エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【417】|MK新聞連載記事

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エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【417】|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2023年1月1日号の掲載記事です。

本だけ眺めてくらしたい

押し入れの奥から昔観た芝居のパンフレットが出てきた。オンシアター自由劇場という劇団による「上海バンスキング」。
串田和美(かずよし)の演出で、吉田日出子が主演した。

私が観たのは1984年12月26日の大阪サンケイホール公演で、たまたま同時期に深作欣二監督、松坂慶子主演で映画化もされた。

その後、劇団員自身によって再映画化。
88年春に公開された。
社会人になってちょうど一年を経たころのことで、パンフを手に取ると、その時の思い出が連鎖してよみがえってきた。

松竹ほか大手企業の共同制作による深作版の映画は、大々的な宣伝とともに全国の映画館で一斉公開されたが、小さな劇団が制作した映画は芝居と同様に各地の市民会館などで巡回上映された。

京都は3月20日と21日、京都教育文化センターホールで計6回上映。
私は2日目の18時半の回を観た。

これら日時や会場を示せるのは、前売り券の半券やチラシなどをコンピューターにデジタル保存しているからで、YMOでもサザンでも机上ですぐに確認できる。

それはともかく、当時はインターネットでの予約や決済なんてなかったので、数か月前から発売される前売り券をプレイガイドと呼ばれる販売所に直接購入しに行った。

人気公演はファンが発売初日に早朝、前夜からも行列したものだ。

劇団版の映画上映会には、吉田日出子と劇団のバンドが来演するということで、私も早々に前売り券を手に入れて楽しみにしていた。

ところが、勤めていた会社の新入社員の合宿研修に、すぐ上の先輩として私を含めた前年入社の全員が参加するように発令があり、上映会がその合宿期間と重なっていたのだ。
社員研修担当の総務部長のところに行って私は言った。

3月21日は私用だが予定が既に入っている、と。
18時半からなので、それに間に合うよう抜けさせてほしい。
用事がすんだら、すぐに合宿所に戻ってくる。
祝日なので、本来は会社の公休日だから予定を入れていたのだと、強調した。

総務部長は「う~ん」と考えて、「何の予定なのか」と聞いた。

正直に私は答えた。映画館ではなく巡回上映で、日程は動かせない。何か月も前に前売り券を買ったと説明した。

総務部長は「よし、わかった」と、その場で了承してくれた。

合宿所は市内中心部から離れた山間部で、皆は貸し切り大型バスで移動したが、私ひとりだけ自家用車でバスの後ろをついていった。

もちろん、了解してくれた総務部長の立場を考慮して、映画を観るために会社の合宿研修を途中で抜け出すとは、誰にも言わなかった。
同僚には、詮索されないように「ちょっと、用事があって……」と無表情で言葉を濁しておいた。

今思うと、入社一年でずいぶん強気な社員だったなと懐かしく思う。

プライベートな生活を重視するという今どきの若者は、そんなの当り前だと思うかもしれないが、かつての日本社会や企業はそうではなかった。

その会社は6年ちょっとで辞めた。
総務部長は既に辞めていた。

私がその映画を観ることの意義を認めたその人は、何であれ人が自発的に興味を持ち積極的に行動する姿勢をよしとする人だったに違いない。

MK新聞について

「MK新聞」は月1回発行で、京都をはじめMKタクシーが走る各地の情報を発信する情報紙です。
MK観光ドライバーによる京都の観光情報、旬の映画や隠れた名店のご紹介、 楽しい読み物から教養になる連載の数々、運輸行政に対するMKの主張などが凝縮されています。
40年以上も発行を続けるMK新聞を、皆さま、どうぞよろしくお願いします。

ホームページからも最新号、バックナンバーを閲覧可能です。

 

MK新聞への大西信夫さんの連載記事

1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)

 

本だけ眺めて暮らしたい バックナンバー

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