三上智恵著「証言 沖縄スパイ戦史」(集英社新書)を読む【中】|MK新聞連載記事

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三上智恵著「証言 沖縄スパイ戦史」(集英社新書)を読む【中】|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、ジャーナリストの加藤勝美氏による連載記事を掲載しています。
MK新聞2022年3月1日号の掲載記事です。

やーさぬ パンドラの封印をはがず ―三上智恵著『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)を読む

戦線の縮小後退

『証言』の著者は「戦争マニュアルから浮かび上がる秘密戦」という第6章で、軍の中枢部シンクタンクから舞い降りてくる教範・戦訓・要領・教令などの運用法規類を時間系列の事実とを対比させて調べ上げている。
その中の陸軍中野学校資料にこんな箇所がある。

昭和18年中頃になると、わが陸軍は守勢作戦における武力戦の補助として、占領地に遊撃戦を展開する必要に迫られた。

時期的には年表の山本五十六(いそろく)司令長官戦死、アッツ島守備隊玉砕、ニューギニア方面陸軍航空兵力潰滅という事項を受けて、1943(昭和18)年9月30日 御前会議「今後採るべき戦争指導大網」(絶対国防圏の設定)の決定を余儀なくされるに至る頃である。
戦線は縮小後退し、南太平洋広域からフィリピン・台湾・南西諸島・本土日本の縦線へ移行していた。
著者は述べている。

「1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦の敗北、翌年のガダルカナル撤退後、日本軍は敗退を重ね守勢に転じることになり、圧倒的に物量に勝るアメリカ軍と正面戦争するだけの正規軍の増派は不可能になった。そこで正規部隊の戦闘を側面から支援し、戦線の外にあって敵の後方を錯乱したり、情報戦を重視してスパイ・テロ・ゲリラ戦争を駆使し、少人数で敵内部に打撃を与える遊撃戦に重点を移していった」。

とはいえ遊撃戦が正規軍にとって代わる本末転倒の話はありえない。主従表裏は変えようがないとすれば正規軍の背骨が崩れ去ろうとしていたと考えるべきだろう。

1941(昭和16)年12月8日から1945(昭和20)年8月15日までの日米太平洋戦争は、アメリカの母型ともいうべき世界の列強国大英帝国イギリスに肩を並べる道に国運の活路を見出そうとした後進列強日本が描いた大東亜共栄圏建設の夢なくしては成立しなかった。
その範囲は海上でいえば太平洋、地中海、大西洋のみならず北極南極に近接していくベーリング海、タスマン海にまで及んでいた。
その夢は日清日露の戦いで明治大正の時代に提灯行列を重ねてきた日本人の従順な常識の範囲内であろうと思われた。

戦争緒戦のハワイ・パールハーバー奇襲成功で日本国民が熱狂し、背伸びして肩で風を切ったことは自然なことであった。
その夢のような熱狂が日本国民に苛烈な犠牲を強いることになったが、熱狂夢をなかったことにしていいということではない。
苛烈な犠牲という現実が忘れられてはならないように。

日本海軍の航空兵器ゼロ戦闘機の性能はアメリカより数段優れていたし、空母も同じく優位に立っていた。
1930年代大恐慌から立ち直るべくニューディール政策で耐乏していたアメリカに軍事予算は限られていた。
ルーズベルト、トルーマンは軍産複合体制の工業国家へ移行し、戦争経済で活気を取り戻し、やがてマンハッタン計画に辿り着く。
ゼロ戦を凌ぐ戦闘機をはじめ航空母艦、戦車、レーダーと次々に開発していった。
これに反して日本側は新機種開発どころではなく、特にレーダーなど情報分野で圧倒されていった。

天皇が現人神として君臨する大本営陸海軍の御前会議が日本最高の司令部であり、日本国民にとっては戦争という事態の心の拠り所とばかりに国民感情は憑かれたように吸い込まれていった。
開戦から一年半後のミッドウェー海戦で日本軍が敗北した後、坂を転げ落ちるように夢の大東亜共栄圏はすぼんでいった。

太平洋マリアナ諸島にテニアン・サイパン・グアムがある。この線を米軍に破られればニューギニア・フィリピン・台湾・南西諸島そして本土日本の、極東アジア諸島といった最後の一線しか残されない事態となってしまう。
1944(昭和19)年7月6日にサイパン島守備隊からの通信が途絶えてしまう。やがて間もなく玉砕。

 

女小供玉砕してもらい渡し

サイパン玉砕には、日本軍特別志願看護師・管野静子の記録『サイパン島の最後』という文章が後世に伝えられている。彼女は次々と自決していく日本の兵士たちを目前にする。
彼女も自ら手榴弾自決するも意識不明の状態でアメリカ兵士に発見される。手当てを受けて意識が戻った時、車に寝転んだまま乗せてもらって軍民問わない死者と対面していく。

