中村哲医師とペシャワール会の35年【中】診療所より用水路建設|MK新聞連載記事

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中村哲医師とペシャワール会の35年【中】診療所より用水路建設|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、2019年12月にアフガニスタンで亡くなった中村哲医師に関する記事を、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただき掲載してきました。
2000年以来、これまで30回以上にわたって中村哲医師に関する記事を掲載してきました。

中村哲医師を支援してきたペシャワール会大阪による、2020年8月5日の講演内容を基にした、MK新聞2020年11月1日号の掲載記事です。

ペシャワール会大阪の松井千代美さんが2020年8月5日、八尾市久宝寺「まちなみセンター」で行われた集会でお話されていた内容を文章にしたものです。(MK新聞編集部)

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中村哲医師とペシャワール会の35年【中】

これが日曜大工!! レオナルド・ダ・ヴィンチも真っ青

知の巨人中村哲 モスク・マドラサ(学校)・寄宿舎・(職業)訓練所を設計施工

2002年から始まった試験農場は2008年、伊藤さんの事件で日本人ワーカーは参加できなくなりましたが、2003年3月には、もう現地の普及農家の選定も為されていました。
何時も先を読んで計画を立てていらしたんだなと、当たり前かもしれませんが素人の私は感心するばかりです。
試験農場は2009年からは徐々に砂漠化が進むダラエヌール渓谷から、緑豊かな土地に変貌したガンベリ砂漠へと移されましたが、順調に役目を果たしています。

また、2007年から心のよりどころであるモスクや地域の教育の中心であるマドラサの建設に踏み切りました。
モスクの建設が知らされると、用水路建設に勝るとも劣らない喜びようで「これで解放される。自由になれる。」と喜びを爆発させたそうです。
2010年に落成したこれらの施設では1,200名が一度に礼拝出来、600名の学童が学んでいます。
設計施工は中村哲先生の手によります。

2010年アフガニスタンに中村哲先生を訪ねたジャーナリストの西谷文和さんが「建築の勉強されたのですか」と尋ねると「いいえ、私は医者ですから。日曜大工が得意なんで」と答えています。

その後、学校の傍に孤児の為の寄宿舎やPMS方式をアフガニスタン全土に行き渡らせるため、用水路建設に携わる人の技術養成所、ミラーン訓練所を建設しました。
訓練所はFAO(国連食糧農業機関:F00d and Agriculture Organization)と、また用水路事業においては2010年から2018年はJICAとの共同事業となりましたが、後は全てペシャワール会の会費と寄附金で賄われています。

用水路ができたからお終いというわけではなく、維持管理が大切です。川底に砂が溜まらないよう絶えず浚渫しなければなりません。洪水で壊れることもあります。
寄宿舎は2008年アフガンで襲われ亡くなった現地ワーカーの伊藤和也さんに寄せられたお金で設立された「菜の花基金」から資金援助がありました。

日曜大工が好きと簡単に仰いますが、先生のお部屋は夜中まで灯りが点り、停電になると、皆さんを起こさないよう気づかいされて、一つだけの非常用の灯りで調べ、研究してらしたそうです。
皆さん先生のお身体を心配し、休んでいただくよう言っていたようですが、先生の休む場所は他のワーカーがとても眠れないという、宿舎と現場の悪路を行き来するバスの中が一番だったようです。

 

中村哲先生とのご縁、カラコルム山脈

こんなにも素晴らしい中村哲先生とどうしてかなり早い時期に出会うことができ、ペシャワール会の会員として少しですが活動することができたかと言いますと、今から30年余り前、新聞の催事欄で「ペシャワール」という文字を見つけたことがきっかけでした。
私は、愛媛県、と言っても広島県との県境にある瀬戸内海の小さな島で生まれました。

