石田三成のお墓は京都「大徳寺三玄院」にあり!原則非公開の墓の秘密

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石田三成のお墓は京都「大徳寺三玄院」にあり!原則非公開の墓の秘密

関ヶ原の戦いの立役者で義将として人気の石田三成が眠るお墓がどこにあるかご存知ですか?
三条河原でさらされた石田三成の遺体は、京都の大徳寺塔頭である三玄院に葬られました。
大徳寺三玄院は通常非公開で、石田三成のお墓にお詣りすることはかないません。
2023年冬には、「京の冬の旅」で特別公開されましたが、石田三成のお墓は特別公開の対象外でした。
石田三成のお墓が大徳寺三玄院にある理由や、明治になって石田三成のお墓が再発見された経緯などを紹介します。

三玄院の石田三成墓

石田三成画像「国史大図鑑」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

石田三成画像「国史大図鑑」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

「石田三成公御墓地」の碑が建つ塔頭

大徳寺境内平面図 1932年刊行 鉄道省 編「お寺まいり」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

大徳寺境内平面図 1932年刊行 鉄道省 編「お寺まいり」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

原則非公開の三玄院

大徳寺のほぼど真ん中に位置する大徳寺三玄院は、通常非公開寺院のためあまり知名度は高くはありません。
しかし、大徳寺三玄院はあの石田三成が眠るお寺として、歴史好きの間では有名です。

大徳寺三玄院の山門 2023年2月5日 撮影:MKタクシー

大徳寺三玄院の山門 2023年2月5日 撮影:MKタクシー

大徳寺の法堂の西側に「石田三成公御墓地」という石碑が立っている塔頭が三玄院です。
大徳寺を訪れた際はだいたい通るルート上にあるので、三玄院前の石碑を見たことがあるという方も多いでしょう。
しかし、大徳寺三玄院は非公開寺院のために、石田三成の墓だけでなく内部は謎に包まれていました。

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石田三成の墓発見の経緯

三玄院開山の春屋宗園が三玄院に葬る

関ヶ原合戦之図 1907年刊行 渡辺世祐 著「稿本石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

関ヶ原合戦之図 1907年刊行 渡辺世祐 著「稿本石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は、慶長5年(1600年)10月1日に六条河原で処刑されたことはよく知られています。
処刑後、石田三成の首は三条河原にさらされました。
三玄院の開山であり、石田三成と生前親交の厚かった春屋宗園が遺体を引き取り、三玄院に墓を建てて葬ったと伝えられています。
春屋宗園は石田三成をはじめとする戦国武将や、千利休などの茶人など多くの人々と交流のあった禅僧です。
同じく大徳寺塔頭で黒田長政が眠る龍光院の開山でもあります。弟子には沢庵宗彭らがいます。

石田三成墓 1908年刊行「京都府写真帖」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

石田三成墓 1908年刊行「京都府写真帖」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

明治時代には三成の墓は行方不明に

ただ、後述のように明治の始めに三玄院が合併や移転を経たこともあり、20世紀の始めにはすでに石田三成の墓ははっきりしなくなっていました。
石田三成の再評価を進めた実業家の朝吹英二氏は、1907年に三玄院で石田三成の墓の探索を試みました。
朝吹英二は、三井財閥の重役を歴任し、團琢磨らと並んで「三井の四天王」と称された実業家です。

石田三成の墓 1929年刊行「稿本石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

石田三成の墓 1907年刊行 渡辺世祐 著「稿本石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

1907年に石田三成の墓を「再発見」

朝吹英二の委嘱で石田三成の再評価のために史学者の渡辺世祐氏が著した伝記「稿本石田三成」では、石田三成の墓の写真の説明として、次のように記されています。

これは山城大徳寺塔頭三玄院の墓地にありしものにて同院にて三成の墓と伝うるものなり。
形式よりもいうも、年代より考うるも、慶長頃のものたるは疑なきものの如し。
明治40年5月19日時事新報社主催となり朝吹英二氏と図り、これを発掘し、その10月20日、院内円鑑国師の墓の傍に改葬せしものなり。

(大意)
写真の墓は、大徳寺塔頭の三玄院の墓地に石田三成の墓と伝えられてきたものである。
墓石の形式も石田三成が没した慶長年間のものであることは間違いない。
1907年5月19日に時事新報社の主催で朝吹英二と石田三成の墓を発掘し、同年10月20日に三玄院内の春屋宗園(円鑑国師)の墓の近くに改葬した。

石田三成の墓 1929年刊行「稿本石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

石田三成の墓 1907年刊行 渡辺世祐 著「稿本石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

上の写真の右端の墓石が石田三成のお墓です。
1908年刊行の「京都府写真帖」やその他の資料を見ても、改葬の直後に周囲の墓石も整理され、今はもう少しすっきりしているようです。

 

