エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【292】|MK新聞連載記事

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エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【292】|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2012年8月1日号の掲載記事です。

本だけ眺めてくらしたい

読書は著者との対話だと言われる。これについて最近思うことがある。
他人とのコミュニケーションが下手というか、極端に言えば、会話が成立しない人が近年増えてきているような気がする。
人見知りという意味ではなく、相手の言葉が耳に入らない。
内容が理解できないのではなく、言葉のキャッチボールをうまく受け取れないとでも言おうか。
逆に、発言する際には、こちらの言ったことにつながっていない。
話のポイントがずれているとか、どうでもいいポイントにこだわって、話がまったく前に進まないとか。

私はここで、批判めいたあるあるネタを展開しようとか、あるいは、極端な場合、それは心理的な病であり、その人たちに悪気はなく、理解し受け入れてあげることが大切だと啓蒙しようというわけではない。
素朴な疑問として、他人とのコミュニケーションが下手な人は、読書で「著者との対話」がうまくできているのだろうかと、ある時ふと思ったのだ。
ただ、コミュニケーションが苦手な人は、むしろ独りで気楽に本を読むのが好きというイメージが何となくあるし、本の内容を問題なく理解できているとすれば、やはり読書は「著者との対話」とは言っても、生身の人間による対話とは違うのかもしれない。

ところで、読書はそもそも著者との対話ではなく、一方的に言葉を受け取る行為だとも言える。
ショーペンハウアーなど、歴史上の哲学者や知識人の中には、読書は人間をバカにすると(逆説的に?)指摘している人が何人かいる。
それらの発言にはそれぞれ高尚な理屈や、時代的、社会的な背景もあるだろうが、ひとことで言ってしまえば、他人の考えを「拝読」するだけで、自分でものを考えなくなる、自分でものを考える時間が奪われるということだろう。
じゃ、読書しない人は自分で考えているかと言えば、逆は必ずしも真ならず。
つまり、最も知的な態度とは、身銭を切ってまで関心のあるテーマや問題を扱っている本を常に探していて、実際に買って、本棚に並べて常に意識し考えているけれど、読んでない本も多い(笑、私のことです)という態度ではないか(って、着地点はそこ? 単に積読の弁護やん)。

 

MK新聞について

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40年以上も発行を続けるMK新聞を、皆さま、どうぞよろしくお願いします。

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MK新聞への大西信夫さんの連載記事

1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)

 

本だけ眺めて暮らしたい バックナンバー

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