MKグループのルーツである京都最古の石油販売業者「永井商店」の栄光と悲劇
目次
京都最古の石油販売事業者のひとつである株式会社永井商店は1894年に創業し、1925年に法人化しました。
しかし1957年に倒産し、青木定雄が再建に乗り出しました。1957年4月3日に設立された株式会社永井石油(現:エムケイ石油株式会社)が今につながるMKグループのルーツになります。
MKグループの源流ともいうべき永井商店について紹介します。そこには戦争に翻弄された悲しい歴史がありました。
京都の「石油王」と言われた創業者の永井瀬太郎
愛媛県から京都に出て創業
松山市で生まれる
永井商店を創業した永井瀬太郎は、明治3年4月21日(1870年5月21日)に愛媛県松山市で生まれました。
3歳で父を失い、旧松山藩の士族の出で賢婦人と言われた母によって育てられました。
1887年にいとこで伏見工兵隊の士官をしていた籾山正信を頼って京都へ遊学します。籾山正信はのちに工兵中佐にまでなります。
1895年に京都で創業
永井瀬太郎は数年後に松山に戻り、教育家井手正光の私学校である興道学館に招かれて英学を教えました。
永井家は大地主でしたが、家督を叔父に譲って実業の世界で活躍します。
1895年4月に宝田石油の特約店として京都市下京区土手町正面下ルで開業したのが始まりです。
京都でも最古の石油販売事業者のひとつで、先見の明があったというべきでしょう。
今は何の痕跡もありませんが、土手町正面下ルが永井商店の創業の地にあたります。
地図でいうと、概ね以下のあたりです。
パラフィン製造で財を成す
大戦を機に飛躍する
1914年に第一次世界大戦がはじまるとは、パラフィン油がドイツより輸入できなくなりました。
永井瀬太郎はあらかじめ京都帝大とパラフィン油の製造研究を進めており、輸入品以上の高品質の製法開発に成功しました。
伏見町堀詰にパラフィン油を製造する大工場を建設し、一気に飛躍を遂げます。
伏見に大工場を建設
製造工場があったのは、紀伊郡伏見町(現京都市伏見区)の堀詰新(1929年に堀詰町に改称)です。現在イニシア伏見丹波橋がある位置です。
堀詰という地名は、江戸時代の濠川水運の北端に位置していたことに由来します。1894年に完成した京都と伏見を結ぶ鴨川運河が堀川と合流する位置にあり、水運にも優れた立地です。
写真の鋳物屋橋を渡ったところに製造工場がありました。
ちょうど鋳物屋橋を境に上流側(左側)が鴨川運河(琵琶湖疎水)、下流側(右側)が濠川になります。
個人商店の永井工業所として営業していましたが、事業拡大に伴い、1925年1月5日には株式会社永井商店へと組織変更しました。
あわせて本社土手町正面からを伏見町堀詰へと移転し、さらに業容拡大を進めます。
株式会社永井商店を設立
映画館へも出資
設立登記の官報には、目的は「石油動植物油及び油脂の加工販売に興業物の投資」と記載されています。
末尾の興業物の投資というのは、新京極で開いた映画館の新富座のことです。
もともと相生劇場と言う名称でしたが、所有者の求めによって資金を融通して買収しました。
新富座は阪妻プロの経営者だった立花良介に賃貸していました。
息子や従兄弟が取締役に
取締役には、長男の永井昭太郎(1907年生)と次男の永井勝二郎(1909年生)が名を連ねていますが、二人ともまだ10代の学生です。
監査役についた従兄弟の永井牛太郎は、永井商店設立から3年後の1928年に亡くなりました。
京都市内の数か所にガソリンスタンドを設けるなど、ますます業容を拡大していきます。
1928年には三菱石油(現:ENEOS)の創業と同時に関西特約店となりました。
大阪に進出して輸入部を設置
1927年には大阪西区土佐堀に輸入部を設け、大阪市の木津川埋立地150坪を買収して大規模な倉庫を建設しました。
大阪の輸入部門は長男の永井昭太郎が責任者となります。
輸入部はアメリカのマーランド石油とコンチネンタル石油、ドイツのボレンハーゲン、エルンスト・シュリーマンの東洋総代理店となりました。
京都を中心に大阪、神戸や東京方面にも販路を拡大し、国内のみならず満州国にも進出しました。
輸入部が置かれたのは、1925年に竣工したばかりで1990年まで存在した大同ビルの8階でした。
本社を西九条に移転
1928年1月25日には、本社を伏見町堀詰1から京都市下京区2油小路九条下ル島町1番地へと移転します。
