「高野山」の奥の院や金剛峯寺、丹生都比売神社や慈尊院など周辺寺社の見どころと魅力紹介
目次
高野山は和歌山県の北東部、紀伊山地の深い山々の中にあるお寺です。
今から1,200年以上前に開かれた真言宗の根本道場で、現在においても多くの僧が生活する信仰の場として知られています。
また、それと同時に高野山は関西でも人気の観光地のひとつでもあり、山内の神秘的な雰囲気やスピリチュアルな体験の数々を求めて例年多くの観光客が訪れています。
静かな奥の院参道を歩いたり、宿坊で様々な密教体験をしたり。高野山は日常と隔てられた様々な体験ができる場所として広く知られています。
そんな奥深い魅力を持つ高野山の見どころは、実は山内のみに留まりません。高野山へ伸びている道そのものが世界遺産に認定されていたり、山麓の広い範囲に弘法さんや高野山と深い関係を持つ寺社が数多く点在しており、それらを見て回るとさらに高野山の魅力をより深く知ることができます。
この文章では高野山と、高野山と関係が深い周辺のスポットについて、その歴史や魅力について解説していきます。
今年は高野山が世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されて20年の節目の年です。今年の高野山訪問では高野山のお山の上だけでなく、周辺の様々なスポットにも立ち寄ってみませんか?
弘法大師空海と高野山
密教を学ぶため唐に渡った空海
讃岐国で生まれた空海
高野山が開かれたのは今から1,200年以上前、平安時代初期の弘仁7年(816年)のことです。
本記事では、霊場高野山と高野山を開いた空海について述べていきます。
高野山を開いたのは「弘法大師(こうぼうだいし)」というおくり名でも呼ばれる僧侶である空海です。
後に真言宗と高野山を開く空海は、奈良時代末期の宝亀7年(774年)に讃岐国(現在の香川県)で生まれました。
幼いころから聡明であった空海は、当初は役人を養成する学校「大学」で学んでいました。しかし学問に飽き足らず、19歳を過ぎたころに山林に分け入ると、そのまま20代のほとんどを修行の中で過ごします。
特に有名なのが高知県の室戸岬で修行した際の逸話です。室戸岬から海に向かって開口された洞窟の中で空海が「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」と呼ばれる荒行を行っていたところ、経を唱える空海の口の中に明星が入り込み、それによって悟りを得たという話です。
この洞窟からはただ遥かに空と海だけが見えており、「空海」という法名はこの時に自身で名乗ったといわれています。
遣唐使メンバーに選ばれる
修行中の空海は虚空蔵求聞持法のような密教修行のほかに、中国語や梵字、医薬などについても学んでいたといいます。それらの知識を評価され、延暦23年(803年)に派遣される遣唐使メンバーの一人に選抜されています。
遣唐使に選ばれた経緯については近年に新発見がありました。従来「留学僧」として派遣されたと考えられていた空海が、実は「薬生(やくしょう)」、つまり薬学を学ぶ留学生の枠で遣唐使のメンバーに登録されていたのではないかという説が唱えられています。
この時同じ遣唐使メンバーの中には、日本天台宗の祖となる最澄の姿もありました。この時の最澄はすでに日本仏教界で高い地位にあった僧である一方、空海はまだまだ無名の僧の一人でした。
何とか遣唐使の一員となったものの、空海の唐入りはスムーズではありませんでした。乗船した船が、一度目は現在の神戸のあたりで船が壊れ、港に引き返して翌年の再出航となったほか、満を持した翌年の航海では空海の乗った船が難破、唐の都長安を遠く離れた中国南東部沿岸の福州に流れ着いています。
福州にたどり着いた一行は海賊と疑われるなどして中々都へ向かうことが許可されませんでしたが、空海が優れた筆跡で現地の役人に嘆願書を記して交渉を担ったことで、長安行きを許可された話が伝わっています。
密教の奥義を全て習得して帰国
密教第七祖の恵果に師事
