中村哲・アフガン難民帰農へ14kmの灌漑用水路建設|MK新聞2004年掲載記事
MKタクシーの車内広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏及びペシャワール会より寄稿いただいた中村哲さんの記事を、2000年以来これまで30回以上にわたって掲載してきました。
MK新聞2004年7月1日号の掲載記事の再録です。
原則として、掲載時点の情報です。
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アフガン難民帰農へ14kmの灌漑用水路建設
ペシャワール会がアフガン難民へ会独自に食糧を配給するため「命の基金」募金を始めたことをこの欄で伝えたのは2001年11月だった。
会の現地代表、中村哲さん(1946年生まれ)は募金のため日本各地で精力的に講演活動を行って、多くの共感を呼び、テレビなどにもしばしば登場し、一億円を目標にした基金は一年間で十億円近くに達した。
ここ二年ほどはほとんどその姿を見ることがなかったが、2004年5月15日、姫路市で講演会があり、5月末には9・11以後から今年4月までの活動を詳細に記録した『空爆と「復興」アフガン最前線報告』(石風社)も刊行された。
講演当日の中村さんは実に晴々とした表情だったが、左足をかばうような歩き方だった。
それは昨年2003年3月から今年2004年3月まで、突貫工事で行われた全長14キロの灌漑用水路建設工事の先頭に立ち、自分でもショベルカーの運転までした中村哲さんの“勲章”だった。
アフガニスタン東部のニングラハル州では、降雪量の減少や、高山の雪が温暖化によって早く溶けて保水力が低下、また地下水の水位も低下して砂漢化が進んでいる。
このためヒンズークッシュ山脈の雪に依存するクナール河右岸に用水路を建設、東部住民数十万人の難民化を防ぐ十五年計画初年度のことだった。
クナール河は春先には雪溶け水が洪水のように押し寄せるので、水位が下がる冬季までに取水口と堰の工事を済ませないと、完成が一年遅れる。
そこで、掘削機、ショベルカー、コンクリートミキサー、ダンプカーなども動員し、ペシャワール会としては異例の超物量作戦を行った。
昨年2003年11月には「非常事態」を宣言、取水口からニキロの地点に作業員が蟻のように殺到し、「総力戦」に突入した。
「時間がかかるのは現地の常。ご飯を食べるために田植えを始めるようなもの」
と、昨年4月の時点では水源確保事業担当の日本人スタッフに伝えていた中村哲さんだが、大抵のことは「インシャッラー(アッラーの思し召し)」として、「まあ、大丈夫だろう」で過ごすアフガニスタン人作業者も、旱魃の被害者であり、「水が来る」という希望もあり、士気も高く、また優れた石工ともなった。
しかし「今度ばかりは生きた心地がしなかった」と中村哲さんは言う。
「十数年前、弾丸が飛び交う場面で仕事をしたこともあったが、今となっては大した苦労ではなかった。2001年の空爆下の食糧配給に劣らず、誇張なく、これほど緊迫した状況は生涯なかった」。
スタッフの一人も、毎日が緊張の連続、一日終わるたびに寿命が縮む思いだったと、現地報告に書いている。
技術面で特筆すべきなのは、現地の人たちが独力で維持できる伝統工法を採用したことで、取水口とトンネル以外の水路はすべて石と土、植林で出来ている(護岸に使う柳は日本に住むあるアフガン人が寄付した三万本)。
今年2004年3月7日、取水口水門、堰、貯水池と導水するニキロの水路が一応の完成を見、通水を確認し「非常事態」を解いた。
その後、日本に一旦帰り、ペシャワール会事務局に報告を終えると、中村哲さんは力が抜け、虚脱状態となり、何日もぼんやりと過ごしたという。
講演では、会場からの質問に答えて二十代の日本人スタッフについて触れた。
「以前は、最近の若者はという言葉を良く使っていましたが、これからはやめようと思います。この若者たちは日本ではぷー太郎と呼ばれて(会場笑い)ますが、現地の人たちと働くことによって輝きだします。」
「かと言って、日本に帰ってその輝きが持続するかというと、そうではないことが多いのですが(会場笑い)。」
その一人、目里丞(すすむ)襲さんはこんな文章を書いている。
「空手道場の師範から”継続は力なり、と常に言われ、ある住職からは”むやみに変化を求めるべきではない。成長は必ず後からついてくる”と言われていた。現在、その言葉が理解でき、その重さが身にしみる。日本で生活しているころには理解できなかった」(「空爆と「復興」142ページ)
また、農業計画担当の橋本康範さんは昨年秋、休暇を一ヶ月日本で過ごした時のことを書いている。
「なんだか息切れしてくる。騙されているような気がしてならない。表面上はとても住みやすく、大げさに飾ってはいるが、その実なんだか悪夢が蔓延しているような」(214ページ)。
そして、現地に帰って迎えられた時。
「彼らのこんな暖かさが何よりも私のエネルギーになる。そして何よりもうれしいのだ」
中村さんはアフガニスタンの”復興”について「先進国だから進んだものを与え、教え、役に立ちたいという思い上がり」、「文明の名において一つの国を外国が破壊し、外国人が建設する傲慢さ」を批判する。
「復興支援も本質的に空爆とそう変わらない。この不寛容と尊大さは非西欧世界にとって危険な微候だ」(43ページ~)と書いたのは2002年7月、その危険さをいま私たちはイラクの現実に見ている。
そして忘れてならないのは、2003年3月にアフガニスタンで行われたイラク攻撃反対デモでは英米の国旗とともに日の丸も焼かれたこと。
自衛隊は「ジャパニーズ・アーミー」と報道されることだ。
去年2003年7月、中村さんがマグサイサイ賞を受賞した時の言葉は次のように結ばれている。
「アジアの片隅で行われた私たちの小さな努力が一つの捨て石になることを祈ります」(76ページ)
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について
ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。
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1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)