三上智恵著「証言 沖縄スパイ戦史」(集英社新書)を読む【下】|MK新聞連載記事

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三上智恵著「証言 沖縄スパイ戦史」(集英社新書)を読む【下】|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、ジャーナリストの加藤勝美氏による連載記事を掲載しています。
MK新聞2022年4月1日号の掲載記事です。

やーさぬ パンドラの封印をはがず ―三上智恵著『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)を読む

徴兵前の少年遊撃隊

2人の遊撃隊長が司令部参謀たちの指示を受けながら、地元在郷軍人や中野学校出身者ら幹部70名ほどの常置員教育を終え、徴兵前の少年を主力とした1,000人規模の遊撃隊(秘匿名護郷隊)を北部やんばる地域から集めつつあった10月23日については、村上治夫のこんな記述がある。

可愛い童顔の少年が一人前の兵士そこのけの顔で入隊、早速衣更えとなると軍服が大きすぎて困るやら、靴が大きすぎるものやら大騒動。それでも先輩が分隊長、小隊長とあって気分もぐっと和やかで、一両日の内に規律正しい軍隊生活に移行していったのはさすがであった。

こうしている間にも日米両軍の沖縄戦衝突は刻々と迫っていた。10月3日にはアメリカ統合参謀本部がニミッツ提督に対し沖縄攻略を命令し、10月10日には米機動部隊が那覇を中心に沖縄本島全域に大空襲をかけ、那覇の90%以上が焦土と化した。
10月25日には日本軍がレイテ決戦で航空神風特別攻撃隊が初出撃している。フィリピンの次は台湾か沖縄かと米軍は迫っていた。

沖縄戦最高司令官・牛島満中将は陸軍士官学校長という職席を離れて沖縄にやってきた。
大本営から死場所を与えられたのである。恐懼感激をもって受け入れなければならない。
これは戦艦大和の司令長官の場合でも然りであった。

牛島満の着任時の判断では、最終的には米軍に敗れるとしてもそれまでは上陸米軍を存分に疲れさせ、本土日本の防衛態勢確立までの時間を稼ぐことであった。
紆余曲折があって翌1945(昭和20)年に入ると「第32軍戦略持久へ配備変更開始」へ落とし込まれていく。
着任時と何も変わらぬように映るが、本土決戦一億総特攻の捨て石となる、というファナティックな楔が打ち込まれたのである。
沖縄県下の学徒動員強化、県知事に対する沖縄本島南部住民の北部への疎開や6ヵ月分の住民食糧確保など、第32軍の要望は沖縄県民の県外人口移動を促していく。
沖縄本島玉砕のパニックを描いていると言ってよい。大本営の理にかなうのである。
作戦主任となった八原博通高級参謀は叫ぶようにパンフレットで述べている。

圧倒的な米軍の兵力に対して正面衝突では勝てない。米軍の上陸を黙認し、自陣の間近に迫ったら小部隊で肉迫攻撃をしかける。そのおぼつかない現有勢力を補強するための「築城」。
迫り来る現実はあまりにも冷厳である。空疎容易な必勝の信念、自暴自棄の敗戦見地は共に捨てよ。

こちら正規軍作戦主任が遊撃戦を訴えているのである。この意味では北部国頭山中を根城にした、少年護郷隊が最強軍団の正規軍だったと言ってよかったのである。
たとえどんな苛酷な運命を辿ったとしても。

アメリカ軍の沖縄本島上陸 出典:読谷バーチャル平和資料館

アメリカ軍の沖縄本島上陸 出典:読谷バーチャル平和資料館

米軍は1945(昭和20)年4月1日、慶良間(けらま)諸島制圧後、沖縄本島中部の2つの飛行場近くの海岸から上陸した。
米軍兵力総数18万3,000人、迎え撃つ日本軍の兵力は第32軍9万6,000人、現地臨時召集兵2万5,000人。
両軍相討つ戦記物語はたくさん書かれているのでこれ以後を追う必要もないくらいである。