唐の首都長安に到着した空海は、最初に長安のお寺でインド僧に数ヶ月師事します。そこで梵字を学んで経典を授かり、次に紹介されたのが密教第七祖に数えられる名僧、恵果(けいか)でした。
空海の唐での学びとその吸収力は凄まじいもので、恵果に師事する直前にはインドの経典を原典で読めたと思われ、本場の仏教哲学をかなり理解していたのではないかと考えられています。
いかにこの時の空海がハイレベルにあったのかは、訪ねてきた空海に会った恵果が初対面で密教奥義の伝授を開始したことにも表れています。
その後数ヶ月の間に恵果から密教知識の全てと密教法具の数々を授けられた空海は、密教の全てを受け継ぐ「伝法阿闍梨(でんぽうあじゃり)」となり、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を授かります。
空海を称える真言に「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」がありますが、この真言はこの灌頂名に由来するものです。
一介の留学生であった空海がこれまでに積み重ねてきたことは、長安での数ヶ月の生活の中で一気に花開きました。
たった数ヶ月で密教を習得して帰国
密教の全てを習得した空海は、急ぎ帰国を目指します。
留学生は本来20年間を唐で過ごす規則でしたが、このとき空海にとっては幸いなことに唐への往路を空海と同じ船で過ごし、一時日本に帰国していた役人が再度渡唐してきていました。
この役人に空海は「渡航費用がつきたこと」、「恵果に非常に期待され、他の弟子よりも優先して得難き仏法を習得したこと」、「この先20年も帰国を遅らせれば髪は白くなり、折角得た学びも役に立たなくなること」などを理由に書き連ねて帰国を上奏、本来であれば国の規則を破ることは許されるものではありませんが、唐朝から許可が下りたために帰国します。
2年ほどという短い期間での唐からの帰国は、留学生としては異例のことでした。
日本に帰った空海ですが、規則を破っての帰国であったため、すぐに都へ帰ることはできなかったようです。
帰国後の空海は2年間ほどの期間九州大宰府などに留め置かれましたが、『僧空海請来目録』という自身が唐から持ち帰った貴重な物品の目録を朝廷に提出、自身の留学の成果を伝えることで大同4(809)年に帰京を許されています。
空海が日本で密教を開いたタイミングには諸説がありますが、帰京後の弘仁3(812)年に京都高雄山で密教僧として学びを始めるための儀式「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」を開いて多くの弟子を灌頂に浴させたため、この時を空海による密教教団が成立した時と見てもよいかもしれません。
真言密教の道場として高野山を開く
朝廷から真言密教の道場として高野山を賜る
空海はその後、多くの僧が真言密教を学ぶことができる「道場」となる場所を探し始めます。この時空海の目に留まったのが高野山で、弘仁7年(816年)に朝廷へ高野山の下賜を請い、許可された記録が残っているほか、翌年には弟子を高野山へ派遣し、高野山に道場を開く準備を進めています。
空海が高野山を真言密教の道場とした理由にはいくつかの伝説があります。
高野山には「三鈷の松(さんこのまつ)」にまつわる伝説があり、高野山の麓の丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)にも異なる伝説が残されています。
高野山と空海の縁に関する様々な伝説
エピソードはそれぞれ異なっており、「三鈷の松」にまつわるものでは、唐での修行を終えた空海が船に乗る前に「密教を広めるのに適した場所を示せ」と東の方角に「三鈷杵(さんこしょ):密教の法具」を投げると、三鈷杵はそのまま東の方角に飛んでいき、帰国後の空海が探すしたところ、高野山の松の枝に掛かっていたとされています。
丹生都比売神社に伝わる伝説では、唐から帰国した空海が密教道場の候補地を探して歩いていたところ、空海の元に黒と白の2匹の犬を連れた猟師が現れ、「犬についていくように」と伝えて犬を放ちます。
