信濃国一宮の「諏訪大社」に秘められた謎と上社下社の四社めぐり
目次
信濃国一宮でもある長野県の諏訪大社は、諏訪大社上社前宮・本宮、諏訪大社下社春宮・秋宮の四社からなる神社です。
日本全国に2万5,000社あるとされる諏訪神社の総本社でもあります。なぜ長野の神様を全国各地の神社で祀られているのか。その理由としては諏訪の神様が武神として広く武士から信仰されてきたこと、さらに庶民からも風の神や農業の神として信仰されてきたことがあげられます。
本記事では様々な神としての側面を持ち、幅広い信仰を獲得した諏訪の神様と諏訪神社にスポットライトを当てて解説し、長野にある諏訪信仰の総本社、諏訪大社の各神社についてもご紹介していきます。
日本中に広がる諏訪信仰
東日本を中心に全国に広がる諏訪信仰
全国に2万5,000社もある諏訪神社ですが、諏訪信仰の本場はどうしても甲信越を中心とした東日本です。京都を中心とした関西の方には馴染みが薄いというのが正直なところではないかと考えています。
しかし、よく見てみれば諏訪神社とその祭神は関西の中でも様々なところで祀られています。
例えば神戸。夜景の名所として人気のヴィーナスブリッジの下に祀られている神社は「諏訪神社」で、かつて源義経が戦勝を祈願したという由緒があります。
京都にもある諏訪神社
しかし、よく見てみれば諏訪神社とその祭神は関西の中でも様々なところで祀られています。
例えば神戸。夜景の名所として人気のヴィーナスブリッジの下に祀られている神社は「諏訪神社」で、かつて源義経が戦勝を祈願したという由緒があります。
京都市内でいいますと地下鉄五条駅近くにある「尚徳諏訪神社」。平安時代に坂上田村麻呂が勧請したといわれています。
諏訪町(すわんちょう)通の由来となった神社としても知られます。
京都府最南端の南山城村田山にある諏訪神社は、毎年11月3日に行われる「田山の花踊り」で知られます。
京都府指定無形民俗文化財となっています。
蛸薬師東洞院にある御射山(みさやま)公園も、かつてこの地にあった御射山諏訪社に由来します。
七条の諏訪開諏訪神社が上社、尚徳諏訪神社が下社、御射山諏訪社が御射山社に相当するとも言われています。
また、神社名にその名を関していなくても、大きな神社の境内摂社などには諏訪の神様が祀られている場合も多く見られます。
神話から見る諏訪の神様
日本神話上の諏訪の神様
国譲り神話で敗れたタケミナカタ
諏訪の神様について語るには、まずは日本神話のエピソードからご紹介したいところです。
諏訪神社のご祭神は、神社明細帳によれば建御名方命(タケミナカタ)と、その妃神八坂刀売神(ヤサカトメ)とされており、タケミナカタが諏訪大社上社の祭神、ヤサカトメが下社の祭神とされています。
ご祭神のうちタケミナカタについては「古事記」に登場しており、「だいこく様」として知られる大国主神(オオクニヌシ)の御子神とされています。
タケミナカタの登場は、オオクニヌシが天照大神からの使者である武御雷神(タケミカヅチ)に日本の国を譲る「国譲り」のシーンで、オオクニヌシやその御子神らが要請に従う中で一人武力をもってタケミカヅチに抵抗する様子が描かれています。
しかし相手のタケミカヅチは日本神話上でも有名な圧倒的な強さを持つ武神で、挑んだタケミナカタは敗北してしまいます。
タケミカヅチから逃れるタケミナカタは島根県出雲の稲佐の浜から諏訪にまで追いかけられ、遂に諏訪の地で捕らわれると、この地から出ないことを条件に助命されたといいます。
勇敢な神として武士の信仰を集める
神話上で敗北した神がなぜ武神として崇められるのか?という部分は大きな謎ではありますが、オオクニヌシらが戦わずして国を譲ってしまうほど強大な力を持つ相手に、果敢にも戦いを挑んでいく姿が武士達に評価されたのではないかともいわれます。
こうして、タケミナカタは諏訪の地に鎮まったとされています。
諏訪に伝わる神話
古事記とは異なる諏訪の神話
諏訪大社上社の神事のトップである、「神長官(じんちょうかん)」の家には、古事記とはまた異なる神話が伝えられています。
