エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【362】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2018年6月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めて暮らしたい
今やテレビの画面は文字だらけだ。もう、うるさくてしかたがない。
例えば、左上に番組タイトル、右上にコーナータイトル、下部は端から端まで音声の字幕が流れる。そこへ左側に縦書きで「衝撃の映像まで3、2、1秒」とカウントダウンのテロップが入り、さらには、右側にも「CMの後は爆笑××対決」と視聴者の興味を引っぱる一行予告が―。
人は文字が視界に入ると読んでしまう。意識を奪われてしまう。
目は、次々と流れる字幕ばかり追いかけて、話している人の顔、表情やしぐさ、服装や周囲の状況を観ていないことに、ふと気がつくことがある。
それどころか音声も、聞こえているのに聴いてはいない。字幕を読んで理解しているのだ。
だから、私はいつも字幕を読まないように意識してテレビを観ている。
人が口にした言葉そのものに耳を凝らし、映像を細部までしっかり観るために。これには慣れるまで訓練が必要だ、と言うと大げさだろうか。
こんなことを書くと、字幕は聴覚の不自由な人のためにつけられているのに不謹慎だと言う人があるかもしれない。
しかし、手話ニュースなど、そういった人向けの番組や「字幕放送」以外の字幕は、聴覚が不自由な人を考慮してつけられたものではない。
それらで字幕がつけられる言葉はきわめて恣意的。断片的なコメントが字幕になっているだけで、基本情報が字幕になっていなかったりする。
すべて耳にしていることが前提であり、お飾りの雰囲気字幕、あるいは強調するなどの“盛り”字幕でしかない。
私はすべての番組に聴覚が不自由な人のための字幕がつけられるようになるといいと思うし、字幕は必要な人だけが目にし、不必要な人は目にしなくてもいい画面になればいいのにと思う(特にSNSは目ざわり!)。
すったもんだでデジタル放送に移行して、IT技術も進んでいるのに、それぐらいの仕組みができないのだろうか。
というより、そもそも本稿の趣旨は、音声情報とだぶらないなど本当に必要な字幕や、演出効果のあるタイポグラフィは別にして、薄っぺらい映像を補強しなければという強迫観念から(?)安易に画面を文字で埋め尽くしている番組の作り手に、「鬱陶しい」と言いたかっただけだ。
あるいは、赤ちゃんのガラガラのように視覚と聴覚の刺激を与え続けなければ、すぐに気がそれてしまう視聴者がテレビをそうさせているのか。
字幕で重要ポイントを示されなければ、視聴者が自身でそれをつかみ取れないからか。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)