伏見城「治部少丸」を巡る:石田三成ゆかりの地の歴史と現在

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伏見城「治部少丸」を巡る:石田三成ゆかりの地の歴史と現在

天下を統一した豊臣秀吉は、関白秀次死後に政権の拠点を伏見城に置きました。伏見城下には全国の諸大名の屋敷が並び、妻子を伏見に置くことを義務付けられました。
五奉行の一人であり豊臣秀吉の側近中の側近である石田三成は西の丸(二の丸)に隣接する重要な曲輪を任せられ、曲輪自体も「治部少丸」と言われました。石田三成の官職である治部少輔にちなむものです。
今は内部に立ち入ることができませんが、石田三成の屋敷があった伏見城の治部少丸について紹介します。

伏見城の治部少丸

治部少丸の表記と読み方

治部少丸の表記

現在の正式な地名としての表記は「治部少丸」であり、「じぶしょうまる」です。
ただし、いずれも揺れがあり固定したものではありません。

表記については他に以下の表記があります。
・治部少輔丸
・治部少輔郭
・治部少輔曲輪
・治部少曲輪
・治部丸
・石田丸
・石田郭
・石田曲輪
治部の前に「石田」がつくパターンもあります。

丸、曲輪(くるわ)、郭(くるわ)はいずれも同義のため、石田治部少輔三成の曲輪(くるわ)をあらわしている点は変わりません。
どれが正式な表記かを確定させるのは困難ですが、たとえば元和3年(1617年)の藤堂高虎書状では「治部少丸」という表記が使われるなど、同時代から治部少丸という表記が使用されていたことは間違いありません。

「伏見桃山御殿御城之画図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

「伏見桃山御殿御城之画図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

治部少丸の読み方

治部少というのは、石田三成の官職である「治部少輔」の略です。
治部少輔は「じぶのしょう」と読むのが一般的です。少なくとも同時代には治部少丸は「じぶのしょうまる」と読まれていたことは間違いないでしょう。
ですので、現在でも歴史的な呼称としては「じぶのしょうまる」と読まれるべきでしょう。
一方で、地名の読み方は変化するものなので、地名としては「じぶしょうまる」と読むのが正解ということになります。
同様に、伏見の福島太夫町は福島正則の官職である左衛門大夫(さえもんのたいふ)に由来しますが、今の地名は「だゆう」と読みます。おまけに漢字も大→太に変化しています。
本記事では漢字表記に変化はないので、読み方は気にしないでおきます。

豊公伏見城ノ図(御大礼記念京都府伏見町) 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

豊公伏見城ノ図(御大礼記念京都府伏見町) 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

伏見城の治部少丸の位置

大手門を守る治部少丸

木幡山伏見城は、標高105mの木幡山から南麓の宇治川堤防付近の標高15mまで比高90mに及ぶ平山城です。
桃山丘陵の南端部に位置するため、丘陵が続く北部は幅100mに及ぶ巨大な堀切である北堀で遮断されています。

出典:地理院地図の陰影起伏図

出典:地理院地図の陰影起伏図

主郭である本丸と西の丸(二の丸)の周囲は豊臣秀吉の側近が担当する曲輪で囲まれています。
南側の四の丸は増田長盛、北側の大蔵丸は長束正家(大蔵大輔)、北西側の徳善丸は前田玄以(徳善院)、北東側の弾正丸は浅野長政(弾正少弼)に任され、西側の曲輪は石田三成(治部少輔)に任されました。
この5名は五奉行のメンバーと完全に一致します。伏見城の中核を信頼できる側近武将たちで固めた配置がよくわかります。
中でも重要な大手門に近い曲輪を任された石田三成がいかに信頼されていたかがよくわかります。
このうち石田三成の曲輪は「治部少丸」と言われました。

出典:地理院地図の陰影起伏図

出典:地理院地図の陰影起伏図

なお、五奉行たちの曲輪よりさらに内側には西の丸(ニの丸)、松の丸、三の丸がありますが、これらは豊臣秀吉の側室が住んだ曲輪です。西の丸は淀殿、松の丸は松の丸殿(京極高吉の女)、三の丸は三の丸殿(織田信長の五女)に与えられました。当時は淀殿も西の丸殿と呼ばれていました。

