エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【257】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2009年10月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
私は雑誌を買うとまず、ディスクカッターですべてのページをバラバラにしてドキュメントスキャナーで読み取って、一冊まるごとPDFファイルにする。
そして、その日に読める分だけのページを鞄に入れて外出。
読み終わったページはその場で棄ててしまう、という話を前回した。
そして、この方法は「雑誌に限らない。本だって製本をバラせば同じことができる。やろうと思うなら、の話だが……」と結んだ。
この言い回しには実は、いくつかの意味がある。
ひとつは、本をバラバラに壊してしてしまうことに抵抗のある人がいるのではないかということ。
話はそれるが、「私は本に書き込みしたり、ページを折ったり、必要なページを切り取ったりする」と、なぜか自慢げに語る人がいる。「そういうことができない人」を念頭に置いているのか、ことさらに言いたいらしい。何かのコンプレックスの裏返しだろうか。
話をもとに戻そう。で、もうひとつは、これから買って読む本だけでなく、膨大な過去の蔵書を一冊一冊、自ら手作業で解体してスキャンしようと考えたら、気が遠くなって、やる気が起こらないのではないかということ。
そんな時間があったら、本を読む時間に当てたほうがいい(笑)。
さらに、大きな問題としては、「物としての本」を読む楽しみがなくなってしまうということ。
デジタルの本と、物としての本の優劣に関する議論は、何も今に始まったことではない。
ただ、この問題は技術的な側面を抜きに語れない。これまでは、本のデジタル化や閲覧のためのシステムなど、ハードやソフトの技術的なレベルがあまりに低すぎた。
そして、それらが発展すればデジタルならではのメリットと比較して、「物としての本」の優位性が、(なくなりはしないが)総合点では次第に薄れてくるのではないかと思われた。
ところが今、いざ自宅で簡単に蔵書をデジタル化できるようになると、「本ならもう一度読もうと思うこともあるかもしれないが、デジタル画面でもう一度読もうという気にはならないだろうな」と改めて思えてくる。逆説的だが。
それこそデジタル化するのは雑誌や、本でも資料的なもの、解説書などだけでいいや、と。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)