エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【278】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2011年6月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
電子書籍の話題が増えるのに比例して、「紙の本ならではの……」という物言いが増えてきたような気がする。
実際、新刊の本の装丁にしても、それを意識しているかのようなものが出てきているようだ。
例えば、飯沢耕太郎編『きのこ文学名作選』(港の人発行)。祖父江慎によるブックデザインが凝っている。
ジャケットカバーにはいくつもの穴があいていて、本文は数十ページごとに色も厚さも手触りも異なる十数種類の紙を使用し、書体も文字組も収録作品ごとにまったく違う。
ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの共著は、その名も『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(阪急コミュニケーションズ発行)。
460ページ超という分厚い本で、手に持って存在感があり、小口は鮮やかな青に塗られていて、物としての本であることを自ら体現している。
その他、変型判や、印刷・加工・製本の新技術を取り入れたものなど、書店に並ぶ本がバラエティに富むというのは単純に楽しいことだと思う。
ただ、物としての本の魅力は、ユニークな姿形の本だけにあるというものではなく、何でもない四六判の文芸書や読み古した文庫本にも感じるものだろう。
ところで、このように電子書籍との対比で「紙の本は物であり、本には物としての魅力がある」というような言い方がよくなされるが、確かに半面はその通りだとしても、もう半面をうまく言い表わせてはいないのではないか。
つまり逆説的に言うと、読書をしている時、紙の本はそれが物であることを意識させない無色透明な器であるということが、最も基本的で重要な特質ではないかということ。
紙の本が、内容を入れる無色透明な器に成り得るのは、活字の書体や組版、書籍用紙などの技術の積み重ね、継承によって、長い年月をかけてその文化が形成されてきたからだろう。
電子書籍は、狭義にはデジタルデータであり、物ではない。が、それを読むにはリーダーと呼ばれる機器が必要だ。
読書をしている時は、むしろ電子書籍こそがどうしようもなく物であると言える。ただし、(便利だが)物としての魅力に乏しい――。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)