諏訪の地は元々は土着の神(洩矢神-モリヤーなどといわれます)が治める土地でしたが、そこにタケミナカタが現れて土着の神達を征服、代わりに諏訪の地を治めることとなったというものです。
この洩矢神、一説には自身も「ミシャグジ」等といわれる古い神様、精霊を祀っていたといわれ、祭祀も行う諏訪地域の“部族の長”のようなものだったとされています。
タケミナカタも服属後、洩矢神の子孫は諏訪大社上社に仕えることとなり、やがて祭祀や実務の実質的な主導者である神長官へとなっていきました。
明治時代までの上社の祭礼では、神長官のみが諏訪の古い神様を神を降ろすことができるとされるなど、諏訪大社内で特別な立ち位置を有していたことがわかっています。
上社と下社で異なる信仰のルーツ
一方でタケミナカタの子孫は、神官のトップでありながら、諏訪の神様の現人神でもある「大祝(おおほうり)」という、こちらも諏訪大社独自の役職を相続していくこととなります。
諏訪大社上社の祭礼には特異なものが多く残されています。そこには征服者で主祭神であるタケミナカタと、それに敗れた土着の神、その子孫が共存する特異な体制があったことも影響を及ぼしていることと思われます。
諏訪大社上社の大祝家はのちに諏訪氏を名乗ります。諏訪氏は戦国時代の荒波も乗り越え、諏訪高島藩2万7,000石として江戸時代も諏訪の領主として続きます。
一方の諏訪大社下社については、室町時代前期の文安6年(1449年)4月より始まった上社との抗争の中で大きな被害を受けており、戦いの中で境内の全ての堂宇を焼亡しているほか、それまで下社の大祝を務めていた金刺氏も滅亡しており、以降は上社優位の元で存続していくこととなります。
この時期に古文書の多くも失われており、下社の祭祀や信仰のルーツについては上社以上に謎に包まれています。
諏訪大社の信仰について
ミステリアスな諏訪の神様
正体がはっきりしないタケミナカタ
ここまで日本神話のお話を中心に諏訪大社と祀られる神様について解説してきました。ここからは諏訪の神様が人々からどのような信仰を集めてきたのかをお話していきます。
とは言ったものの、諏訪の神様の信仰は多様かつ複雑で、今なお研究者の方々の間で様々な説が飛び交っています。
私のような浅学が解説するのは気が引けるのが正直なところではあります。
諏訪大社の信仰を説明するのが難しい理由としては、「諏訪で祀られる神様の正体が実ははっきりしない」という点があげられます。
ここまで「タケミナカタ」という神様を諏訪大社の主祭神であるとしてお話してきましたが、この神様、「古事記」以外の「日本書紀」や「出雲国風土記」といった史書に名前が見られません。
これらを理由として、「ひょっとするとタケミナカタという神様は、国譲りのエピソードのために作られた神様なのではないか。」という視点が見られます。
また、諏訪においてもタケミナカタの存在感は薄いもので、中世の諏訪大社の祝詞(のりと)には「タケミナカタ」という神名は見られず、大祝や神長官家の資料にもありません。
中世の諏訪大社の祭神はただ「諏訪明神」などと呼ばれていました。
ミシャグジ信仰との融合
代わりに具体的な神名が登場するのは、神長官のみが降ろせるとされた「ミシャグジ」の名です。これらを根拠に「ミシャグジの信仰を神話に組み込むために生まれたのが“タケミナカタ”ではないか。」とか、「ミシャグジを信仰する建前として、中央から諏訪に押し付けられたのが“タケミナカタ”なのでは。」といった研究が見られます。
このミシャグジという神様もまたミステリアスで、ルーツなどははっきりしません。石や木に宿る原初的な神であるとか、風や水を司る蛇神であるなどといわれています。
タケミナカタとミシャグジの正体と関係性がどういったものなのかは古代史の霧の中にあり、はっきりとしたところはわかりません。
様々な信仰が重層的に重なり合った結果として諏訪大社への信仰が誕生、広まっていったことは確実なように思えます。
史書から例をあげると「日本書紀」の持統天皇5年(681年)8月には「使者を遣わして、龍田風神、信濃の須波(諏訪)・水内等の神を祭らしむ」という記録が見られます。
