【MKタクシー60周年】1960年10月26日 ミナミタクシー創立

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【MKタクシー60周年】1960年10月26日 ミナミタクシー創立

1960年10月26日、MKタクシーの前身であるミナミタクシー株式会社が設立されました。
当時、タクシー不足が社会問題となっており、1960年にタクシーへの新規参入が認められることになりました。
規模に関わらず、やる気のある事業者にタクシー免許を与えるという陸運局の方針により、ミナミタクシーの参入も認められました。
ミナミタクシーが実際に営業を開始した創業記念日は1960年11月9日です。

危険な「神風タクシー」が社会問題に

供給不足で白タクや神風タクシーが登場

違法な白タクが急増

急激な経済成長により、タクシー需要に比べてタクシーの台数不足が顕在化していました。
そのため、タクシーの免許を持たない違法な「白タク」が幅を利かせていました。
違法な白タクは正規のタクシーより3~4割安い運賃と根本的なタクシー不足もあって猖獗を極めました。
度重なる取り締まりにも関わらず、市民の一部から支持を集めた白タクはピーク時の1960年5月には1,300台も営業していました。

様々な対策により白タクは沈静化

正規のタクシーが約1,900台だったのと比べると、いかに多いかがわかるでしょう。
しかし、京都府警と京都陸運事務所の度重なる取り締まりや段階的な増車認可によるタクシー台数の増加、不当な高額運賃や暴力行為の多発によって市民の指示を失ったことによって次第に姿を消していきました。

 

神風タクシーとは

正規のタクシーも危険運転が常態化

一方で白タクではない正規のタクシーも需給バランスの崩れを背景に、今とはくらべものにならないひどいものでした。
危険運転を繰り返すタクシーを揶揄する「神風タクシー」による死亡事故が起こるなど、社会問題となっていました。

神風タクシーが社会問題となったのは1958年のことです。
1958年1月30日に東大赤門前で東大サッカー部の主将がタクシーにはねられて死亡する事故が起こりました。
制限速度を超過したタクシーが背後から突っ込んできたのが原因です。

朝日新聞の特集で社会問題に

当初はほとんどニュースにもなりませんでしたが、朝日新聞が2月8日に取り上げたところ反響があり、2月18日から「神風タクシー」という連載がはじまりました。
神風タクシーという言葉自体は以前からありましたが、大きく知られるようになったのはこの特集記事からです。

「ひかれ損」「こわいノルマ」「暴走を生むもの」「たよりない官庁」「事故を防ぐには」のタイトルで連載され、一般市民だけではなくタクシー運転手からも投書が殺到しました。
他のマスコミも大きく取り上げ、神風タクシー追放の世論が大きく盛り上がりました。
国会でも取り上げられ、すぐに政府も「自動車事故防止対策部会」を立ち上げました。
4月14日からは第2回の連載も始まり、一覧の連載は1958年度の新聞協会賞を受賞しました。

 

やる気重視で新規参入を審査

タクシーの新規免許を認める方針に

世論に押されて新規免許を認める

タクシー乗場では客が長蛇の列を作り、タクシーが客を選ぶ乗車拒否は日常茶飯時でした。
このような状況を解決するには、供給の適正化しかありません。
タクシーを増やせという世論により運輸省も、重い腰を上げざるを得ませんでした。

1960年から1961年にかけて、全国的にタクシーの新規免許が認められる方針となりました。
それまでの少数事業者による独占が崩れたのです。1960年1月22日に京都で増車を認める答申が下り、新規免許申請の受付が始まりました。
このとき参入した事業者は、のちに「三五事業者/三六事業者」などと言われ、長らく新規事業者の代名詞でした。

個人タクシーも誕生

また個人タクシーが誕生したのも同じころ年です。
以上のようなタクシー不足に対応する目的とあわせて、当時は労働運動の強い時期であったので、労働者に夢を与え評判の悪い法人タクシーに抵抗させる意味もありました。
初めて個人タクシーの許可が下りたのは1959年12月3日のことです。

 

今のタクシーを作った陸運局の英断

資本よりもやる気を重視

新規参入が認められるとはいえ、実際には十分な資本的裏付けのない小規模な新規事業者には、免許は認められないという当初の前評判でした。
しかし、運輸省は規模に関わらず、やる気のある事業者に免許を与えることでサービスの活性化を促すという方針をとりました。
そのため、零細事業者に過ぎないミナミタクシーも、タクシーの新規免許を受けることができました。

今のタクシーの基礎を作った英断

零細なタクシー会社に多数新規免許を与えても、採算が取れず質の高いタクシーが供給されるわけない、当時は批判を浴びることもありました。
しかし、今、世界的にも評価が高い日本のタクシーがあるのも、このときの運輸省のやる気を重視するという英断のおかげと言えます。

 

 

ミナミタクシーがタクシーの新規免許

タクシーは儲かるという噂を聞きつけて申請

ガソリンスタンド業から進出

のちにMKグループの創業者となる青木定雄は、1957年から永井石油(現MK石油)というガソリンスタンド業を営んでいました。
タクシーの新規免許が認められるという状況下で、たまたま「タクシーは儲かるぞ」という話を聞きつけました。
ガソリンを安く仕入れることができるため、他社より優位に立つことができるだろうと考え、タクシーの新規免許を申請することにしました。

申請した理由は、決してタクシー業界を変革しようという志に燃えていたのではありません。
「タクシーは儲かるというし、タクシーならガソリンも使うし」という考えからのタクシー業界進出でした。

