エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【282】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2011年10月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
ニューズウィーク日本版9月14日号の表紙を見て、力が抜けた。
最上段に「3・11と9・11」との大見出し。炎を吹き上げているWTCビルと、津波で流された家屋が水に浮かんだまま火事で燃え盛っている二枚の写真を並べている。
ご丁寧にも、炎がそれぞれの写真のほぼ同じ位置にくるようトリミングされて。副題は「二つの悲劇で日本とアメリカは何を失ったか」。
動機が表明されたテロと天災を「悲劇」という言葉で一緒にしているのだ。
どんな理由があろうとも無差別テロが許されないのは言うまでもないが、アメリカ人(少なくともニューズウィーク)が9・11を地震や津波のように「非のない自分たちに降って湧いた理不尽な出来事」ぐらいにしか認識していないことがこの悪趣味な表紙から改めて感じられた。
ところが当該ページを見てみると、記事を書いたのは日本人。
しかも「一緒にするな」との批判に先回りして、「憎悪によるテロ攻撃と理不尽な自然災害は本質的に違う」との説明を本文冒頭に記している。
また、「11日という日付が同じだという理由だけで『3・11』と呼ばれているわけではないだろう」として、語呂合わせの言葉遊びに対する言い訳も忘れずに付け加えている。
こうした前置きをきっちりした上で、高尚なレトリックを駆使し、あの日から十年後と半年後というそれぞれの節目に見えてきた共通の問題点を指摘する。
そして、テロ直後こそ一部のアメリカ人は「なぜ嫌われるのか」と自問したが、結局十年間、真正面からこの問いに向きあうことはなかった、同様に日本も……と結んでみせる。
震災直後の被災者への熱い思いや、新しい国づくりの初心がこの半年でどこかへ行ってしまってはいないか、と。
お上手。
でも、そもそも両者が「本質的に違う」と言うのなら、初めから並べて論じる必要などまったくないのでは?
いや、それ以前に「直後こそ……だったが、そのうち結局……」というパターンは3・11と9・11に限らず何にでも当てはまる。
それこそ、人間の本質なのか。
ところで、表紙のアイデアを思いついた人はその時、きっと小躍りしたに違いない。
文章やデザインは、策それ自身を目的にしかねない――自戒を込めて。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)