今のMKグループ本社社屋から南西50メートルのところで、のちにMKグループのはじまりとなる永井石油の本社が置かれました。
西九条島町にあったエムケイ石油(旧永井石油)の東寺SSは2006年11月に閉鎖となり、現在はMKグループのガレージ等として使われています。
六角東洞院に大邸宅を構える
多くの美術品を所蔵
一代で大成功を収めた永井瀬太郎は、京都市中心部の邸宅には200余坪の庭園があり、鷹司家より移された名木名石や、日本に平等院のものと2つしかない平等院型宇治灯籠、桂離宮のものと一対と伝えられる大佛型石灯籠がありました。書画など数々の美術品の所蔵者ともなりました。
邸宅のあった地は、現在旅庵花月になっています。
事業に成功して一代で富を築き、優れた後継者にも恵まれた永井瀬太郎ですが、やがて戦争の暗い影が忍び寄ってきます。
将来を嘱望された二代目の永井勝二郎
六男二女の永井兄弟
永井瀬太郎は、六男二女の8人の子に恵まれました。
1907年 昭太郎
1909年 勝二郎
1911年 道子
1914年 東三郎
1917年 達四郎
1921年 芳子
1924年 益五郎
1928年 勇
うち永井瀬太郎の事業を継いだのが、長男で1907年12月19日生まれの永井昭太郎と、次男で1909年生まれの永井勝二郎です。
次男の永井勝二郎が京都本社の石油部門を継ぎ、次男の永井昭太郎が大阪の輸入部門を担当引き継ぎました。
なお、長女の道子は滋賀銀行の初代頭取を務めた梅村甚兵衛の長男の信夫に嫁ぎました。
三男以下については後述のとおりです。
輸入部門を任された永井昭太郎
欧米へ派遣され輸入部門を担当
京都市立第一商業学校(現:西京高校)を卒業した永井昭太郎は永井商店に入社します。
1932年に永井昭太郎はアメリカ、ドイツへと派遣され、アメリカのコンチネンタル石油、ドイツのエルンスト・シュリーマンの東洋総代理店を獲得するなど、輸入部門を担当します。
合名会社永井石油の代表に
1934年11月26日には大阪の輸入部門を分社化し、あらたに合名会社永井石油を設立します。
代表社員に永井昭太郎、社員に永井勝二郎が就任します。
これにより、永井昭太郎率いる合名会社永井商店と、永井勝二郎率いる株式会社永井商店が並立することになります。
次男の永井勝二郎が本家を継ぎ、長男の永井昭太郎が分家したというところでしょう。
しかし、太平洋戦争の開始によって兄弟による二頭体制はおわりを迎えます。
輸入は途絶えて輸入部門は存在意義を失い、戦中の永井昭太郎は石油配給機関の取締役などを務めました。
そしてさらなる悲劇が永井家を襲います。
二代目を継いだ永井勝二郎
彦根高商では文武で大活躍
永井勝二郎は、平安中学校(現:龍谷大学付属平安中学・高校)を優秀な成績で卒業し、彦根高等商業学校(現:滋賀大学経済学部)に進学します。
高等商業学校は、商業の実務家を養成するために設立された学校です。ビジネスエリートを多数輩出した高等教育機関です。
彦根高等商業学校は1922年に全国で11番目に開設された高等商業学校で、学制改革後は滋賀大学経済学部の母体となりました。
彦根高等商業学校に入学した永井勝二郎は、学業だけではなくスポーツでも活躍を見せます。
1931年に現在の国民体育大会の前身にひとつである明治神宮体育大会の第6回大会に出場した永井勝二郎は、県道の大学高専個人部門で優勝を果たします。
Wikipediaにも掲載されています。
永井勝二郎は、まさに文武両道の活躍を見せました。
彦根高等商業を1932年に卒業し、京都の歩兵第9連隊(第16師団)に入隊して幹部候補生になります。
1925年に大津から移転してきた歩兵第9連隊は、今の京都教育大学の位置にありました。
隣接する藤森神社の境内には、京都にあった第9連隊、第38連隊、第109連隊を記念する碑が立っています。
わずか27歳で二代目を継ぐ
退営後、父の永井瀬太郎が経営する永井商店へと入社し、取締役として活躍します。
1933年にはアメリカへと視察に赴き交渉を行うなど、永井瀬太郎のよき相談相手として永井商店を支えるナンバーツーとなります。
父の全面的な信任を得た永井勝二郎は、1935年5月20日に代表取締役に就任し、65歳の永井瀬太郎の跡を継ぎます。
まだ高等商業学校を卒業して3年の弱冠27歳のことでした。
