エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【217】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2008年2月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
去年の流行語ということになっている「空気読め」という言葉にはどこか、常日頃から言葉についてひとことある人の気に障るところがあるのだろう。
この言葉について書かれた文章を嫌というほど目にした。
そこに全体主義的、強制的、排他的な臭いを嗅ぎ取って否定的に論じたものが多いのだが、また一方で、ビジネス書などでは競争社会で必要な能力として、その方法を教える『「空気が読める!」と言われる人のビジネス会話学』などという、ありがちな本がいくつも出版されている。
この言葉はそもそもインターネット上で使われていたとか、九〇年代にはラジオの深夜放送で使われていたとか、挙句に山本七平の『「空気」の研究』(一九七七)まで持ち出してきては、より古い用例を指摘することを競って解説してみせるものもあるが、今ここにきて流行したことの説明にはなっていない。
私は、近年のお笑いブームの中にあって、テレビのバラエティ番組でタレントが口にする「空気読め」が昨今の流行の契機ではないかと想像しているのだが、ここではそれを言いたいのではない。
興味深いのは、お笑いタレントと、流行語として流通している巷の若者(子ども)たちとは、その言葉の使われ方が違うということだ。
テレビのタレントが口にする「空気読め」は、「いじられて、おいしい」「ベタなノリツッコミやめろ」などと同様、芸人の符丁を客の前で言う楽屋落ち的なセリフで、「空気読め」と言うAも言われるBも、まわりにいるCたちもテレビカメラの前に立つ共演者であり、視聴者D(商売上の客)を笑わせるという目的でやっている。
ところが、ネットや学校には(傍観者を含め)CはいてもDはいない。あるコミュニティにおいてBは非難あるいは排除される対象であり、その言葉は全体主義的な旧来の使われ方をしている。
バラエティでは「空気読め」という言葉そのものがポイントではなく、空気を読めなかったボケにツッコミを入れることで笑いが起こる。私はそのような楽屋落ちを好まないが、空気を読める人ほど勘のいいお笑いタレントだという前提においては、「空気読め」は必ずしもネガティブな言葉ではないと言える。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)