御池通のあじさいは「御池ブルー」として人気上昇中
京都の東西を貫くメインストリートである御池通は、あじさいスポットでもあります。
御池通の歩道の植え込みに植えられた青いあじさいは、近年「御池ブルー」とも呼ばれます。
京都の他のあじさいスポットよりも御池通のあじさいは開花が早く、5月末より見頃を迎えます。
観光目的以外でも京都中心部を訪れた際は、ぜひ御池通のあじさいを楽しんでください。
御池通のあじさい
京都の東西のメインストリートは「あじさいロード」
地下鉄も通る片側3車線道路
道が狭いことで知られる京都ですが、片側3車線で都心部を東西に貫くのが御池通です。
御池通の下には、京都市交通局の地下鉄東西線が通っており、まさに京都の東西を結ぶメインストリートです。
道路沿いには様々店舗や事務所が並び、最近はマンションやホテルなども増えつつあります。
その御池通の両側の花壇には多くのあじさいが植えられています。ビジネス街にあるだけあって、京都のガイドブックには載らないあじさいの「穴場スポット」なんです。
青いあじさいが咲くのは柳馬場通~富小路間
青いあじさいが植えられているのは、柳馬場通~富小路間の御池通北側です。
ちょうど京都御池中学校の前です。御池中学校は、2002年に柳池中学校と城巽中学校が統合されて誕生しました。
2007年に旧柳池中学校に竣工した新校舎へと移転しました。
御池中学校は都心部の人口急増地帯にあり、独自の教育方針で注目を集めている御所南小学校との小中一貫教育が行われており、人気の高い中学校です。
90メートルほどにわたって、ケヤキ並木の下に青いあじさいが咲きます。
柳馬場御池の北東側には、青を基調とした美しいあじさいの花壇が続きます。
御池ブルーとも言われる青いあじさいが咲くのは柳馬場通~富小路間が中心ですが、御池通にはそれ以外にも各所であじさいやあじさいの中間が植えられています。
5月末から見頃を迎える早咲きのあじさい
京都で最初に見頃を迎えるあじさい
御池通では、西は西洞院通(にしのとういんどおり)から東は鴨川にかかる御池大橋の西詰まで、各所にあじさいが植えられています。
連続してあじさいが植えられているというわけではありませんが、要所要所では美しいあじさいを楽しめます。
御池通のあじさいの特徴と言えば、早咲きという点です。
京都の他のあじさいスポットより一週間以上早い6月上旬にはいち早く見頃を迎えます。
美しいあじさいが、道行く人々はもちろん、御池通を走るドライバーらの目を楽しませてくれます。
御池通のなかでも特に開花が早めなのが、柳馬場通(やなぎのばんばどおり)や新町通、西洞院通など御池通の西側を中心に植えられている、青や紫色をしたあじさいです。
河原町通より東側のあじさいは6月中~下旬に見頃
一方で、河原町通や御池大橋西詰など、御池通の東側を中心に植えられているあじさいの開花は標準的です。京都の他のあじさいスポットと同じく6月中旬から下旬にかけて見頃を迎えます。
京都市民が支える「スポンサー花壇」制度
あじさいをはじめ多彩な花が植えられている御池通の花壇ですが、実は京都市民によって支えられています。
「スポンサー花壇」という制度によって、御池通沿道の企業・団体・市民等からの協賛・協力により維持管理されているのです。
サポーターの皆さんに感謝。いつもきれいな花を見せていただきありがとうございます。
なお、2024年も1口3万円で協賛募集中です。先着順で102口まで募集されています。
ハート型のあじさいや白いアナベル
アメリカ原産のアナベル
御池通でも、運が良ければハート型のあじさいを見つけることができます。
たくさん咲いているだけに、探せばきっとひとつくらいはハート型のあじさいが見つかるのではないでしょうか。
御池西洞院と御池新町では、白いあじさいであるアナベルも咲きます。
厳密にいうと、日本原産のあじさいとは異なる北米原産のアメリカノリノキという種類です。
白いあじさいとして人気のアメリカノリノキの園芸品種であるアナベルです。
あじさいよりやや遅れて見頃を迎えます。
御池通の両側にはお店も立ち並び、京都のイメージとはちょっと感じが異なります。
歩道も広く、ゆっくりと花壇のあじさいを楽しむことができます。
他のあじさいスポットでは、同じあじさいでもいろんな品種を植えていることが多いです。
しかし、御池通りは基本的に花壇ごとに同じ品種のあじさいが植わっています。
色とりどりのあじさいもいいですが、御池通りのように同じあじさいが広がる姿も見ごたえがあります。
赤紫のあじさい花壇も
東の河原町通や木屋町通付近には、幕末の史跡も多く残っています。
河原町御池の東北角にある京都ホテルオークラの敷地は、幕末には長州藩邸でした。
多くの維新志士たちがこのあたりを行き交っていたのです。
御池通について
御池通とは
神泉苑が御池通の由来か?
