エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【236】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2008年11月16日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
源氏物語の現代語訳にもいろいろあるが、ちょっと変わり種が出版された(全四巻、順次刊行)。アーサー・ウェイリーによる英訳を邦訳したものだ。
世の中にはこれまたいろんな人がいるもので、「それまでよく理解できなかったが、ウェイリー訳を読んで源氏物語がようやく『わかった』」という人がいるのだそうだ。
そんなカッコのいいセリフを一度口にしてみたいものだが、それがキザな物言いなのか、実際にそうなのか、その人ほど英語が堪能ではない私たち(少なくとも私)は、ウェイリーの英文を読んだところで、共感のしようもない。
で、「ウェイリー源氏」が実際どれほどわかりやすいものなのか、試しにもう一度それを日本語に訳し、ひとつ皆で読んでみましょうよ……
というわけで、千年前に当時の日本の言葉で書かれ一九二〇年代から三〇年代にかけてイギリス人によって英訳された物語を「千年紀」である二〇〇八年の今年、思いがけず現代日本語で読むことができるようになった。
確かに、古典の現代語訳にしろ外国文学の邦訳にしろ、訳者による違いを読み比べるのは楽しい。
それに、読者に親しみやすい文章というのは、時代とともに変わるもので、近年は村上春樹訳など外国文学の新訳が相次ぎ、亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』は邦訳古典文学としては異例のベストセラーになった。
源氏物語のように、もともと難しくてわかりにくい古典文学が、翻訳によりわかりやすくなっているということは、主語を明確に示すなど英語構文の特徴があるにせよ、それ以上に訳者の創意工夫というか、アレンジが少なからず加えられているということであり、その行為が「源氏物語」そのものを「正確に」伝えていると言えるかどうかの議論は絶えずある。
ただ、「原文に忠実な翻訳」の解釈とその是非は訳者によっても異なるし、それもこれも含めて「翻訳とは何か」について考えることは興味深い。
かつては、例えば古代ペルシャ語の詩を翻訳するのに、その英訳から邦訳するといった重訳も結構行われていた。
重訳の一種である邦訳ウェイリー源氏も訳者によってその印象は違ってくる。何十年後かに、ウェイリー源氏の新訳がでる日はあるのだろうか。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)