飛鳥時代には朝廷に信仰される風神・水神として、諏訪の神様が都に近い奈良盆地に祀られる風神(龍田大社)と同列に信仰されていたことがわかっています。
なお、水内の神とは諏訪神社の分社で信濃国水内郡にある建御名方富命彦神別神社という説が有力です。
諏訪大社と武士の関係
信濃を代表する武士団の「諏訪神党」
諏訪大社の信仰はその後も着実に広がっていきます。時代が鎌倉時代に入るころには、諏訪を中心に信州各地で諏訪大社を信仰する武士勢力が見られるようになっていきます。
諏訪大社の氏子となり、諏訪大社の大祝の元に結集して高い武力を誇った彼らは「諏訪神党(すわしんとう)」と呼ばれるようになります。
源平の合戦時には源義仲の軍勢の中核を担って活躍しています。
その後鎌倉幕府の体制下では、彼ら諏訪神党の多くの武士が信濃守護となった北条氏と接近して地位を上げることに成功します。北条氏と諏訪神党の武士達との関係は鎌倉幕府が滅亡した後、南北朝時代まで続いていきます。
諏訪頼重が北条得宗家の遺児・北条時行を擁して鎌倉を奪還した建武2年(1335年)の中先代の乱が有名です。
彼ら勇猛を誇る諏訪神党の武士達が信仰したことで、諏訪の神は従来の「風神・水神」としてだけでなく、「武神」としての立ち位置も確立していくこととなったと考えられます。
そして諏訪神党ら武士勢力との接近は、諏訪大社の信仰が全国に広がるきっかけともなりました。
諏訪大社の御射山祭から広がった諏訪信仰
諏訪信仰が広がるきっかけが、鎌倉時代に諏訪大社で盛んに行われた「御射山祭(みさやまさい)」です。
御射山祭は旧暦の7月末(新暦の8月末)に行われた祭礼です。風を鎮め稲の豊作を祈るという内容のものですが、注目はそのお祭りの内容にあります。
御射山の祭礼時には鎌倉をはじめ信濃や甲斐などから諏訪に御家人が集まり、諏訪の神様に武芸を奉納するために巻狩りや相撲に興じていたとされています。
この時期に諏訪神社の信仰は全国へ広がっていきますが、そこには鎌倉幕府から度々発布された「鷹狩禁止令」の影響が挙げられます。
源頼朝の富士の巻狩りなど、それまでの東国武士には狩猟を楽しむ文化がありましたが、鎌倉時代も中期になると執権など政権の中枢にある人物たちの価値観には貴族化も見られ、動物を殺して食すという行為への罪悪感が芽生えたことが鷹狩禁止に繋がったとされています。
一方で血の気の多い武士達にしてみれば鷹狩禁止などには到底従うことができません。そこで注目されたのが諏訪神社で、各地の御家人は御射山祭に倣って、自分の領地に諏訪神社を勧請、成果を神社に捧げるためという名目で狩りを楽しむこととしました。
日本各地の諏訪神社はこの時期、主に武士達によって大きく広まっていったと考えられています。
「神風」を起こした諏訪の神
また、諏訪大社は日本がモンゴルからの攻撃を受けた「元寇」の際には神風を起こして敵の軍船を沈めたとの逸話が残されています。
これは執権北条家と諏訪大社の関係が良好であったことから生まれた逸話と考えられます。この逸話の流布によって諏訪大社の風神や武神としての信仰はいっそう盛んとなりました。
こうした歴史を辿る中で諏訪神社の神様は「水神・風神」という性格をバックグラウンドに持ちながらも、武士達に信仰される「武神」、そして狩りと肉食を人に赦す神としての面も併せ持つ、ハイブリットなご利益を持つ神様になっていきました。
現在の諏訪大社社務所で並んでいるお守りを見るだけでも狩猟・鹿食の許可証であり、食の安全を祈念するお守り「鹿食免(かじきめん)」や勝運に因んだ「勝守」、五穀豊穣を祈る「御作田神符(みさくだしんぷ)」などが並んでいることを目にすることができます。
諏訪の神様のご利益の多様さを感じることができます。
諏訪四社各神社のご紹介
ここまで神話と実際に諏訪に伝わる信仰に触れながら、諏訪大社と諏訪の神様についてお話してきました。
ここからは諏訪地域に計四社ある各諏訪大社と、それぞれの特徴について説明していきます。
公式ホームページ:信濃國一之宮 諏訪大社
諏訪大社上社本宮(かみしゃ ほんみや)
長野県諏訪市の南部、裏手に神体山である守屋山を有している神社です。
諏訪大社上社には本宮と前宮がありますが、こちらの本宮が上社の本社にあたり、明治時代までは上社前宮は本宮の摂社という扱いがされていました。
