エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【252】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2009年7月16日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
何回か前にこの欄で、専門的な勉強の入門書までマンガになっているという話題を書いた。
「マンガだから分かりやすい」と出版社側も読者側も思っているようだが、「親しみやすい」あるいは「取っ付きやすい」と、「分かりやすい」はまったく別。
マンガ「だから」分かりやすいという思い込みは、マンガに対する意識の低さにほかならない。
ニッポンの洗練されたマンガが世界で評価される一方で……と。
その後、マンガをめぐる新たな状況を論じたある人の指摘をたまたま本で読み、ビックリするとともに、なるほどそうだろうなと納得することがあった。
その人が言うには、近ごろ「マンガを読まない子どもが増えている」らしく、その理由というのが「マンガの文法」が理解できないから「おもしろくない」、それどころか、マンガは「むずかしい」から読まないというのだ。
「マンガだから分かりやすい」どころか、もはや「マンガですら分からない」。
もっとも、冒頭で言った「マンガで入門」の類の参考書はマンガもどきでしかなく、マンガ「ならでは」の表現はほとんど使われていない。
説明の文章が、単に絵で描かれた登場人物の吹き出しの中に話し言葉で入っているだけである。
あえて先の「マンガの文法」と同様の表現を使えば「活字(言語)の文法で描かれたマンガ」とでも言えばいいだろうか。
もちろん、マンガが「分からない」ことそれ自体は誰に責められるべきことでもない。
ただ、この世から自分が分からないものを順に切り捨てていったら何が残るのか。
「字ばっかりの本」でも、映画でも、美術でも、勉強でも。
何だってそうだが、おもしろいと思えるようになるまで自分が変わらなければしかたがないのではないだろうか。
同じようなことは、「自分が就きたい職業がない」という若者についても言えるだろう。
社会が「あなたにふさわしい職業」を一人ひとり用意してくれるわけではない。あなたより先に社会があるのだ。
それぞれどこか空いているところに入れてもらうしかない。
そうでなければ、自分で創るか。さもなくば「用意してくれた仕事」で、ひどい目に遇うか……。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)