御池通は、東は鴨川を渡った川端通から、西は太秦天神川まで、東西約5km続く大通りです。
京都の通りの名称は、平安京の大路小路に由来することが多いのですが、御池通は例外です。
御池通という名称は、神泉苑の池に由来するという説が一般的です。
しかし、寛文5年(1665年)刊行の京都地誌である「京雀」には、三条坊門通の別名として御池通が掲載されています。京雀では、かつて鴨居殿という御所があり、その池にちなんで御池町という町があったことに由来すると記載されています。今も「御池之町」という町名は残っています。
また織田信長の二条城の庭園にあった池に由来するという説もあり、神泉苑説はあまり有力ではなくなってきています。
平安京の三条坊門小路
御池通は、平安京の三条坊門小路に該当します。
平安京は、二条大路から九条大路までは等間隔で、大路と大路の間には3つの小路が挟まります。
そのうち真ん中の小路は「〇条坊門小路」という名称です。三条坊門小路は、二条と三条の中間の小路です。
今は坊門小路という通り名は残っておらず、四条坊門小路→蛸薬師通、五条坊門小路→仏光寺通、六条坊門通→仏光寺通、七条坊門通→正面通、八条坊門通→塩小路通、九条坊門通→東寺通と名前が変わっています。
戦時疎開で誕生したメインストリート
空襲対策で防火帯として行われた強制疎開
今は京都のメインストリートである御池通ですが、戦前までは他の通りと変わらない狭い道路でした。
広い通りに生まれ変わったきっかけは戦争です。
太平洋戦争で日本各地に空襲が行われるようになり、空襲による火災延焼対策として、帯状の空き地を作る強制疎開が始まりました。
御池通では、鴨川から堀川通までの間では強制疎開が行われ、民家を強制的に立ち退かせました。
京都以外でも同様の戦時疎開は行われていましたが、多くの都市では結果的に空襲により全て焼け野原になり戦時疎開の傷跡はあまり残っていません。
偶然にも京都はほとんど空襲を受けなかったため、戦時疎開の跡が明瞭に残っています。
1946年の航空写真では、東西に延びる御池通の疎開地と、南北に伸びる堀川通の疎開地がはっきりとわかります。
なお、京都が大空襲を免れたのは偶然に過ぎません。原爆投下の効果を測るためにあえて空襲を行わず温存されていました。
結果的に8月に終戦となったため、京都は原爆投下の順番が回ってきませんでした。もう少し戦争が長引いていたら、京都も原爆により壊滅していたことでしょう。
戦後、疎開によって誕生した空き地を活用し、御池通は京都では珍しい幅50メートルの幹線道路として整備されました。
同様に堀川通や五条通も戦時疎開によって誕生した幹線道路です。
山鉾も巡行するメインストリートに
1956年からは祇園祭の山鉾巡行も御池通を通るようになりました。
それまでは、狭い松原通を通っていましたが、年々増える観光客のために安全面で問題が出ていました。そこで、御池通へと経路を変更することで安全を確保し、かつ御池通に有料観覧席を設けることで観光事業の原資とすることが目的でした。
御池通は名実ともに京都のメインストリートの一つへと生まれ変わりました。
1997年には御池通の地下に地下鉄東西線が開通しました。
これだけ広い通りですが、京都市電が通っていなかったのはちょっと意外です。
御池通にアジサイが植えられたのは、2009年~11年のことです。
ケヤキ並木の下にあるため日当たりがよくない場所のため、日陰を好むアジサイが選ばれました。