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

七将襲撃事件の舞台となった治部少丸

襲撃され窮地に陥った石田三成が逃げ込んだ先は

治部少丸は、有名な七将石田三成襲撃事件の舞台ともなりました。
豊臣秀吉の死後、政権奪取を目指す徳川家康に対抗したのは、秀頼の傅役を任された前田利家でした。
前田利家は石田三成ら奉行衆はもちろん、加藤清正らの武功派の一部、五大老の残り3名らの支持を受けて徳川家康を圧倒する勢いでしたが、慶長4年(1599年)閏3月3日に大坂で無念のうちに病で倒れました。

前田利家の死により庇護者を失った石田三成を追放すべく、翌閏3月4日に対立する武功派の七武将が武力に訴えたのが「七将襲撃事件」です。
七将の顔ぶれには諸説ありますが、一般的には加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、黒田長政、細川忠興らが挙げられています。

1732年刊行「城州紀伊郡伏見御城之図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

1732年刊行「城州紀伊郡伏見御城之図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

石田三成が逃げ込んだのは治部少丸の屋敷

七将に襲撃されることを察知した石田三成は大坂から伏見へと逃れ、よりによって政敵である徳川家康の屋敷へと逃げ込んだという事件です。
伏見まで追いかけてきた七将は徳川家康に石田三成の身柄を引き渡すように要求しますが、家康は私戦であるとして要求を拒否します。石田三成の隠居を条件に両者の調停を行い、三成は一名をとりとめることに成功しました。
この事件により、徳川家康は政権主宰者としての公正・公平さを示すことに成功し、石田三成も敢えて敵の懐に飛び込む勇気と決断力を天下に示すことができました。

ただ、この事件の経緯は現在の研究ではほぼ否定されています。石田三成が逃げ込んだのは徳川家康の屋敷ではなく、自らの屋敷であっとというのが通説となっています。
このとき逃げ込んだのが治部少丸の石田屋敷だったのです。
七将襲撃事件については、武力衝突ではなく訴訟騒動であったなど諸説あり、事実関係やその評価についてもまだまだ研究の途上にあります。

「日本古城絵図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

「日本古城絵図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

伏見城攻防戦と治部少丸

1600年(慶長5年)6月18日、上杉征伐のために徳川家康は伏見城を発ち、留守居役として1,800名の兵と鳥居元忠らを残しました。
徳川家康を打倒するために挙兵した西軍は、7月19日に伏見城下へと進出し、22日ごろから本格的な攻城戦が始まりました。

栗原勇編「日本戦史集 第2輯」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

栗原勇編「日本戦史集 第2輯」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

籠城側は本丸を鳥居元忠、西の丸(二の丸)を内藤家長、三の丸を松平家忠、治部少丸を駒井直方が守りました。
治部少丸を守った駒井直方がどういう人物かはよくわかりませんが、他の武将と同様に徳川譜代の一員だったのでしょう。
10日以上にわたって猛攻撃を耐え続けた伏見城ですが、8月1日の総攻撃でついに落城します。

未明に裏切りにより城内に火が上がったのをきっかけに西軍は城内に突入し、まず松の丸と名護屋丸を制圧。
続いて島津義弘が治部少丸への攻撃をはじめ、三の丸から応援に来た松平家忠は島津隊の別所下野と激闘を交えるも大軍に包囲され自害しました。
治部少丸を守っていた籠城側は従う800名が全員討ち死にするという壮絶な最期でした。
松平家忠は松平一族の深溝松平家の当主で1万石を与えられていました。武将としての活躍もさることながら、17年間毎日書き綴った「家忠日記」で知られる文化人でもあります。
家忠日記は当時の様々な情報がわかる超一級の一次史料として歴史研究に大いに貢献しています。
なお、治部少丸を守っていた駒井直方は敵に紛れて戦場から脱出することに成功しました。

最後まで残った本丸も炎に包まれ、鳥居元忠らは枕を並べて討ち死にしました。
しかし、伏見城の戦いで鳥居元忠は10日以上の貴重な時間を得ることに成功しました。この10日という時間が関ヶ原の戦いにおいては極めて大きな意味を持つことになります。

舟橋茂「日本古来の兵法と現代戦」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

舟橋茂「日本古来の兵法と現代戦」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

伏見城の治部少丸と治部池を巡り

治部少丸を巡る

桃山陵墓地と治部少丸

伏見城の治部少丸があったところは、今も桃山町治部少丸という町名は残っています。
桃山町治部少丸町は、明治天皇陵へと向かう参道部分のみが立ち入ることができます。他の部分は全域が宮内庁が管轄する明治天皇の伏見桃山陵となっています。
伏見城の治部少丸があったのは、桃山町治部少丸町のうち、明治天皇陵参道(西参道)より北、桓武天皇陵参道(北参道)より東、治部池より南側になります。
治部少丸は参道より柵越しに様子をうかがうことしかできません。