その島で、小学生の頃体育館で観たカラコルム山脈の記録映画の映像は私に鮮烈な印象を残しました。
まさに抜けるような青空、聳え立つ白い山、小さな黄色い花、雪解け水を集めて流れる川、全てがキラキラして、輝いて見えました。
その映像は私には夢のような景色で憧れでした。その思いが私とペシャワール会を繋いでくれました。多分1987か1988年頃だったと思います。
ペシャワール会の福井さんに声をかけ、一緒にお話を聴くべく会場のプリズムホールに行きました。
中村哲先生は、それまでは久宝寺に在りました八尾徳洲会病院の院内で数回お話をされていたようですが、一度、病院の外で他の人にも聴いてもらおうということになり、プリズムホールの小さな会議室での開催となったそうです。
聴衆は私たち2人を除くと徳洲会病院の関係者だったのではないかと思います。
この日、缶コーヒーまで出ましたから。食いしん坊なので、そんなことは覚えています。

そこで聴いたのは美しい山々のお話でも、桃源郷と言われるフンザのお話でもなく、非常にお粗末としか言いようのない赴任当時のペシャワールミッション病院の設備というか備品や消耗品のお話でした。
患者2,400名に対し病床数16、押せば倒れるトロリー車が1台、ねじれたピンセットが数本、耳にはめると怪我をする聴診器が1本。
ガーゼの消毒と言えばオーブンで炙り、焦げたものが消毒済、白い物は未消毒と、淡々と話される中村哲先生の言葉に、私はぐいぐい引き込まれていきました。

「医療はモノや金ではない」とは言うけれど物事には程度というものがあると、見学に来たペシャワール会事務局の佐藤医師がショックを受け、以後、募金活動が活発化したそうです。

 

八尾ペシャワール会(後のペシャワール会大阪)の活動

その講演会を機に当時八尾徳洲会病院内で立ち上げられていたというより自然発生的にできていた「八尾ペシャワール会」に福井さんと足を運ぶようになりました。
当時は20代前半の作業療法士さん、看護師さん、地域医療の事務員さんの3人が主に活動なさっていました。
病院長はじめ多くの方が関心を持ち支援されていて、院内には募金箱が設置されていました。
また、毎月B4用紙1枚の会報を発行するなどの広報活動をしていました。
会報の発行は17年余り(もっとかもしれません)続けましたが(手元にあるのは2007年1月27日(土)№207)途中身の上相談を寄せる方があり、重荷になり続けられなくなりました。
活動は若い彼女たちの生活環境の変化もあり、毎月とはいかなくなりましたが、講演会や写真展を開催しようとなると、直ぐに集まり現在に至っています。
ここまで来ることが出来ましたのも、会報を書き続けてくれた作業療法士の尾形さんのお蔭です。今、体調を崩していらっしゃるのでなかなか活動に参加とは行きませんが、彼女がいたからのペシャワール会大阪です。

八尾徳洲会総合病院の支援については、想像ですが、1982年、中村哲先生が半年間福岡徳洲会病院で研修されたことや、パキスタンに赴任された2年後、1986年、再建外科の研修のため一時帰国された時のもう一つの目的が、先程も申し上げましたがアフガン人による医療チーム発足の為、一肌脱いでくれる良心的なスポンサーを探すことでした。
これに呼応してくれたのが名古屋の病院と、当時国内の問題(医療過疎や離島問題、地域医療、老人問題など)に真剣に取り組んできた人々でした。
特に九州の医療関係者は徳洲会各病院に集まり有志たちが、ご自身苦しい中で快く支援をされたそうです。
そんな経過もあり八尾徳洲会総合病院も支援の気運が高まっていたのではないかと思っています。会報の発送作業をしている時、何人かの職員が声をかけに来てくれていましたから。

パキスタン ペシャワールPMS基地病院。1998年建設。ここで医療技術を向上させ、パキスタン・アフガニスタン両国の診療所へ職員を派遣。2009年、現地医療団体に譲渡

パキスタン ペシャワールPMS基地病院。1998年建設。ここで医療技術を向上させ、パキスタン・アフガニスタン両国の診療所へ職員を派遣。2009年、現地医療団体に譲渡。

そうこうしながら先にも述べましたが、八尾徳洲会病院で開いていた中村哲先生の講演会を次第に大阪市内で開くようになりました。
先生の他には、当時事務局長で現在は広報担当理事の福元満治さん、テレビにしばしば出てらしたからご記憶の方もいらっしゃるかと思いますが、その福元さん、アフガニスタンの試験農場などで農業指導に当たられた故・高橋修さん、そして中村哲先生の右腕として活躍されPMSの副院長で看護師の藤田千代子さんにもお越しいただき講演していただきました。