『証言』巻末の参考文献で見出した一文を引用しておきたい。米軍上陸地点の話である。

イエロービーチと呼ばれた比謝川(ひじゃがわ)河口の渡久地(海岸)で、補給物資の陸揚げが始まった。
米軍は沖縄進攻を意図したとき、自軍の物資以外にも、いずれは収容しなければならない住民が30万人以上いることが確実であり、彼らに補給する食糧、日用雑貨まで輸送する計画を立てて、この作戦に臨んだという。

公称されている当時の人口統計数は沖縄本島43万人と言われている。
30万人以上の食糧、日用雑貨ということであれば、沖縄県民のひもじい経済生活マヒ状態(やーさぬ)は5割以上の人々が解消される可能性があった。この飢餓トンネルをくぐり抜けることがすべて解決する訳ではなかったが、とりあえずという生きていくことの常識にとっては第一歩であった。

6月23日午前4時30分、第32軍牛島満司令官は自決し、日米両軍の組織的戦闘は終結した。
こうしてようやく私たちは『証言』の著者・三上智恵の沖縄島少年ゲリラ隊物語に辿り着いたのである。

護郷隊総勢998名、死者160名、少年兵の年齢、14歳から18歳。

「体験者は人に話すことを繰り返すうちに、自分の中でその記憶を咀嚼したり、戦争という大きな負の歴史の中に位置づけたり、人から意味づけをされて再認識したり、そうやって個人の記憶の断片に過ぎなかったエピソードは「戦争 証言」として物語化されていく」。

記憶の断片は、踏み荒らされたり手垢にまみれさせたりしてはならない。かといって放置しておくと何らかの理由で消えてしまう。

『証言』の著者は証言という方法的話体でそれら歴史の断片保存の難しい問題を解決していった。
それも証言者たちの手付かずの原生的な優しい心根に触れられたからであろう。本当にご苦労さまと頭が下がる思いである。
元少年兵たちの宝庫を見るような発言は彼らの何ものかに対する勝利を物語っている。
私のような部外者が立ち入るべきではないと思えるほど重い事実に基づくものであるからである。

(2021年12月記)

 

評者:張間隆蔵

自然遺産奄美住用マングローブ原生林ガイド(マングローブ茶屋所属)。
戦時下米軍大阪大空襲から逃げるべく両親が疎開した先の鳥取県西伯郡の片田舎に1945(昭和20)年1月生まれる。
終戦後、焼野原の大阪市此花区の実家に戻って家族生活再開。
1967(昭和42)年2月、大阪市立大学文学部処分退学。
1968(昭和43)年より東京にて商社勤務。
その傍ら日本近代史諸学を研鑽。同人誌「出立」を主宰して『審問』などを発表。
2000(平成12)年より奄美本島住用村に移住し、マングローブ踏査研究に従事。
琉球弧沖縄に関心を寄せる

 

著者:三上 智恵

ジャーナリスト、映画監督。
元琉球朝日放送(QAB)アナウンサー。毎日放送を経て、1995年のQAB開局からキャスターを務める。
2012年の監督作品『標的の村』が反響を呼び、劇場映画として公開。
キネマ旬報文化映画部門1位、座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル大賞、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞など17の賞を獲得。
2014年にQABを退職後、第1作となる『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』を2015年5月に公開。
成城大学および沖縄国際大学大学院で沖縄民俗学(シャーマニズム)を専攻し、現在も沖縄国際大学で非常勤講師を務めながらフィールドワークを継続している。

2015年6月 大月書店

2015年6月 大月書店

 

書誌情報

著者:三上智恵
出版社:集英社
発売日:2020年2月17日
価格:1,870円
受賞:
第20回石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞 草の根民主主義部門 大賞(早稲田大学)
第7回城山三郎賞受賞(角川文化振興財団)
第63回JCJ賞受賞(日本ジャーナリスト会議)

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ジャーナリスト。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

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1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
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1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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