桃山御陵墓地 案内図

桃山御陵墓地 案内図

桃山御陵にある案内図ではちょうど中央付近に治部少丸が位置します。
案内図では、治部少丸をはじめとした伏見城の遺構をうかがわせる記述は何もありません。治部池の記載すらありません。
桃山陵墓地の東よりに左右に並ぶのが明治天皇の伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)と昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)です。北に位置するのが桓武天皇の柏原陵(かしわばらのみささぎ)です。
なお、桓武天皇陵の正確な位置は不明となっており、この位置に治定されたのは1880年のことです。江戸時代中期には深草の浄蓮華院にある谷口古墳が桓武天皇陵とされていました。
実際には伏見城内のどこかに陵墓があったのが、伏見城築城などに伴い完全に破壊されてしまったものと考えられています。

桃山陵墓地案内図に治部少丸の位置を記載

桃山陵墓地案内図に治部少丸の位置を記載

2025年の9月時点では、明治天皇陵の一部が工事で通行規制されています。
交通規制図には治部池の記載がありました。治部少丸のだいたいの位置を重ねてみました。

熊田葦城「日本史蹟大系 第11巻」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

熊田葦城「日本史蹟大系 第11巻」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

大正時代に伏見城跡に明治天皇の陵墓が築造される以前は治部少丸の一帯も立ち入り可能でした。
今は他の古墳などと同様に陵墓なので、研究者ですら稀にしか立ち入ることができません。

 

西参道より見る治部少丸

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

まず、西参道と北参道の交点より治部少丸探索をはじめます。交点は上図の矢印の起点に位置します。
明治天皇陵へと続く西参道から北側にある治部少丸の様子を見てみます。

西参道より見る治部少丸 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

西参道はほとんど見えない治部少丸 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

西参道からは「広庭」という空間を挟んで治部少丸までは100m近くの距離があります。
肉眼では木々の向こうに斜面がわずかに見えますが、写真では全くわかりません。
広庭の由来は定かではありませんが、大手門を出てすぐの位置になります。

伏見城内へと伸びる桃山陵墓の管理道 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

伏見城内へと伸びる桃山陵墓の管理道 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

西参道と北参道の交点から80mほど進むと、伏見城の大手門があったあたりになります。
かつては大手門である鉄門の礎石だった鉄門石があり、代々の伏見奉行が守ってきました。今は大手門を示すものは何もありません。
大手門の位置からは、伏見城内へち北北東に桃山陵墓の管理道が続いています。
古地図を見ると、この管理道は明治天皇陵ができる前からあった里道です。治部少丸と三の丸の間をとおり、伏見桃山城(旧キャッスルランド)へと続いていました。今はもちろん立ち入ることができません。
西参道から見られる治部少丸はここが東端部なので、いったん引き返します。

 

北参道より見る治部少丸

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

北参道を治部池方面へと北に向かいます。
東側(右側)に治部少丸が位置します。

堀底に作られた北参道 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

堀底に作られた北参道 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

西参道は、左右より低い位置に作られています。治部少丸の西側を守る堀底に位置しています。
緩い北への上り坂なので水堀ではなく、空堀であったことがわかります。

北参道から見える治部少丸 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

北参道から見える治部少丸 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

北参道と治部少丸の間はそれほど遠くなく、20mほど先に治部少丸への斜面が見えます。
治部少丸への比高も10m以上はあります。空堀も今は土砂で埋まって浅くなっていますが、かつてはかなりの比高があったのでしょう。
ただし、石垣などの城郭の遺構は見当たりません。

横矢掛りになっているはずの治部少丸 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

横矢掛りになっているはずの治部少丸 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

加藤次郎氏の復元図では、自防少丸の西側に「カサシワ曲輪」という文字が記載されています。
カサシワ曲輪とは初めて聞く用語ですが、要は「横矢掛り」のことです。
土塁や石垣を登ってきた敵を正面のみならず側面からも攻撃する工夫です。
伏見城でもこれほど横矢掛りが設けられているのは治部少丸のみで、いかに治部少丸が重要であったのかがわかります。
なお、「カサシワ」とは傘の皺のような形状を指しています。

