エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【319】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2014年11月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
朝日新聞が炎上している。
書店でも、朝日新聞の「慰安婦」報道などをめぐる動向を特集した雑誌が賑(にぎ)わっている。
文春や新潮などの週刊誌や月刊論壇誌をふだん私は読まないが、祭りが盛り上がっているので、ついあれこれ買って読み比べてしまう。
売上データは現時点で不明だが、店頭の印象では、朝日新聞をバッシングしている雑誌は販売部数を伸ばしたのではないか。
しかも、強い調子で攻撃した雑誌ほど。
ところで、朝日新聞自身は、特定の記事は取り消しても、「慰安婦問題の本質」は変わらない、と主張している。
しかし、そのような主張について、私の考えを結論から言うと、「だからこそ、朝日新聞の罪は重い」というものだ。
当の朝日新聞が自己弁護で、また、シンパが朝日新聞をかばうために、あるいは「バッシング」騒動の悪影響を危惧する人たちが見失ってはいけないこととして、「慰安婦問題の本質」を挙げるのは、理屈がまったく逆ではないか。
もし、朝日新聞が言うところの「慰安婦問題の本質」について言及するのなら、朝日新聞がやってきたことは、その「慰安婦問題の本質」を追究してきた人々やその活動に泥を塗る行為であり、結果として、朝日新聞こそが「問題の矮小化」に貢献した張本人であるというべきだろう。
それに、今議論になっているのは、朝日新聞の「誤報」そのもの、それが直接、間接に引き起こした現実の悪しき事態、また「朝日新聞の体質」であって、「慰安婦問題の本質」ではない。
ペン先一つで「わかっていない人に、わからせてやろう」とする印象操作的レトリックの延長線上には、その種の書き手が陥りやすい落とし穴があるという、それこそ「本質的」な危険性、怖さをこの一件は改めて示していると言える。
一方、「バッシング」という言葉に「朝日新聞に問題があったのは確かでも、非難が度を過ぎている」というニュアンスが感じられるように、あまりに過激な朝日新聞攻撃は、結局この問題を相対化することになる。
下品な「バッシング」を続ける雑誌は、自ら言論のヒステリックな危険性を露呈し、朝日新聞問題から報道メディア問題へと焦点を拡散したがっているとしか思えない
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)