空海は犬を追って高野山の麓、現在丹生都比売神社のある場所にたどり着くと、周辺の地を治める神、「丹生明神」が現れ、空海に高野山の地を授けたといわれています。
犬を放った猟師は、この丹生明神の息子であるとされており、ここから高野山は空海が神様から授けられた土地であるとしています。
空海が高野山を修行の道場として選んだ理由は、実際のところ空海が唐に渡る以前に各地で修行をしていた際、実際に高野山周辺を訪れて目星をつけていたのではとされていますが、丹生明神と空海の不思議な関係性からは様々な推論がたてられているので、お調べしてみると楽しめるかと思います。
高野山麓にはいくつかの「丹生」の名を冠する神社がありますが、「高野山の地主神」である丹生明神は、その後には「高野山の守護神」として山麓の高野山に関係する様々な場所へ祀られていきました。
また、密教道場として人里離れた山中に開かれた高野山は、標高の高い場所にあることで気温が低く、また麓から山上まではルートによるものの徒歩で6~7時間を見込む必要があるなど、修行の場のため仕方ないことではあるものの、決して便の良い場所ではありませんでした。
山麓地域にも寺院を開く
弘仁7年(816年)に高野山を開いた際、空海は上記課題を解決すべく、山上の伽藍を整備すると同時に山麓地域にもお寺を開いています。
そのお寺が高野山麓の九度山にある「慈尊院(じそんいん)」で、高野山へのアクセスルート、「町石道」の起点部に位置しています。
このお寺は高野山の庶務を司る政所として機能したほか、高野山参詣の宿所、冬季の避寒修行の場所とされました。
慈尊院には1つの話が伝わっています。高野山の開山から間もなくのころ、高齢になった空海の母が息子の開いた高野山を一目見ようとこの地を訪れました。
しかし、当時の高野山は女人禁制の地のため入ることができず、慈尊院で本尊の弥勒菩薩を篤く信仰します。
空海は母に会うために月に九度、山を下りてこの地へ通ったため、慈尊院の周辺の地名が「九度山」となった。というものです。
空海の母はその後承和2年(835年)2月5日に死去したと伝わります。空海の母は死去(入滅)して慈尊院本尊の弥勒菩薩に化身したという信仰が生まれ、高野山に参ることができない女性が仏さまと結縁できる場所、「女人高野」としての信仰も見られるようになりました。
高野山で生まれた空海の入定信仰
お堂の配置で曼荼羅をあらわす
これら周辺の社寺を含め、空海は密教の修行道場である高野山の整備を進めていきました。弘仁14年(823年)には京都の教王護国寺(東寺)を賜り、こちらも真言密教の道場としています。
話を高野山に戻すと、空海が最初に整備に取り掛かったのは山上の「壇上伽藍」一帯で、ここでは空海独自の密教理論に基づき、様々なお堂が曼荼羅の内容に沿った配置で並んでいます。
東寺では仏像が曼荼羅に倣った配置となっていることが知られていますが、高野山ではそれぞれの仏様を祀るお堂で曼荼羅を示しています。
空海は生前に壇上伽藍の整備をスタートしていたものの、老いて後も朝廷と高野山などを行脚する多忙な日々を送り、承和2年(835年)3月21日、高野山や壇上伽藍の完成を見ることなく入定しています。
今も瞑想を続けるという「入定信仰」
貞観11(869)年に完成した歴史書『続日本後記(しょくにほんこうき)』には、空海の入定と、死後その遺体は荼毘に付されたことが記されています。
しかし、空海の入定から100年以上を経た康保5(968)年の資料には「四十九日を経ても空海の遺体には変化がなく、髪や髭が伸び続けていた。」という内容の記述があり、空海の没後間もなく入定信仰(空海は生死の境を超えて弥勒菩薩がこの世を救う時まで、衆生救済を目的に瞑想をしている)が生まれていることがわかります。
各見どころの紹介
ここまで高野山の歴史について、空海の事績と共にご紹介してきました。
ここからは高野山とその周辺の見どころについてより詳細にご説明していきます。
壇上伽藍
最初に整備されたエリア
高野山の中でも空海の生前、高野山の最初期に整備が開始され、修行道場高野山を象徴するエリアが壇上伽藍です。
