノヘ」、思わず涙がこぼれそうに。
こうして、9ヵ月のアフガン生活はパシュトゥ語のノートとともに「人生の宝物」となった。

帰国後、大津市の自宅を民宿とし、春と秋にコンサートや落語会を催し、自家製ビールと石窯でのピザを楽しんでいたが、2011年の3・11以後は福島、宮城の子どもたちの保養キャンプを毎夏開き、ペシャワール会の元ワーカーたちと子どもたちに寄り添う。
(2017年10月4日記)

 

荒野一夫

Eメール:arano-k@msj.biglobe.ne.jp

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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