神社の特徴
本宮は諏訪大社四社の中でも広い敷地を有することが特徴で、境内には今も多くの建造物が残されています。
また、それらの建築物には他の神社と異なる配置、建築様式を見ることができ、例を挙げると
・拝殿の後ろに幣殿が、そして左右に片拝殿が続く諏訪造の神殿配置
・神体山である守屋山に向かって立つ勅願殿
・東西2殿が並び、御柱祭の年ごとに交互に建て替えられる宝殿
・大祝のみが渡ることができた布橋
などを見ることができます。
下社二社と比べると、上社の神事は狩猟的な要素を多く残していることが特徴です。
毎年正月に行われ冬眠している蛙を捕らえ、小弓と矢で射貫いて神前に捧げる「蛙狩り神事(かわずがりしんじ)」や、春に行われ、神前に鹿の頭を奉納する「御頭祭(おんとうさい)、狩猟神事をルーツとする「御射山祭(みさやまさい)」などの祭礼が今も残されています。
拝観情報
拝観時間 | 日中随時 授与所は8:30〜17:00 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 0266-52-1919 |
住所 | 長野県諏訪市中洲宮⼭1 |
諏訪大社上社前宮(かみしゃ まえみや)
長野県茅野市の山手、諏訪市との市境近くの高台に位置している神社です。
神社の特徴
諏訪信仰の発祥の地ともされている神社で、拝殿の後ろ、垣根に囲まれた禁足地にはタケミナカタと、妃神のヤサカトメが葬られているともいわれます。
上社の鎮座地周辺は、明治維新まで諏訪大社の神職の代表であった「大祝(おおほうり)」が拠点としていた場所にあたります。
代々諏訪家の当主が継承してきた大祝職は諏訪大社の神と同一視、現人神として崇敬を受けてきた歴史を持っています。大祝の住む屋敷は「神殿(ごうどの)」、屋敷のあった当社周辺は「神原(ごうはら)」と呼称されていました。
大祝は中世末期まで、諏訪の領主と諏訪大社の祭祀の取りまとめを兼任しており、上社には今もそうした祭政一致時代の遺構や祭礼が多く残されています。
現在においても「御頭祭」など、本宮ではなく前宮で行われる祭礼も多く、古くからの諏訪大社の伝統が息づく神社であることが感じられます。
高台にある前宮境内には、山の上から「水眼(すいが)の清流」と呼ばれる小川が流れており、静かな雰囲気が漂っています。
また、上社前宮は諏訪大社四社の中で唯一、社殿四方に立つ御柱全てを直接確認することができる神社でもあります。
拝観情報
拝観時間 | 日中随時 授与所は9:00〜16:30 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 0266-72-1606 |
住所 | 長野県茅野市宮川2030 |
諏訪大社下社秋宮(しもしゃ あきみや)
諏訪大社下社は、上社からは諏訪湖を挟んで対岸の下諏訪町にニ社が鎮座しています。
神社の特徴
下社二社は上社二社とは異なり、秋宮と春宮の地位は同格であることが特徴です。8月から翌年1月までは秋宮に、2月から7月までは春宮にご神霊が鎮座しています。
下社秋宮は大きな神楽殿と、彫刻の細かな本殿が特徴的です。
特に大注連縄が特徴的な神楽殿は、諏訪大社をイメージする建物のひとつとして広く知られています。
上社と比べると下社の祭礼には失われてしまったものが多いのが残念ですが、毎年1月14日の夜に行われる「筒粥神事」と春と秋に行われる「遷座祭」が下社の代表的な祭礼として挙げられます。
「筒粥神事」は白米と小豆を葦と共に徹夜で煮、翌朝葦の中に入っている粥の分量によってその年の吉凶や豊作を占うものです。
2024年始の占いでは多くの作物が「上」との結果が出ており、多くの作物が豊かに実る年となるのではとされています。
「遷座祭」は春の農事開始前と秋の収穫前にご神霊を春宮と秋宮に御遷座する祭礼で、理由ははっきりとしないものの、農業に関係する信仰から発生したものではないかといわれています。
拝観情報
拝観時間 | 日中随時 授与所は8:30〜17:00 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 0266-27-8035 |