周辺より一段高い場所にあることが「壇上」の由来と考えられることも多くありますが、これは誤りで、元は「壇場」と書き、「密教の修法を行う場」としての意味合いだったものと考えられています。
伽藍内には多くのお堂が建ち並んでいますが、それらのお堂の配置は独特で、中門と金堂を南北の中心線上に配し、その後方東側に胎蔵界を表す根本大塔、西側に金剛界を表す西塔を配置、伽藍配置によって真言密教の教義を示していました。
「右遶」と呼ばれる独特の参拝方法
ここではお堂のまわり方も特殊で、境内を時計回りに参拝する右遶(うにょう)と呼ばれる参拝方法が伝えられています。
これは古代インドの風習に由来するもので、敬う対象の周囲を、清浄である右手の側を常に見せて周ります。
右遶(うにょう)に則ると壇上伽藍の参拝順路は
1、中門をくぐり
2、金堂を参拝
3、登天の松と杓子の芝
4、六角経蔵
5、御社
6、山王院
7、西塔
8、孔雀堂
9、逆指しの藤
10、准胝堂
11、御影堂
12、三鈷の松
13、根本大塔
14、対面桜
15、大塔の鐘
16、愛染堂
17、不動堂
18、勧学院
19、蓮池
20、大会堂
21、三昧堂
22、東塔
23、智泉堂
24、蛇腹道
25、六時の鐘
の順とされており、右回りに壇上伽藍を一周して、金剛峯寺方面へ向かうことが推奨されています。
拝観情報
拝観時間 | 金堂 8:30~17:00(受付は16:30) 大塔 8:30~17:00(受付は16:30) 有料エリア以外は日中随時 |
拝観料 | 金堂 500円 根本大塔500円 |
住所 | 伊都郡高野町高野山152 |
奥之院
今も空海が瞑想中
奥之院は壇上伽藍とならぶ高野山内の霊場で、最奥のお堂では今も空海が入定、瞑想していると伝えられています。
空海は生前多忙にしており、また官の力ではなく民間の寄付を頼りにしていたために工事も進みが良くなく、高野山全体の整備は空海の入定後に本格化していきました。
高野山内の施設の中で空海の生前に存在していたのは壇上伽藍の一部と奥之院のみであったと考えられています。
奥之院は、承和元(834)年に空海自らが入定する場所として定めたとされ、その翌年の3月21日午前4時より空海は永遠の瞑想へ入ったと伝えられています。
入定前に空海は「死後は天界に至り弥勒菩薩に仕え、56億7000年後に弥勒如来が地上に降りる際は共に下生する」と語ったとされますが、空海の死後しばらく経つと「空海は人間の身体のままに成仏し、今も衆生を助けている」という信仰も生まれます。
弥勒菩薩は修行を続け、56億7000年後に悟りを開き末法の世界に降り立ち人々を救うと信仰されている仏さまですが、生前から空海は弥勒菩薩を篤く信仰、死後に弥勒に仕えることで弥勒仏と非常に近しい存在であると考えられました。
参道に並ぶたくさんの墓石
奥之院の参道に並ぶ数多くの墓石は、「空海の近くで眠り、救済を得たい」という信仰とともに、遥か未来に弥勒仏が空海とともに高野山に降り立った際、弥勒仏の説法を最も早くに受けて成仏したいという信仰が数多くの人々の間に浸透した結果建てられていきました。
拝観情報
拝観時間 | 日中随時 |
拝観料 | 境内自由 |
住所 | 伊都郡高野町高野山152 |
金剛峯寺
高野山の中心
高野山の境内地を説明するとき、「一山境内地」と言うことがあります。
高野山は山全体がお寺の境内にあたり、壇上伽藍にある金堂が高野山全体の本堂ということになります。
高野山のほぼ中心にあり、多くの観光客が訪れる金剛峯寺は、高野山全体をお寺の境内に見立てた際には「庫裏」や「方丈」、「寺務所」などの建物にあたります。
明治時代に金剛峯寺という名称に
現在の金剛峯寺の建物が「金剛峯寺」と称されるようになったのも高野山の歴史から見れば比較的近年、明治時代に入ってからのことで、豊臣秀吉が母親の追善のために建立した「青巌寺(せいがんじ)」と、それとほぼ同時期に高野山の僧である木食応其(もくじきおうご)が秀吉の帰依を受けて開基した「興山寺(こうざんじ)」という2つの寺が合併したものです。
