エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【253】|MK新聞連載記事

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エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【253】|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2009年8月1日号の掲載記事です。

本だけ眺めてくらしたい

BS2の「週刊ブックレビュー」で、ある評者が漫才師のナイツの著書を「おすすめの三冊」の一つとして挙げ、「ナイツの漫才は活字にしてもおもしろい」とコメントしていた。
「そんな漫才はなかなかない。他には、かつてのツービートがあるぐらいだ」とも。
つまり、そのような漫才が芸として高級だという、自らの漫才観を表明しているわけだ。

笑いの好みは人それぞれだから、別に何も言うことはないのだが、先のコメントを聞いた瞬間に「活字にしてもおもしろい? いまどき、そんな漫才がおもろいか」と素朴に思った。
と言うか、そう思ったのは、話芸に関するそんな懐古趣味的な価値観をなぜか「どや顔」で披露しているその評者の表情に、ちょっと反発する気持ちがわいたからかもしれない。
もっとも、実際、私はナイツの漫才をおもしろいとは思わないし、ツービートの漫才は単におもしろくないだけでなく(当時は時代の波に乗った勢いが笑わせた)、芸に関しては決してうまいとは言えなかったと思うが、そんなことはどうでもよい。
繰り返しになるが、それは好みだから。

ともかく、その評者が言わんとすることを想像すると、昨今のお笑いブームにあって、「芸もない」のに、また、よく練られ敲かれたネタでもないのに、若者に人気のテレビタレント(評者のような人は「芸人」とは断じて呼ばないに違いない)が、スタジオで仲間内の雑談を垂れ流して騒いでいるだけではないか……ということなのだろう。

そういうことなら概ねその通りだと私も思うが、現在は現在なりに、例えばテレビ番組のトークにおける卓越した「芸」というものがあるし、漫才やコントなどにしても、技術や方法論が「古きよき時代」と比べて単に「変化」したというだけでなく、「進歩」している面も確かにあるということをその評者は理解できていないのではないか。
「浅草」や「寄席」の芸能世界をこよなく愛するのはご自由だが。

「書評も自己表現」であっていいと思うが、芸に関する自らの考えをテレビで主張するために漫才の本を選んだのなら、評論家としてもう少し「芸のある」紹介をしてもらいたかった。

http://examiner.co.jp/urayosi/urayosiyukitop.html

 

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MK新聞への大西信夫さんの連載記事

1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)

 

本だけ眺めて暮らしたい バックナンバー

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