永井商店をさらに拡大した勝二郎
天才的経営手腕に「永井二世畏るべし」の評
代表取締役に就任した永井勝二郎は、さらに手腕を発揮します。
太平洋戦争勃発前の1941年に刊行された「日本実業家名鑑」には、永井勝二郎について以下のように紹介されています。
- 畿内油業界の覇者
- 天才的経営手腕に満天下の視聴をあつめ、その将来に多大の期待をかけられている逸材
- 天才的手腕を縦横に発揮した結果、業績は日に昇り、永井二世畏るべしの声を業界各方面に聞くようになった
- 才徳ともに傑出した人であるから、業界各方面の氏を敬愛することは非常なもの
書籍の性格上、これらの評価はいささか割り引いて受け取るべき点には注意が必要ですが、わずか32歳にして京都の石油業界を代表する人物になったことはたしかです。
直営スタンドも10箇所以上に
京都市内でも祇園、石段下、丸太町千本、日の岡、京阪岡、大宮東寺門、三栖新町、河原町市場、北野天満宮東門前、京都駅前、日光社ガレージ、伏見京橋など12箇所に直営のガソリンスタンドを構えるまでになりました。
現在のエムケイ石油は京都市内に11箇所のガソリンスタンドがあるので、それよりも多いくらいです。
自動車の数が現在と比べて圧倒的に少ないことを考えると、当時の京都のガソリンスタンド業界でどれほど大きな存在であったかということが想像できます。
戦時統制による石油共販制が始まると、京都石油販売株式会社の取締役、滋賀石油販売株式会社の監査役に推されます。
あわせて20代にして京都石油商組の理事長にも就任します。
戦争で暗転した永井商店
レイテ島で戦死を遂げる
まさに前途洋々たる永井勝二郎と永井商店でしたが、戦争が全てをぶち壊します。
石油禁輸によって、ガソリンスタンド事業は破綻します。
しかし、その才能と名声さえあれば、生きてさえいれば戦後の復活は容易だったことでしょう。
1944年12月に永井勝二郎はレイテ島で戦死を遂げました。
レイテ島で壊滅した第16師団
京都の第16師団は、1944年8月にフィリピにのレイテ島へと移ります。
10月20日にアメリカ軍がレイテ島へと上陸を開始し、激戦が始まります。20日から25日にかけて行われたレイテ沖海戦で日本海軍は壊滅し、レイテ島の日本陸軍は孤立します。
圧倒的なアメリカ軍を相手に第16師団は大打撃を受けて敗走し、残存部隊も最後まで抵抗をしますが、ほぼ壊滅して終戦を迎えました。
藤森神社境内にある碑文には次の通り記載されています。
レイテ島を守備していたが、優勢なる米軍主力の反攻を受け死闘数十日。ついに連隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある連隊の歴史を閉じた。時、昭和19年12月8日
第16師団の参加兵力は18,608人に対して戦死者は18,028人。実に死亡率は96.9%という惨憺たる結果となりました。
そして、永井勝二郎もこの18,028人のうちの一人だったのです。
永井勝二郎に限らず、多くの有為の人材が失われたのです。
四男の中村達四郎
門司の中村家へ養子に
永井瀬太郎の6人の男子のうち、四男の達四郎は中村家へと養子に出されました。
1917年1月8日に生まれた永井達四郎は、13歳のときに永井家を出た中村家の養子として迎えられます。
養父となった中村養次郎は1882年に福岡県に生まれました。
門司市(現:北九州市)で永井商店と同じく石油販売業の宗像鉱油合名会社を営んでいました。
3年違いの1885年に生まれ、同じ門司市を本拠地とした出光佐三とは同世代の経営者です。
養家が破綻して京都へ戻る
しかし、1938年に宗像鉱油合名会社は倒産し、精算されます。
中村達四郎は当時まだ21歳で同志社大学の学生でした。
1941年に同志社大学を卒業した中村達四郎は丸善石油株式会社に入社します。
1943年に応召され、戦後の1946年に除隊し丸善石油へと戻ります。
しかし、中村達四郎は永井勝二郎を失った永井家に呼び戻され、1947年に永井商店へと入社し、兄とともに永井商店の経営にあたります。
戦後の永井商店
1957年に永井商店が倒産
永井昭太郎が永井商店復活に奮闘
戦後の永井商店は、ふたたび長男の永井昭太郎が引き継ぎます。
しかし、戦争によって大黒柱の勝二郎は戦死し、借金の山だけが残されます。
