エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【323】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めてくらしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2015年3月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めてくらしたい
近ごろ、気になっている言い回しがある。
例えば、テレビのクイズ番組の司会と回答者が対話しながら進行する構成で、「では、答えをどうぞ」という司会のセリフに回答者が「『イスラム国』でお願いします」とこたえるのだ。
たまたまそういう人がいたというのではない。決して少なくない人がそのようにこたえる。
「答え」を聞かれたのに「でお願いします」とうける。
もちろん、「私のこの答えで正否の判定をお願いします」という意味だと解釈することはできるが、単に「イスラム国」、あるいは「『イスラム国』です」でいいところを「『イスラム国』でお願いします」とこたえるわけだ。
他にも「開運! なんでも鑑定団」という番組の司会が、物品の鑑定を依頼してきた出場者に「ご本人の評価額はおいくらですか」とたずねるお決まりのやり取りがあるのだが、そこでも「一〇〇万円でお願いします」とこたえるのだ。
金額を聞かれたのに「でお願いします」とうける。
これも「私の評価額は一〇〇万円ですが、専門家による鑑定をお願いします」という気持ちのあらわれであると分析することはできる。
私は、単に質問と答えが論理的に対応していないことを「誤り」だと指摘したいのではない。
日本語の実相として、論理的な対応ではなく、その場の状況全体をうけて言葉をやり取りする側面があると、みなすこともできるからだ。
ただ、そのような分析こそ実は理屈の上のことであって、発言者の心理というのは単純に次のようなものだろう。
テレビカメラの前、つまり「究極の人前」という改まった場にあって、言葉を引き伸ばすことで“ていねい度”をアップさせる。
以前に同様の立場にあった人と同様の振る舞い(言葉づかい)をしておけば問題なかろうという無意識の反応である。
もはや一般的になった感のある、「です」でいいところを「になります」と言う迂遠な言い回しの蔓延も、接客など、人々にそう口にさせる圧の強い場面が社会に増えたことを示している。
「こちらが弊社の新製品『タッチでポン』になります」と言う、取材先の担当者の説明からVTRが始まるテレビの撮影(編集)パターンの定型化は、奇妙な言葉づかいの強力な拡大装置であるに違いない。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)