エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【310】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2014年2月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
いわゆる名言集のちょっとした出版ブームがここ数年続いているが、私が名言集について思うところを少し記してみる。
名言集の中には、見開きの右ページに名言、左ページに編者の解説あるいは、名言の趣旨を敷衍した短いエッセイを載せる形式のものがある。
しかし、その言葉が名言であるのは、その言葉そのもの、例えば、選ばれた単語や言い回し、比喩、皮肉などがユニークだからではないか。
つまり、編者のコメント、その切り口やセンスを楽しむのでなければ、蛇足の解説は必要ない。
「名言を味わう」(笑)ついでに、発言者である偉人や著名人の来歴や背景の歴史などをお勉強するなら別だけれど。
もちろん、その言葉が意味するところ、考え方や批評眼、信条や心情があっての名言だが、言わんとするところに感心するというだけなら、同様のことを表現している別の名言は古今東西にいくらでもある。
というより、魅力的な名言も単に「時は金なり」や「止まない雨はない」といった話題に換言してしまうのなら、わざわざ名言に教えられなくても、大抵の人は、それらをすでに実感するような経験をしているか、ことわざや教訓話などを通じて「わかっている」のではないだろうか。
あるいは「この人が言うから説得力がある」というのであれば、それはもはや名言集ではなく、偉人列伝かファンブックか、雑学本だろう。
私の偏見だが、経済人やスポーツ選手の名言にそういうものが多い。
結果を出した人としての説得力はあっても、ユニークな表現ではない。
ところで、古典的な小説や戯曲の登場人物のセリフを取り上げ、それを作者の名言とされていることがあるが、これはどうなのだろうか。
もちろん、その言葉は作者が紡ぎだしたものだが、言うまでもなく創作というものは、自分と違う(微妙に異なる、もしくは対立する価値観の)考えを登場人物に語らせることもあるからだ。
つまり、それは作者ではなく、あくまで発言した登場人物(架空の人物だけれど)の名言とするのが本来のような気がする。
作品世界の中を生きる彼や彼女の人物像、背景となる人生、そして前後の流れがあって、発言されたものだから。
しかも、魅力的な言葉で。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)