西参道の矢穴石 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

西参道の矢穴石 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

西参道の脇に矢穴石が置かれています。石をちょうどいいサイズに整える際に、石にあけた穴にくさびを打ち込んで割ります。
そのときのくさびの跡がある石を矢穴石と言います。何も説明文はありませんが、伏見城で出土した矢穴石でしょう。
ちょうど石垣を作るのに都合のよさそうなサイズ感です。
この近くで出土したのか、どこかから運ばれてきたのかはわかりません。

治部池へとつながる堀跡 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

治部池へとつながる堀跡 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

西参道の起点から250mほど進むと、空堀の底を進んでいた西参道が西側の曲輪へと斜め左に上がります。
堀跡はそのまま直進し、治部池へと続きます。

急斜面で治部池へと落ち込む治部少丸 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

急斜面で治部池へと落ち込む治部少丸 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

治部少丸側は、治部池へと向けて急傾斜で標高を落としています。写真ではわかりにくいですが。
このあたりが治部少丸の北西端です。

 

治部池を巡る

続いて、治部少丸の北側にある御花畑山荘との間の水堀跡である治部池を探訪します。
治部池という名称は、もちろん石田治部少輔三成の屋敷にちなんだ命名です。

出典:地理院地図の陰影起伏図

出典:地理院地図の陰影起伏図

 

西参道より見る治部池

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

伏見城の内堀はもともと水堀と空堀が組み合わされたものでしたが、廃城後は土砂の堆積などで水堀もほとんどが埋まってい待っています。
例外的に治部池や伏見城の東側の紅雪堀が今も水をたたえています。
治部池はもともと東西の谷地形を取り込んで作られた内堀だったため、自然の湧水により今も水が維持されています。
東から西へと谷地形を流れてきた流れは治部池で90度南へと曲がり、今の西参道を南へと流れていました。

西参道より治部池 2024年12月29日 撮影:MKタクシー

西参道より垣間見える治部池 2024年12月29日 撮影:MKタクシー

治部池そのものには立ち入りできませんが、参道から柵越しに治部池を見ることができます。
治部池も参道の柵越しに見えはしますが、全景は見えません。
東西に長い形をしているはずですが、それも参道からだとよく見えません。

多少は人の手が入っている治部池 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

多少は人の手が入っている治部池 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

治部池は立ち入り禁止ですが、内部には木の切り株などがあります。
宮内庁によって一定の管理の手が入っていることがわかります。

西参道より治部池 2024年9月1日 撮影:MKタクシー

西参道より見た治部池 2024年9月1日 撮影:MKタクシー

伏見城廃城後の宝暦8年(1758年)より、治部池では賓頭盧尊者に祈願してたびたび雨乞いを行ったことが記録に残っています。
籠のなかに賓頭盧尊者像を収め、池につかる寸前の高さで「雨を降らさにゃ水に浸けるぞ」と叫ぶ儀式が行われていたそうです。

 

伏見桃山城側から見た治部池

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

加藤次郎氏作図「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

続いて、北側の御花畑山荘側から治部池を見てみます。

京都一周トレイルの案内標 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

京都一周トレイルの案内標 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

治部池の横を抜けると、車道に出ます。東へ進むと伏見桃山城の駐車場、西へ進むと丹波橋駅方面へと続いています。
西参道と車道の交点には、京都一周トレイルの道標が立っています。実はここまで歩いてきた西参道は京都一周トレイルのルートでもあったのです。
京都一周トレイルとは、京阪の伏見桃山駅からスタートし、東山三十六峰や大原鞍馬、高尾、嵐山を経由して上桂駅へと至る登山道です。
文字通り京都盆地を一周し、全長84kmに及ぶロングトレイルです。

伏見桃山城駐車場への車道 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

伏見桃山城駐車場への車道 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

伏見桃山城の駐車場へと至る車道は一見何の変哲もない道路ですが、伏見城を囲む堀の土橋です。
右側が治部池で、左側が北堀へと至る堀の跡です。道路建設にあたってある程度拡幅されていることでしょう。

伏見桃山城駐車場の南側が治部池 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

伏見桃山城駐車場の南側が治部池 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

土橋部分を超えると、広い伏見桃山城の駐車城があらわれます。186台収容可能な広大な駐車場です。
駐車場が御花畑山荘の南端部で、南側の竹やぶの下に治部池があります。