石田三成とされる骨も発掘

石田三成の髑髏 1942年刊行 池崎忠孝 著「概説石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

石田三成の髑髏 1942年刊行 池崎忠孝 著「概説石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

大徳寺三玄院で発見された石田三成のものと思われる墓の下からは、骨が出土しました。
1944年刊行の清野謙次著「日本人種論変遷史」には、石田三成の遺骨について記載されています。
大意は以下のとおりです。

1907年に三玄院内の石田三成の墓と伝わる墓石から多少ずれた位置から一人分の人骨が出土した。
朝吹英二氏は遺骨を京都帝国大学の解剖学教室の足立文太郎氏のもとに持ち込んだ。
足立文太郎氏は、破片の集まりに過ぎなかった骨を接ぎ合わせて頭蓋骨の復元に成功した。
遺骨からは、生前は腺病質で頭形は長頭でかなり反っ歯であり、年齢は41歳前後であることがわかった。
ぱっと見は女性の骨と見まごうほどの優さ男だった。
これらの特徴は文献に残る石田三成の特徴と一致している。

調査後、遺骨は再び埋葬されたが、頭蓋骨の石膏像と歯二本、第一脊椎骨や計測データは解剖学教室に保存された。
しかし、これらの資料は何かの展覧会で貸し出されたまま返却されなかったのか、行方不明となった。
さいわいにも写真と計測データは手元に残った。

1976年には残された資料を基に、元科学警察研究所主任技官長によって石田三成の顔が復元されました。

石田三成公の墓 1942年刊行 池崎忠孝 著「概説石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

石田三成公の墓 1942年刊行 池崎忠孝 著「概説石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

改葬とあわせて、文学博士の三上参次氏による以下の撰文の碑が建てられました。

石田治部少輔遺骨改葬の碑
大徳寺塔頭三玄院の塋域に苔石あり。高二尺許銘文磨滅一字を弁ずべからず、相伝えて石田治部少輔の墳として、之に触るれば必ず祟ありと云う。
三玄院は大宝円鑑国師の開基に係る、国師の記に拠るに、治部君は国師に於いて外護の深縁あり、按ずるに、治部君関ヶ原の謀主となり戦破るるに及び、六条磧に斬らる、実に慶長5年10月朔日なり
蓋し国師其遺骸を乞いて之を院中に葬りしならん
頃者朝吹英君治部君の志成らず永く汚名を蒙るを哀しみ、其詳伝を編みて世に公にし、又大阪時事新報社と謀り、其遺骨を国師の墓側に改葬し、新たに碑を建て、以て冥福に資し、憑弔に便す
嗚呼治部君たる者知己を百世の後に得たりと云うべし
余其顛末を叙する事此の如し
明治40季10月

(大意)
石田治部少輔遺骨改葬の碑
大徳寺塔頭三玄院の墓域に高さ60cmの銘文が磨滅して一字も読み取れない苔石があった。
石田三成の墓と伝えられており、石に触れると必ず祟りがあると言われている。
三玄院は春屋宗園が開基である。
春屋宗園が記したところによると、石田三成と深い縁があり、1600年10月1日に石田三成が関ヶ原で敗れて六条河原で斬られた。
思うに春屋宗園は石田三成の遺体をもらういけて、三玄院に葬ったのであろう。
最近、朝吹英二氏が石田三成の志が成らず、永く汚名を蒙っているのを哀しみ、石田三成の詳細な伝記を編纂して出版した。
また大阪時事新報社とともに石田三成の遺骨を春屋宗園の墓近くに改葬し、新たに碑を建てて冥福を祈った。
ああ、石田三成は百世の後になって、知己を得たというべきであろう。
私はその顛末をこのように記録する。
1907年10月

 

本当に石田三成の墓かは不明確

調査の直後である1907年4月23日発行の雑誌「考古界」には、石田三成の墓発見の経緯について、次のように記されています。

三玄院は既に廃滅したれば、近くの某院につき尋ねたれど、固より要領を得ず、纔に旧三玄院内に一の無縁塚あるを知り得たり。
かくて彼の寺の住職に調査を頼みし結果、三玄院引継ぎ位牌中に、「江東院前令部省岫因大禅定門、慶長5年10月1日」とあるを発見し、愈かの無縁塚の三成の墓ならむことを推定し得たるなりという。

(大意)
三玄院はすでに廃絶しており、近くの塔頭に三成の墓について尋ねてみたが要領を得ない。
旧三玄院の中にひとつの無縁塚があることだけ知ることができた。
近くの塔頭の住職に調査を頼んだところ、三玄院から引き継いだ位牌の中に石田三成のものと思われる位牌を発見し、ついにかの無縁塚が三成の墓であろうと推定することができたという。

考古界の記載を信じるなら、石田三成の墓とされた無縁塚はかなり根拠があいまいということになります。

石田三成の墓 1936年刊行 熊田葦城 著「日本史蹟体系」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