“道の両がわは砂糖キビ畑であった。その黒々とした土の上に、いくつもいくつも死体がならんでいる。”
“行けどもゆけども、死体はさいげんなくつづいている。高さ二百メートルほどの断崖、波打ちぎわに、たくさんの死体がうかんでいた。女ばかりである。”
“大きな波がくるごとに、その死体は岩にぶつかり、波のなかにのまれ、またういてくる。私はもう涙も出なかった。”
”すると、その母親の死体からすこし離れたところに、ひとつだけ小さなものが、プカリプカリ浮いたり沈んだりしている。小さな女の児だ。それをみた瞬間、私はワッと泣き出したくなった。”

サイパン戦については『証言』の著者が自ら「補稿 住民はいつから『玉砕』対象になったのか」で触れている。
1944年6月から7月初めまでの戦闘で、軍民の民にあたる現地在留邦人のおよそ半分、一万人ほどが死んだ。そのうち6割が沖縄出身者だという。
戦闘が終結する頃、東京の陸軍参謀本部と陸軍省との間で臨時の政府連絡会議があり、その時の軍民共生共死に関するやり取りを7月2日付でメモした陸軍医事課長の『備忘録』が見つかったというのである。
そのメモ内容について「このように東京の一室でサイパンや沖縄に暮らす非戦闘員の命が運命づけられていったことを忘れてはならない」と、第6章とこのメモに対する総括を下している。

メモには「女小供玉砕してもらい渡し」とあるが「これを全部玉砕せしむる如く指導する」となると事務的処理ではなく、戦禍が本土に及ぶ場合の前例ともなるので大和民族の指導上重要だから天皇に上奏し、大御心に如向にして副うか。「翌日大臣は上奏、非常に御心配になられた」との記述があった。

このメモと関連があるかは別として、年表ではこの会議に関連するのではないかという項目がある。同年7月7日、サイパン島の日本守備軍の通信杜絶、玉砕。
政府緊急閣議。南西諸島の老幼婦女子・学童10万人の県外集団疎開を決定、である。
この項目にもたれかかるように事件は続く。同年8月22日に沖縄から本土長崎への学童疎開船「対馬丸」がトカラ列島付近で米潜水艦に撃沈されたのである。
学童834人、そのほか付添い父母、教師、一般人疎開者827人で計1,661人水没。
島の外に出ようとすれば米軍に撃沈されるかもしれない戦争状況で、この疎開政策は宮古島住民など含めて8万人に達するまで続けられた。

このサイパン・対馬丸騒ぎの渦中に1944(昭和19)年8月10日、第32軍司令官牛島満中将が沖縄に着任した。
9月13日、司令官に付き従うように陸軍中野学校を卒業したばかりの同期2名の若手将校、村上治夫と岩波寿がそれぞれ第3遊撃隊、第4遊撃隊の隊長として赴任し、司令部参謀の面々から、大本営陸軍参謀長名入りの辞令を受け取った。
この日から空前絶後の1,000名の沖縄少年兵ゲリラ隊が浮上してくるのである。

もはや正規軍―遊撃隊の主従表裏を言っている場合ではなかった。
正規軍は崩壊寸前で間に合わせ的にしか膨らんでいかなかった。郷土を守ろうとする白虎のような面々、少年護郷隊のような無垢に縋るよりほかなかったのである。
第32軍独立混成第44放団国頭支隊に編成されていくれっきとした部隊であった。

 

評者:張間隆蔵

自然遺産奄美住用マングローブ原生林ガイド(マングローブ茶屋所属)。
戦時下米軍大阪大空襲から逃げるべく両親が疎開した先の鳥取県西伯郡の片田舎に1945(昭和20)年1月生まれる。
終戦後、焼野原の大阪市此花区の実家に戻って家族生活再開。
1967(昭和42)年2月、大阪市立大学文学部処分退学。
1968(昭和43)年より東京にて商社勤務。
その傍ら日本近代史諸学を研鑽。同人誌「出立」を主宰して『審問』などを発表。
2000(平成12)年より奄美本島住用村に移住し、マングローブ踏査研究に従事。
琉球弧沖縄に関心を寄せる

 

著者:三上 智恵

ジャーナリスト、映画監督。
元琉球朝日放送(QAB)アナウンサー。毎日放送を経て、1995年のQAB開局からキャスターを務める。
2012年の監督作品『標的の村』が反響を呼び、劇場映画として公開。
キネマ旬報文化映画部門1位、座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル大賞、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞など17の賞を獲得。
2014年にQABを退職後、第1作となる『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』を2015年5月に公開。
成城大学および沖縄国際大学大学院で沖縄民俗学(シャーマニズム)を専攻し、現在も沖縄国際大学で非常勤講師を務めながらフィールドワークを継続している。

 

書誌情報

著者:三上智恵
出版社:集英社
発売日:2020年2月17日
価格:1,870円
受賞:
第20回石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞 草の根民主主義部門 大賞(早稲田大学)
第7回城山三郎賞受賞(角川文化振興財団)
第63回JCJ賞受賞(日本ジャーナリスト会議)

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ジャーナリスト。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

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1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
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