石油はGHQの完全な統制下におかれ、永井商店復活は苦難の道となります。
永井昭太郎は戦中に京都市翼賛壮年団の本部長を務めたことから、戦後は一時公職追放にもあいましたが、1952年に創業者の永井瀬太郎が死去し、弟の永井東三郎と中村達四郎ととに完全に経営を引き継ぎます。
卓球選手として活躍した永井達四郎
中村達四郎は、卓球選手としても活躍しました。
永井の名を知らしめることで進駐軍によって統制されていた石油販売の割り当てを有利にするため、あえて旧姓の永井姓を名乗ったのです。
2021年にはNHKで卓球選手としての永井達四郎を紹介する番組も放映されました。
経営に行き詰まり倒産
永井昭太郎は1952年には昭和石油の大阪特約店の日新商会の社長も兼任し、大津に営業所を出したり、トラック事業やビニール製造にも進出します。
しかしやがて経営に行き詰まり、1955年に永井商店は倒産の憂き目にあい永井商店は解散します。
永井商店が倒産後、青木定雄が1957年4月3日に株式会社永井石油を設立し、経営を引き継ぎます。
再び油小路九条(西九条島町)のガソリンスタンドひとつからの再出発となりましたが、MKグループ前史としては永井商店の倒産をもって終了となります。
株式会社永井石油がエムケイ石油株式会社に社名変更をしたのは、1986年のことです。
伝統ある「永井」の名は創業から91年にして消滅しました。
その後の永井家
中村達四郎(四男)
中村達四郎は新生永井石油の代表取締役に就任し、以後青木定雄を二人三脚でMKグループを築き上げていきます。
今のMKタクシーの直接のルーツである1960年設立のミナミタクシー株式会社の初代代表取締役も中村達四郎が務めました。
1971年に中村達四郎が作詞・作曲をしたMKタクシーの社歌は今も引き継がれています。
中村達四郎は、1991年12月19日に75歳で亡くなりました。
1992年1月22日には随林寺で社葬が行われました。
永井昭太郎(長男)
中村達四郎以外の永井家は、新生された永井石油の経営に関わることはありませんでしした。
永井昭太郎は、この後は三進特殊電器株式会社(現:株式会社GSユアサ イノベーション)の常務取締役として名前が確認できます。
永井東三郎(三男)
1914年生まれの三男・永井東三郎は、京都市立美術工芸学校を卒業し、戦前には美術界でも活躍をしました。
戦後は永井商会の専務取締役として昭太郎とともに経営にあたるとともに、義兄(姉道子の夫)の梅村信夫が役員を務める滋賀貨物運輸株式会社の役員にも名を連ねています。
永井益五郎(五男)
1924年生まれの五男・永井益五郎は、1928年に亡くなった永井牛太郎に変わって株式会社永井商店の取締役に就任しています。もちろん、実際に経営に参加していたわけではありません。
戦後も永井商会の取締役を務めていましたが、1957年には第一工業製薬株式会社宣伝課のラジオ、雑誌担当に転身しています。
なお、同じ宣伝課の図案デザイン担当をしていたのが、1972年にMKグループのロゴマークをデザインした堂本捷二(堂本印象の甥)です。
そのつながりで堂本捷二にデザインを依頼することになったのかもしれません。
おわりに
MKグループのはじまりは1957年設立の株式会社永井石油であり、「永井」という名称は前身となった老舗会社を引き継いだということは、MKグループの歴史でも必ず語られています。
しかし、前身となった永井商店に関する資料は残っておらず、永井商店について直接知る者もすでに社内にはいません。
この記事は、国立国会図書館の資料より調べた永井商店の歴史です。
もし戦争さえなければ、永井商店の歴史は全く異なるものになったでしょう。
もし永井勝二郎が戦死しなければ、戦後再び永井商店を立て直すことも難しくはなかったでしょう。
あるいは京都にとどまらず国際的に活躍する大会社が生まれていたかもしれません。
しかし、そのときはMKタクシーは生まれなかったことになります。
MKグループの創業者である青木定雄は、若いころには様々な事業に手を出していました。
たまたま縁があり、永井商店を引き継いだことになったのが、ガソリンスタンド業界に関わるきっかけとなりました。
そしてガソリンスタンドを経営していたことから、たまたまタクシー業界へと進出する機会を得ることになりました。
少なくとも今の形でのMKグループが生まれていなかったことは間違いないでしょう。