住所 | 長野県諏訪郡下諏訪町5828 |
諏訪大社下社春宮(しもしゃ はるみや)
秋宮からは旧中山道を歩いて20分ほど、諏訪湖から真っすぐ伸びた参道の先に境内を持っている神社です。
神社の特徴
弊拝殿は秋宮のものと瓜二つの建物となっており、これは江戸時代のほぼ同時期、同じ図面を元に再建がされたからであり、秋宮春宮をそれぞれ別の流派が担当、技を競い合ったことが伝わっています。
社地の傍らには砥川が流れており、下社の信仰はこの砥川の水神への信仰から始まった、との説も見られます。
境内から砥川を渡った場所には、岡本太郎が絶賛した「万治の石仏」が鎮座しており、巨岩に彫刻された身体に小さな頭が乗ったユーモラスな姿で知られています。
石仏は春宮の石鳥居と同時期に造られており、元々は石鳥居の石材に用いられる予定でしたが、石工がノミを入れたところ石から血が流れだしたために彫刻を中断、霊を納めるために石仏を刻んだとの逸話が伝わっています。
拝観情報
拝観時間 | 日中随時 授与所は8:30〜16:30 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 0266-27-8316 |
住所 | 長野県諏訪郡下諏訪町193 |
七年に一度の勇壮な「御柱祭」
七年に一度行われる勇壮で壮大な祭
「御柱祭」は寅と申の年に行われる諏訪大社の壮大な祭です。信州諏訪地方20万人がこぞって参加します。男たちを乗せた丸太が急坂を滑り落ちる様がニュースなどで報じられます。
正式には「諏訪大社式年造営御柱大祭」という、諏訪大社氏子の祭です。諏訪大社の四社の各社殿の四隅に建つ「御柱」を建て替えるために行われるのが「御柱祭」です。
柱の大きさはそれぞれ異なりますが、大きなものでは半径1メートル以上、長さ約17メートル、重さ12トンにもなります。
命知らずの男たちを乗せた御柱が、斜度40度、100メートルの「木落し坂」を一気に滑り下りる下社の「木落し」や、春先の身を切るような冷たい川を渡る上社の「川越し」。そして祭のフィナーレを飾る「建御柱」など多くの見どころがあります。
御柱祭は、記録としては室町時代初期に書かれた「諏訪大明神画詞」に桓武天皇の頃に始まったとあるのが最初です。
御柱祭の由来についてはいくつか説があるが、ここでは科学的知見はさておき古事記の国譲りに絡めた伝説をピックアップ。
前述のように国譲りでタケミカヅチに敗れたタケミナカタは逃げ出しますが、諏訪湖で追い詰められます。
「命だけは助けてください。もうこの地より他のところへは行きません」と言い、四隅に柱を建ててそこへ住み着いたという、これが御柱の始まりとされています。
ちなみにその言葉は今でも生きており、10月に日本中の神々が出雲に集まる「神無月」も、タケミナカタがとどまっている諏訪地方では「神有月」です。
「木落し」「川越し」「縦御柱」が見どころ
上社の「山出し」
上社と下社にわかれる諏訪大社で、先に行われるのが上社の「山出し」です。
下社に先駆けて4月2日より柱を山から里へ曳き出します。
上社では、下社には無い「メドデコ」と呼ばれるV字型の角が付けられ、柱に華やかさが加わります。準備を済ませた御柱が、甲高い木遣りの声とともに、約20kmに及ぶ曳行をスタートさせます。
1日目、最初に迎える難所は茅野市穴山地区の「大曲」。道が狭く曲がりくねっているため、長さ16mもある御柱が通り抜けるのは至難の業。ときには沿道の民家に被害を及ぶことも。
この大曲を抜けた御柱は、御旅所・子(寝)之神で清められ、ひと休みします。
21日目、最大の見せ場となる「木落し」が行われます。坂は下社より短いものの、斜度30度、40mの断崖を、メドデコに多くの若衆を乗せたまま下る姿は圧巻です。
ひと目見ようと、坂の周囲は10万人を超える大観衆で埋め尽くされます。
上社本宮の四本、前宮の四本。木落し坂を下った計八本が、最後の難所「川越し」へと向かいます。
雪解け水を集め、諏訪湖へと注いでいる宮川。氏子たちは、生命をおびやかす冷たい流れのなか、御柱を洗い清め、川を渡っていきます。
