エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【182】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2006年8月16日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
相変わらず日本語の「誤用」を解説したりクイズ形式で教えたりする本が書店に並んでいるが、私にも最近「気になる言葉」が二、三ある。「最近」というのは、最近気になり出したというのではなく、耳にする機会が増えてきたというほどの意味だが、もっとも、ここで私が「正しい」知識から「間違った」言葉遣いを指摘しようというわけでは決してない。ただ、私が抱いているイメージとは何となく違うな、というだけの話に過ぎない。
「……が私の背中を押してくれました」という言葉をテレビなどで時々聞く。例えば、スポーツ選手のインタビューで「連敗のショックから立ち直れず、もう試合に出たくないと思っていた時にファンからの激励が……」に続くフレーズとして。あるいは、もっと一般的に、企業人を取材した雑誌記事なんかでも、人生の転機で「なかなか決断がつかずに迷っていた時、家族の期待と応援が……」に続く場合もある。
しかし、そんな時、私なら「背中を押され」たくはない。背後から押されるのではなく、前方で両手を広げて私を待ってくれている世界に向かって自ら足を踏み出したい、そんなイメージだろうか。逆の立場で言うなら、私は誰かの背中を押すのではなく、その人が見失いかけている前方をほんの少しでも照らしてあげることができれば――そんな気持ちで言葉をかけたいと思うのだが。
もう一つ。「……の恩返しに……を」「……の恩を……で返したい」という言葉も近ごろ、よく耳にする。が、その言葉には、どこか左右の天秤を釣り合わすような響きが感じられて、どうもなじめない。私がいつ誰となく教わったイメージでは、恩は返すものではない。ましてや、恩というものは返せるものではない。したがって、その意味するところは同じであっても、そのような言葉では表現したくない。恩には報いる(あるいは、報いようとする)――恩に関しては、それが自分にできる唯一のことではないだろうか。
恩は受けた人がそう思うのであって(あるいは、自分自身は感じることができても)、自分から誰かに売ることはできない。「恩」を返すなどと自分の口から言うのは、それこそ「恩着せがましい」のでは?と思うのだが。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)