石田三成の墓 1936年刊行 熊田葦城 著「日本史蹟体系」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

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大徳寺三玄院について

大徳寺三玄院の歴史

3名の戦国武将が創建

大徳寺三玄院は、天正17年(1589年)に春屋宗園を開山とし、浅野幸長・石田三成・森忠政の3名によって建立されました。
三玄院建立の時点での3名の関係性は不明ですが(というか三成以外は当時まだ10代)、のちに石田三成と浅野幸長・森忠政は袂を分かつことになります。

浅野幸長画像「陸軍特別大演習記念特別展観図録」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

浅野幸長画像「陸軍特別大演習記念特別展観図録」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

浅野幸長(天正4年(1576年)~慶長18年(1613年))は、北政所ねねの甥にあたる豊臣一門です。
父は五奉行の一人である浅野長政です。
武功派の武将として知られ、慶長4年(1599年)には石田三成を失脚に追い込んだ「七将」のひとりに名を連ねました。
甲斐一国22.5万石の国持大名として関ヶ原の合戦を迎え、関ヶ原では毛利隊の抑えを務めるなど活躍しました。
戦後は要衝の紀伊国を任され、37万石の大大名となりました。
没後に安芸国42.6万石に転封され、子孫は代々広島藩主として栄え、幕末まで続きました。

 

森忠政(元亀元年(1570年)~寛永11年(1634年))は、織田信長の小姓として知られる森蘭丸の弟です。
有名な森兄弟の六男でしたが、蘭丸をはじめとする兄たちが次々と戦死したため、森家の家督を継ぎました。
慶長4年(1599年)の石田三成襲撃事件では反三成方につき、信濃国川中島13万7,500石で関ヶ原を迎えました。
関ヶ原の合戦では東軍について真田昌幸の抑え役を務めました。
慶長8年(1603年)には美作国18万万7,500石の国持大名となりましたが、孫の代に改易され赤穂藩2万石の小大名として幕末まで存続しました。

大徳寺三玄院門前の駒札 2023年2月5日 撮影:MKタクシー

大徳寺三玄院門前の駒札 2023年2月5日 撮影:MKタクシー

春屋宗園のもとに入門した沢庵宗彭や千宗旦が若いころに大徳寺三玄院で修行を積みました。
他にも多くの武将や公家、茶人、絵師らが大徳寺三玄院に関わり、江戸時代には数ある大徳寺の塔頭の中でも大いに栄えました。

 

明治に塔頭の整理統合で廃絶

しかし、明治に入ると経済的に困窮した大徳寺は塔頭の整理統合を行うなかで、三玄院は1878年に同じく大徳寺の塔頭である清泉寺・大源庵と合併しました。
あわせて西隣にあり1874年に廃寺となっていた龍翔寺1へと三玄院は移転しました。
現在の三玄院の伽藍も龍翔寺のものを引き継いでいます。
石田三成の墓なども合併時に西隣の旧地から移転したはずですが、詳細は不明です。

石田正澄及び三成の位牌(三玄院所蔵) 1907年刊行 渡辺世祐 著「稿本石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

石田正澄及び三成の位牌(三玄院所蔵) 1907年刊行 渡辺世祐 著「稿本石田三成」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

三玄院の石田三成以外の墓

1922年出版の「京都名家墳墓録」によると、三玄院には石田三成以外にも以下の墓があると記載されています。

  • 石田正澄(三成の兄)
  • 石田朝成(正澄の子)
  • 石田主水正(正澄の子)
  • 伊達弥助(明治期に西陣織の近代化に貢献)
  • 寺沢広高(唐津12万石。関ヶ原では東軍)
  • 久我通兄(江戸中期の公家。右大臣)
  • 久我敏通(通兄の子。宝暦事件で失脚)
  • 久我建通(敏道の子の養子。内大臣)
  • 舟越五郎右衛門(旗本で古田織部の弟子。関ヶ原では東軍)
  • 古田織部(茶人。関ヶ原では東軍)

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おわりに

石田三成とMKタクシー

MKタクシーは、石田三成を応援しています。
毎年関ヶ原の戦いの日前後にツイッター上で繰り広げられる「関ヶ原の戦い」には、MKタクシーのアカウントも参戦するのが恒例となっています。

有名企業も参戦天下分け目の「関ヶ原2020」が大盛り上がり 「すごい、三成迎えにホントにMKタクシーきた!!」

2022年の年間閲覧数は「殿のお迎えへ」が2位でした。

MKタクシーの公式YouTubeでも、ツイッターと連動した映像を公開しています。
いつの日か、石田三成が東軍を倒し、タイムパラドックスにより三玄院の石田三成墓が消えることがあるでしょうか。

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  1. 現在の龍翔寺は1925年に再建された塔頭[]

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