江戸時代までの高野山は、密教の研究を主とした「学侶(がくりょ)方」、寺院の管理など実務を担い、有事には僧兵ともなった「行人(ぎょうにん)方」、そして全国を行脚し、空海や高野山への信仰を高め、勧進を行った「聖(ひじり)方」の「高野三方(こうやさんかた)」という3つの派閥に分かれていました。
そして青巌寺は学侶方の、興山寺は行人方のそれぞれ代表寺院にもなっており、明治時代の両寺院の合併は高野山の統合を意味するものでした。
現在の金剛峯寺は高野山全体の宗務を司っており、高野山真言宗の管長、高野山の座主(住職)の住まいにもなっています。
拝観情報
拝観時間 | 8:30~17:00(受付は16:30) |
拝観料 | 1,000円 |
住所 | 伊都郡高野町高野山550 |
公式ホームページ:高野山真言宗 総本山金剛峯寺
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
高野山全体の守り神
高野山から紀ノ川方面に向かって山を下ると、途中で小さな盆地に差し掛かります。
この盆地は「天野盆地」と呼ばれ、盆地東側には「天野明神」とも呼ばれる丹生都比売神社が祀られています。
丹生都比売神社は空海に高野山の地を授けた逸話が伝わっており、その縁から後年には高野山全体の守り神としても信仰を受けました。
ここ丹生都比売神社以外にも丹生都比売を祀る丹生神社は高野山上、高野山麓の様々な場所で祀られていることが確認できるほか、丹生都比売神社には現在でも高野山の僧侶による参拝もあり、高野山と一体ともいえる深い関係を有しています。
高野山の開創後早い時期から「高野山の守り神」として認識されてきた丹生都比売神社ですが、神社の名前に含まれる「丹生」から、元々は「丹(辰砂、水銀)」の採掘に携わる人々が信仰した神であるとも考えられ、空海が丹生の神から高野山を賜ったという逸話は、この丹を採掘する人々と空海の関係を示唆しているのではないかという考え方が見られます。
実際に辰砂は寺社を朱塗りする際に多用されており、空海と丹を採掘する人々の間になんらかの関係があったとしても不思議ではありません。
勇ましい軍神としても広く信仰される
また、丹生都比売神社の祭神である天野明神、丹生都比売には勇ましい逸話も残されています。
鎌倉時代にモンゴルが襲来した元寇の際、全国各地の神々が戦場へ出陣、神風を吹かせたとされていますが、その中で丹生明神は神々の中で先陣を切って出陣、元軍を壊滅させたとされています。
これは高野山と丹生都比売神社が鎌倉幕府からの崇敬を受けたことで生まれた伝説であると考えられていますが、これより遡る『播磨国風土記』の中でも神功皇后の朝鮮出征の際に丹生都比売が進軍を助けた逸話が残されており、丹生都比売が「高野山の守り神」でありながら「軍神」としても広く信仰されたことが伺えます。
拝観情報
拝観時間 | 日中随時 |
拝観料 | 境内自由 |
住所 | 伊都郡かつらぎ町上天野230 |
公式ホームページ:丹生都比売神社|紀伊山地の霊場と参詣道の世界文化遺産
慈尊院
女人高野として知られる寺院
丹生都比売神社のある天野盆地からさらに山を下り、紀ノ川にも近い場所には慈尊院が鎮座しています。
高野山とほぼ同時期に開かれたとされる歴史あるお寺で、元々は交通の便が悪く冬季に冷え込みの厳しい高野山に対し、冬季の避寒修行のお寺、高野山全体の政務や財務を司る場所として開かれたといわれています。
関西には室生寺や金剛寺のほか、高野山女人堂など「女人高野」と呼ばれる女性の参詣が許されるお寺がいくつか見られますが、ここ慈尊院はその中でも広く名が知られています。
その理由は空海の母親、「玉依御前」がこのお寺で入寂し、その後玉依御前が空海の夢の中で弥勒菩薩に姿を変えたという逸話にあります。
お寺の名前にある「慈尊」とは弥勒菩薩を指すもので、慈尊院ではご本尊の弥勒菩薩が女性が姿を変えたものであることから、特に女性を救済するお寺として広く知られていきました。