締切当日にぎりぎり申請

1960年3月8日、青木定雄の出資により新たにミナミタクシー株式会社を設立するとし、大阪陸運局にタクシーの新規免許を申請しました。
発起人代表は、その後長くミナミタクシーやエムケイの社長を務める中村達四郎でした。
新規免許申請を提出した3月8日は受付の最終日だったことからも、ばたばたの申請であったことが想像がつきます。

なお、中村達四郎は、NHKの 「NAGAI~焼け野原のピンポン~」で2020年に取り上げられました。
タクシーやガソリンスタンドの経営者とは別に、卓球選手としてのもう一つの横顔がありました。

ミナミタクシーの免許申請書表紙

ミナミタクシーの免許申請書表紙

 

想定外のタクシー新規免許

小規模事業者は認可されないとの前評判

しかし、儲かる事業に人が集まるのは当然です。
このとき大阪陸運局にタクシーの新規免許を申請したのは約百件もありました。
青木定雄も、小規模事業者は許可されないのではないかという前評判から、通るはずがないと思っていました。
それでも中村達四郎は聴聞でのいろいろな質問を想定して大阪まで講習に通ったり、徹夜で勉強するなど準備を進めました。

まさかの新規免許が下りる

同年10月1日、無事タクシーの新規免許が下りることになりました。同じ10月1日には、京都で新規法人タクシー17社115台、個人タクシー125台、既存法人タクシー14社163台の新規免許と増車認可が下りました。
想定外だったので、大慌てで同業者から就業規則などの書類を借りるなど、急ピッチで営業準備を開始しました。

昭和49年「第2回消費者団体の声を聴く会」でタクシー改革の必要性を熱く語る青木定雄

1974年「第2回消費者団体の声を聴く会」でタクシー改革の必要性を熱く語る青木定雄

 

トップを切ってタクシー営業開始

11月9日にはアッと驚くスピード開業

大急ぎで営業開始の準備

営業所、車庫は永井石油の本社内(南区西九条島町)におきました。
営業車の塗装をどんな色にしようかと考えあぐねた青木定雄は、数日繁華街に立ちつくし、行き交う車を眺めて、当時外車に多く見られたアイボリーに決めました。

新規免許を受けても、すぐに営業できるわけではありません。
様々な準備が必要なため、免許の条件では4ヶ月以内に開業することと定められていました。

会社設立から2週間で営業開始

できるだけ早く開業するため、免許を受けると直ちに夜を徹して作業を続けました。
まず1960年10月26日には、ミナミタクシー株式会社が設立。
免許から1ヶ月余り後の11月9日には営業開始を実現し、業界をアッと言わせました。
MKタクシーの「創業記念日」は11月9日です。
ちなみにミナミタクシー創業日の1960年11月9日は女優の石田えりさんの誕生日でもあります。

 

京都新聞で取り上げられる

「ガソリンを売るだけではつまらない」

京都新聞 1960年(昭和35年)11月26日号

京都新聞 1960年(昭和35年)11月26日号

当該記事からは、以下の情報がわかります。

  • 10月1日に新たに17社(115台)が免許を受けた
  • トップを切ってミナミタクシーが開業した
    社長の中村達四郎「ガソリンを売るだけならつまらない。人件費についで大きなガソリンはお手の物なので、他社より優位に立てると判断した」
    開業翌日には運転手がトラック泥棒を捕まえて名を挙げた
  • 俳優月形竜之介はアオイ自動車を創業
    「出入の運転手から話を聞くうち、公共性があって文化性があることに興味を抱いた」
    マークも月形にちなんで三日月に”アオイ”を配したデザイン
  • 宝酒造のタカラタクシーは「(タクシーに不便をかこつ)伏見区民に何かの形で恩返し」をするため進出
    タカラタクシーの支配人は「30台ないと採算が取れないのに、10台の認可だった」と、少ない台数で多数の事業者に免許を出したことをちょっぴり批判
  • 任天堂のダイヤ交通は「(師団十条の)会社を訪れるお客さんにも迷惑をかけ通しになっている」ため進出
    製品のトランプから”誠実”を表すダイヤを社名に
  • お医者さんが社長の伏見タクシー
    診察に来た人が白タクを始めたと聞き、非合法な白タクをやめるように諭したのがきっかけ
  • 比叡山観光ホテル(ロテルド比叡の前身)は関西で初めてホテルのハイヤー営業を認められた
    すでにあるホテルが申請の準備を始めているという
  • 新免タクシーは運転者不足で確保に躍起
    陸運局は「露骨な引き抜きで混乱を来さないよう」警告
  • 府陸運事務所長は「大会社でないとダメだという気分を一掃し、中小タクシーに門戸を開いたことに意義がある。各社のサービス競争で市民にとってはかえってプラスが期待できる」と新規タクシーの活躍に期待

 

同時に新規参入した事業者の後日談

後日談として、注目を集めた他業種からの参入は、その後営業不振により数年で撤退を余儀なくされることになります。
宝酒造のタカラタクシーは、1965年(昭和40年)にタクシー事業から撤退。
ヤサカグループの洛陽交運傘下の桃山タクシーとなり、1974年に洛陽交運に吸収合併されました。
任天堂のダイヤタクシーは、1969年(昭和44年)にタクシー事業から撤退。
名鉄グループの京都名鉄タクシーとなり、2004年(平成16年)にヤサカグループの南ヤサカ交通となりました。

 

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