エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【316】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
 MK新聞2014年8月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
本は眺めるものだと思っている。
 連載タイトルにもある通りに。
 単に読むだけのものなら、買って、読み終わったら捨てるなり、人にあげればいい。
 あるいは、借りて読んで、返せばいい。でも私にとって、本は身のまわりにあり、目に入ることが重要だ。
「本を読む」とはどういうことか。
 広義には、その答えは単純でなく、たとえ狭義に、つまり一般的な意味で「買ったのに読んでいない本」があったとしても(実際、少なくない)、極論すれば、本は手が届くところにあって、それを眺めるだけでも相応の意義はあると思っている。
 本棚は、現在の問題意識や関心、記憶、愉楽、意欲、希望などといった、自身の内面が投射した外界への光だと言えるし、また、棚の本を並べ替えたり、入れ替えたりすることは、自らの興味ある物事だけが載った「本」の編集だと言える。
 ただ、所有する本をすべて棚に並べることはできないので、ダンボール箱につめて押入れや倉庫に収めることになる。
 しかし、目に触れないところに仕舞い込んでしまうと、気軽に手に取って拾い読みしたりできないだけでなく、その本はまもなく意識されなくなってしまう。
 もはや消えて存在しないも同然だ。
 もっとも、意識を向ける対象の新陳代謝も時には必要ではあるが。
ところで(というか、実はここからが今回お話したいことなのだが)、最近、自宅の日当たりのいい部屋の本棚にカーテンをつけた。
 本の背の日焼けが気になったのだ。本が見えなくなるのが嫌で、これまでつけたことがなかった。
 すると、その部屋にいるとき、本棚に、一冊一冊の本の書名に、視線を留めることがなくなっていることに、ある日気づいた。
 極薄のレースで、書名も透けて読めるほどのものを選んだにもかかわらず。
 自室の棚の本に意識を向けなくなってしまったのだ。
 たった一枚の極薄レースのカーテンで!
 意識というのは、それほどデリケートなものなのだろう。
 逆に、何も意識せず、何となく自宅で本(自らの興味で選び、身銭を切って購入し、読み、読んでなくても、自室の棚に並べた本)の背を眺めているときのまったりした幸せな感じ――とでもいうようなものを改めて認識した。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
 1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
 1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
 1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)
本だけ眺めて暮らしたい バックナンバー
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