「木落し」「川越し」と厳しい道のりを越えてきた御柱は、諏訪大社上社の手前、安国寺の御柱屋敷に安置され、五月の「里曳き」を静かに待ちます。
下社の「山出し」
上社に続き、4月9日から3日間下社の「山出し」が盛大に執り行われます。
下社「山出し」の最大に見せ場は、何といってもその壮絶な「木落し」。氏子に曳かれて山間の狭い道を進んできた御柱が、いよいよ「木落し坂」に顔をのぞかせます。斜度35度、長さ100m。まさに断崖絶壁という形容がふさわしい坂です。
坂の両脇に八の字型に曳き綱を張って陣取る氏子たち、そして命知らずの男たちを乗せた御柱がじりじりと頭を突き出すと、坂の脇から下まで埋め尽くした大観衆までもが最高の緊張感に包み込まれます。
「ここは木落しお願いだー」と木遣りの声。そして御柱の後ろにピンと張られた綱が切られた瞬間、轟音とともに柱が坂を下っていきます。絶叫とも悲鳴ともつかない大歓声。「男見るなら七年一度、諏訪の木落し、坂落し」と謡われる諏訪の男たちのわずか数秒のドラマです。
祭のクライマックス「里曳き」
山出しで幾多の難所をくぐり抜けてきた御柱。
1ヶ月の沈黙を破って上社では5月3日~5日、下社では5月14日~16日に「里曳き」が行われます。御柱がいよいよ諏訪大社の境内へと姿を現します。無骨で勇壮な「山出し」に対し、「里曳き」は絢爛、豪華。
騎馬行列や花傘踊り、長持行列も繰り出して祭に花を添えます。
そして始まるクライマックス「建(たて)御柱」。先端を三角錐に整えられた御柱が、順番に社殿の四隅に建てられていきます。
御幣を振る若衆を乗せたままゆっくりと立ち上がる御柱。神になった御柱は、また静かに次に「御柱祭」を待つことになります。
おわりに
ここまで長文で諏訪大社とその信仰についてご説明してきました。
複雑で特徴的な信仰が残る神社で、私としても興味があるためつい筆がのっていました。わかりにくい記事となっていなければ良いのですが…。
この記事をお読みいただき、少しでも諏訪大社に興味を持っていただける方が増えれば嬉しいです。
諏訪大社を訪れる際に注意したいのは訪問方法です。
諏訪大社は文中で紹介した通り4社それぞれに魅力があり、諏訪大社でも「四社めぐり」として巡礼をおすすめされています。
各神社ごとに参拝するのであれば鉄道駅から徒歩でアクセスが可能であったり、駅から公共バスの運行などを利用してスムーズに訪れることができますが、巡拝となると時間管理がシビアになります。
特に下社から上社間には直通するバスの運行がないため、一度駅まで出て移動する必要があります。公共交通機関で諏訪四社を訪問する際はしっかりと旅程の管理を行いましょう。
MKトラベルの京都発ツアー
私からおススメしたいのは当社MKが催行するバスツアーです。
MKトラベルでは、2024年9月30日(月)~10月1日(火)、10月26(土)~10月27日(日)の2つの日程で、「西国巡礼【特別編】善光寺で宿坊宿泊・諏訪大社めぐり」を催行します。
京都駅発着、ジャンボタクシーで行うツアーで、長野県の有名な社寺である諏訪大社と善光寺を訪れます。
ツアー1日目に今回ご紹介した諏訪大社4社を巡拝、タクシーで鳥居前から鳥居前へとストレスフリーに移動します。
2日目は朝から名刹・善光寺を堪能します。宿泊は善光寺門前の宿坊をお取りしており、有名な「お朝事(あさじ)」にもご参列いただけます。
秋の信州ということで、場所によっては紅葉の見ごろを迎えている頃にツアー催行ができるのではないかと考えておりますし、道中では小布施の栗など旬の秋の味覚を楽しむこともできるのではないかと思います。
この秋、ぜひMKトラベルのバスツアーをご利用ください。
執筆者紹介
岩本 真輝(いわもと まさき)
1993年兵庫県西宮市生まれ。奈良大学文学部地理学科卒業後、営業職を中心に勤務。
2022年に旅行会社へ転職し、以降はツアー企画職やツアーライター/歴史ライターなどに従事しています。
https://iwamoto-masaki.com/
注:本記事中「七年に一度の勇壮な「御柱祭」」のみはMK新聞の2004年掲載記事を再構成したものです。