境内には乳房を象った絵馬が掛かっているのも見られ、子宝安産や育児、授乳を願う女性の参詣が今も多くあります。
拝観情報
拝観時間 | 8:00~17:00 |
拝観料 | 境内自由 |
住所 | 伊都郡九度山町慈尊院832 |
公式ホームページ:慈尊院 | 和歌山県の慈尊院公式サイト
丹生官荘符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)
慈尊院から高野山の方向へ向かって石段を登った先には丹生官省符神社が鎮座しています。
この神社は元々麓の慈尊院と一体として信仰されており、慈尊院は弥勒菩薩と丹生都比売を併せて祀っていたお寺でした。
お寺と神社が今のようにわかれたのは明治時代以降のことです。
聞き馴染みのない「官省符」という言葉は、元々荘園に対して租税を免除する書類を指すものです。
日本史において荘園が認められて租税を免除する方法はいくつかありましたが、官省符の発布を受けて荘園として認められる例は初期の荘園に多く見られた形式です。
高野山が所有した荘園はその多くが高野山の麓の紀ノ川流域に広がっていましたが、この荘園は書類の名前からそのままに「官省符荘」といわれ、豊臣秀吉によって高野山の荘園が解体されて以降も周辺地域を指す言葉として残っていきました。
この丹生官荘符神社は、その官省符荘の鎮守として信仰を受けてきた歴史を持っています。
この神社の見どころは三社が並ぶ本殿で、三社のうち右の二社が室町時代中期の永正14(1517)年、左一社が室町時代後期の天文10(1541)年に建築されたことが分かっており、高野山信仰と一体となったこの地域の神社建築を伝えています。
社殿の規模は大きくはないものの、細部の彫刻が美しいので、是非垣間から見ていただきたいものです。
拝観情報
拝観時間 | 9:00~17:00 |
拝観料 | 境内自由 |
住所 | 伊都郡九度山町慈尊院835 |
公式ホームページ:世界遺産登録 丹生官省符神社公式ページ
おわりに
ここまで高野山と弘法大師空海、そして高野山周辺の寺社についてお話してまいりました。
近年は外国人観光客も多く訪れるなど、観光地としての注目度が上がってきている高野山ですが、「高野山を訪れた際はどこをお参りするべきか」や「高野山と空海の関係」を知って訪れる方は決して多くなく、まして麓の高野山に関係する寺社を併せて訪問する方となるとかなり稀なのではないでしょうか。
しかし、折角高野山に行っても奥之院だけを詣でて帰ってきてはやはり勿体ない。
今後高野山を訪れる皆様には、頼りないご案内ではございますがこの文章を少しでもご参考いただき、高野山と周辺エリアへのご訪問を楽しんでいただきたく考えています。
当社MKトラベルでは周年企画として西国三十三所の巡礼ツアーを毎月数回のペースで催行していますが、その行程の中には「西国巡礼番外編」と称して西国三十三所の番外霊場である高野山奥之院をメインに、高野山と周辺の寺社を訪れるツアーがあります。
西国三十三所を巡りきった方にはぜひぜひご参加いただき、弘法さんに満願をご報告頂きたいですし、今回ご紹介した壇上伽藍、金剛峯寺、奥之院と、丹生都比売神社、慈尊院、丹生官荘符神社を一日で巡りきるコースのため、巡礼にまったく興味のない方にもおススメのツアーとなっています。
今年2024年は高野山や丹生都比売神社、慈尊院と丹生都比売神社、丹生官荘符神社が世界文化遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』に登録されて20周年の節目の年のため、各所で記念の御朱印をお受けできるほか、様々なイベントも開催されています。
「いつかは」と思っている方は、今年中のご訪問を考えて見られてはいかがでしょうか。
執筆者紹介
岩本 真輝(いわもと まさき)
1993年兵庫県西宮市生まれ。奈良大学文学部地理学科卒業後、営業職を中心に勤務。
2022年に旅行会社へ転職し、以降はツアー企画職やツアーライター/歴史ライターなどに従事しています。
https://iwamoto-masaki.com/
岩本真輝執筆記事