姿が見えない治部池 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

姿が見えない治部池 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

駐車場の南斜面は竹やぶを中心とした植生が密集しており、向こう側は見えません。
治部池の姿はほんの一部で水面がわずかに確認できましたが、それ以外は全く見えません。
この向こう側に池があることも斜面になっていることすらほとんどわかりません。

このあたりが治部池の東端部 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

このあたりが治部池の東端部 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

治部池の東端部は、伏見桃山城の東端部と一致します。
この進入不能の(もともと立ち入り禁止ですが)森の向こうには、治部少丸や西の丸(二の丸)とつながる土橋があるはずですが、その様子は全く見えません。

堀跡を買うようした駐車場兼遊水池 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

堀跡を活用した駐車場兼調整池 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

伏見桃山城駐車場奥のさらに向こう側には第2駐車場があります。
一段低くなっており、駐車場兼調整池となっています。
この駐車場は治部池から続く東西の堀の続きを利用したものです。堀の向こう側は西の丸(二の丸)です。
広大な伏見桃山城の駐車場ですが、伏見桃山城キャッスルランド亡き今は第2駐車場が必要なほど混むことはないでしょう。

 

伏見桃山城の模擬天守

伏見桃山城の天守と大手門 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

伏見桃山城の天守と大手門 2025年9月9日 撮影:MKタクシー

ちょうどそのあたりから反対側へ振り向くと、伏見桃山城の天守と大手門がどーんと鎮座しています。
言うまでもなく、伏見城と伏見桃山城は別物です。
伏見城はここまで述べてきたとおり、豊臣秀吉が築城し、徳川家康が江戸時代初めに政権を置いた城郭です。

伏見桃山城の桜 2024年4月5日 撮影:MKタクシー

桜シーズンの伏見桃山城 2024年4月5日 撮影:MKタクシー

一方伏見桃山城は、1964年に近鉄グループが作った遊園地の「伏見桃山城キャッスルランド」です。
ピーク時には96万人が訪れましたが、経営難により2003年に閉園し、現在は伏見桃山城運動公園として再整備されています。
伏見桃山城の天守は鉄筋コンクリート製の五重六階の大天守と三重四階の子天守を連結したものです。戦後ブームとなった模擬天守のひとつです。
実際の伏見城天守を復元したものではありませんが、桃山時代風の天守として造られた天守はじゅうぶんな風格が漂っています。

伏見桃山城の紅葉 2019年11月23日 撮影:MKタクシー

伏見桃山城の紅葉 2019年11月23日 撮影:MKタクシー

施設の老朽化もあり、伏見桃山城の閉園とともに取り壊される予定でしが、すでに約半世紀の年を経て伏見のシンボルとして地元にも愛されていたこともあり、維持されることが決まりました。
現在は模擬天守や運動公園などは「伏見桃山城」と呼んで伏見城と区別することが一般的です。

ツツジと新緑シーズンの伏見桃山城 2023年4月28日 撮影:MKタクシー

ツツジと新緑シーズンの伏見桃山城 2023年4月28日 撮影:MKタクシー

伏見桃山城は城郭としての価値はありませんが、四季それぞれの美しい景色を見せてくれる市民憩いの場としては現役バリバリです。

 

おわりに

石田三成とMKタクシー

MKタクシーと石田三成は切っても切れない縁があるのをご存知でしょうか?
毎年9月15日の関ヶ原の戦いの日前後にX(旧Twitter)上で繰り広げられる「関ヶ原の戦い」では、MKタクシーが呼ばれるのが恒例となっています。

有名企業も参戦天下分け目の「関ヶ原2020」が大盛り上がり 「すごい、三成迎えにホントにMKタクシーきた!!」

MKタクシーの公式YouTubeでも、Xと連動した映像を公開しています。

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お電話で ➡ 075-778-4141

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石田三成関連のツアー

関ケ原古戦場めぐり ~戦国好きスタッフのガイドつき~

MKトラベルでは、ジャンボタクシーの機動力を生かし、タクシー移動と徒歩散策を組み合わせて関ケ原の古戦場をめぐるツアーを催行します。
2025年は9月20日(土)限定の開催です。

ドライバーはMKタクシーでも一番ともいわれる歴史好きドライバーが担当し、添乗員は西国巡礼の公認先達が務めます。
石田三成に関心がある方は、ぜひご参加ください。

 

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