2000年代に入ってからでしたでしょうか、講演会を大阪市内で開催することもあって、名称を八尾ペシャワール会からペシャワール会大阪と変更しました。
これは、ペシャワール会の加藤さんが1998年に完成したPMSの基地病院へのスタディツアーに参加された後、私たちと一緒に活動されるようになり、様々なお知恵を出して下さいました。その一つが名称の変更でした。

その他の活動としては、2008年に亡くなられた伊藤さんが沢山の写真を残されていたので、ペシャワール会協力のもと、写真展を開いたり、ペシャワール会の写真展を開いたり、他の方が講演会をなさる時、書籍売り場の対応や、時には先生を新大阪から会場への案内。
そして、毎年年末、中村哲先生を支援してらっしゃる歌手の加藤登紀子さんが公演で募金を呼びかけて下さるので、そのお手伝いなどをしています。

ペシャワール会大阪と言いましても、会社の本社と支社のような関係ではなく、もちろん幾つかはきっちり組織を形成し、活動している方々も全国にはいますが、それでも、何か九州の本部から指示があるのではなく、本部は、私たちがしたいことに手を貸してくれたり、一寸したことを依頼されたりもします。
また、中村哲先生から事務局宛の報告書を送ってくれたり、テレビやラジオ番組の情報などを流してくれる、といった状況です(報告書の内容や各種イベントはペシャワール会HPで閲覧可能)。

 

中村哲先生の想い

それにしても、何が中村哲先生をそこまでさせたのか。一見飄々とした先生の想いの源は何かと考えた時、いくつかの言葉が思い浮かびます。

「道で倒れている人が居たら手を差し伸べる。それは普通のことです」
「とにかく生きておれ。病気は後で治す」
「100の診療所より一本の用水路」

そして、「みんなが行くところには誰かが行く。誰も行かない所にこそニーズがある」などです。

診察中の中村哲医師。1984年パキスタン・ペシャワール病院ハンセン病棟から活動を始めた。当時医療器具は乏しかった

診察中の中村哲医師。1984年パキスタン・ペシャワール病院ハンセン病棟から活動を始めた。当時医療器具は乏しかった。

2000年からの大旱魃に対処するため水資源確保に乗り出し、井戸掘りそして用水路建設へと事業はNGOの枠を超え、まさに国家的規模の事業となりました。
これまでもマラリアの薬(1993年)、基地病院の建設、と事務局側では「えっ、そんな、先生お金どうするの」と、何度か走り回る状態でしたが、それでもクリスマス募金などで何とかなりました。

しかし用水路ばかりは誰しもが無理と戸惑う中、2003年から用水路建設は始まりました。
先程も触れましたが、2001年の国会での食料支援発言で多くの人から募金が寄せられ食料配給に2億円と見積もり、大変な金額と絶句していたのですがそれ以上集まりました。
それを元手に「緑の大地計画」の一つ、用水路建設に着手したのです。
中村哲先生の活動に共感して下さる方が増え現在会員と寄付して下さる方は現在2万人程で、それらの事務処理の専従者は2008年までは3人でしたが、日本人ワーカーが引き上げざるを得なくなってからはもう少し増えています。
寄付へのお礼状や会報の発送作業は全てボランティアの方がなさっています。
亡くなった井上ひさしさんが決算書を見て、90%以上が現地で使われているのに驚いたそうです。

元ワーカーの方によると、先生は「年金暮らしの方々もその中から1,000円、2,000円と寄付して下さっているのだから無駄にしてはいけない、贅沢してはいけない」と常々仰っていたそうです。
贅沢と言っても中古の重機を購入する時、少しマシなものにするぐらいですが、それでも叱られたと言っていました。
国連関係の車に乗せてもらった時は、あまりの豪華さに羨ましさを通り越して呆れたと言っていました。

 

ペシャワール会大阪:松井千代美

1944年 愛媛県弓削島生まれ
1963年 広島県立因島高等学校卒業
1965年 大阪府立大阪社会事業短期大学卒業(1981年、大阪府立大学社会福祉部設置により1982年3月廃止)
1988年 ペシャワール会入会

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、35年間にわたってMK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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