喜寿のタンザニア紀行②|MK新聞連載記事

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喜寿のタンザニア紀行②|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
喜寿のタンザニア紀行②「文化と奴隷制、踊りの熱気」です。
MK新聞2015年1月1日号の掲載記事です。

文化と奴隷制、踊りの熱気

カオレ遺跡

カオレ遺跡

鉄の首輪と長い鎖

タンザニア3日目。
22日(金)も8人が、全員車でダルエスサラームから70km北のバガモヨまで1時間あまり走った。
周りが潅木(かんぼく)や大木で覆われてくると、小中学生たちとすれ違うようになり、やがてカオレ遺跡に着く。
13世紀から14世紀に存在した、インド洋交易を基礎とした小都市国家の跡。
あちこちに生徒の一団がいたから、国の歴史の学習なのだろう(写真)。

奴隷の首輪

奴隷の首輪

その後、市内に戻ってタンザニア本土最古のローマン・カトリック教会へ。
設立1868年、つまり明治維新の年。
付属した小さな博物館があり、いくつか興味ある展示物があった。
ドイツの植民地時代を伝える「コロニアル・ユニフォーム」は軍服、剣とピストル。
「ウォーター・フィルター」は窪んだ岩石(?)に水が貯められている。
スワヒリ語の文法書もある。オールド・サンダルは木製で先端に突起があり、足指ではさんだのだろう。
そして奴隷の首にはめられた鉄製の首輪と長い鎖(写真)。松田素二(もとじ)『新書アフリカ史』(講談社現代新書)によれば、「秩序だったアフリカ争奪」のため1884年にべルリン会議が開かれ、英独仏など13の国が参加したという(287ページ)。
文化としての浄水装置や文法書と奴隷制度の併存。

チビテの踊り

チビテの踊り

チビテの歌と踊り

この後に訪れたのが、今度の旅行の目玉の一つ、民族音楽、チビテCHIBITEの歌と踊り。
踊り手というより近所のおばちゃんたち (?) が、男たちの太鼓や楽器の演奏とともに木造の舞台いっぱいに跳ね踊り回る姿に圧倒される。
とくに太ももの問に挟んだ太鼓を叩きながら踊る場面は圧巻(写真)。
われわれは草原に村人たちと一緒に腰をおろして見物しているのだが、舞台の前を小さな子どもが自転車のタイヤを転がしながら走ったり、舞台の端っこに座って観ていたり、日常性とともに踊りがあるのがすごく楽しい。
大喝采のうちに終わった後、大学生のマモー君が舞台に上がってロボットの動きをまねたような踊りを披露すると、皆ワーッと彼を囲んで踊りを始め、「サンキュー ジャパニーズ」の声が彼を包んだ。
タンザニアの人たちと日本人との民間交流であった。

蛇足かもしれないが、日本の文化人類学者によるアフリカのダンスについての考察の一端を見てみたい。
川田順造『アフリカの声』(青土社)によると、「ダンスは観るものである前に自分で踊るものであり、身体で表現するよりは、身体を通じて自分が何かを感じ取り、享受する行為であるように思われる。足から頭まで一直線の垂直立の姿勢はないといってよく、腰から上の上体の軽い前傾、膝も軽く曲がった形が基本姿勢である。前後に大きく開脚して跳躍前進することはなく、バレエやヨーロッパ民俗舞踊に多い、天上志向的な、軽やかで大きな跳躍とは異質なものだ」(164~7ページ)。
チビテの踊りはまさにそれだった。この日は、海辺沿いに立ち並ぶロッジに泊まった。

翌23日(土)。この日はかつてのキャラバンサライを利用した小博物館へ。
展示品は少ないが、前日見た奴隷の首輪と似たものがあった。
館員の説明では、サライは1860年に建設され、アラブ商人が中継地となるザンジバルの奴隷市へと連れていくまで、奴隷を鎖でつないでいたという。
バガモヨという地名は 「魂をここに置いてゆく」 ことを意味するという(1885年のベルリン会議でタンガニーカがドイツ領となり、のちにタンザニアと合併)。
首輪と並んで、奴隷を自由にした証拠としてドイツが発行した「自由証」の現物もあったが、それで思い出したのは筆者が35、6年前に訪れた大英博物館だった。
何時間かかけて、それでも駆け足で見て回った後に思ったのは 「世界各地に植民地を持っていた彼らは数々の略奪品も含めた展示によって倣慢にも人類の歴史を再現できると信じている」ということだった。
とすれば、奴隷をつないだ鎖や首輪もまた人類の歴史の一部として大英博物館に展示すべきではないのか。

庭でトウモロコシを焼く

庭でトウモロコシを焼く

焼きトウモロコシ、満天の星

24日(日)は朝暗いうちから起きて、キリマンジャロ麓のルカニ村へ行く4人とスワヒリ語科の学生の圭子さん(仮名)の5人がバス停へ(サファリを見る人たち4人とは別行動)。
路上ではもうその頃から道端に果物や野菜などを並べている人たちがいた。
市内ではこの無店舗販売は至る所で見られるものだ。

午前6時40分、バス停で現地の旅行代理店ジャターズのスタッフであり、我々が宿泊することになる家の持ち主でもあるアレックスさんが乗り込む。
1時間後、次のバス停では、何人もの物売りが激しく窓を叩く。
水滴を付けたリンゴを欲しかったが、バスはすぐ出発。
トイレ休憩もなく5時間走り続けて昼ごろ大きなバス停着。
30分ほど停車している間にアレックスさんが弁当を買ってくれた。チキン、ライスにポテト、紙に包んだ塩。

午後4時20分、終点。
そこからトヨタのランドクルーザーに乗り換えて5時半に宿泊先着。
女性3人(本紙前々号に 「タンザニア残照」を寄稿した片岡雅子さん、学生の圭子さん、晶子さん(仮名))、マモー君、私の5人にそれぞれ部屋が割り当てられる。
村は赤土の道路に沿って両脇に一定の間隔でトタン屋根の家が並び、各家の前は短い草が生えた50坪ほどの庭があり、家の正面の木製の扉はギーッという音を立てて開く。
入ると、10畳ほどの食堂兼居間で、テーブルの上に電気炊飯器、お湯のポット、食器。奥に三人掛けのソファーと背の低い小テーブル。その両脇に椅子。
日本では、便所は屋外と聞かされていたが、トイレとシャワー兼用の水洗便所が建物の内部にあった。
太陽が沈み始めるころ、外へ出ると、中学生のローズが炭で火を熾(おこ)して枯れ枝をくべ、金網の上で近くの畑から採ってきたとうもろこしを焼き始めた(写真)。
皮はそこらへんに捨てておくと、牛が食べる。
炭火を見つめながら、私の故郷の秋田市の家では囲炉裏にいつも炭があり、鉄瓶がシュンシュンと音を立て、炭火で魚を焼き、きりたんぽをあぶったことを思い出した。
ローズはこぼれた赤い炭を素手でつかんで元に戻していたが、いつもやっていることなのだろう。

夕食の支度はアレックスさんが「ママ」と呼ぶ近親の女性がガスボンベを使って用意をし、アレックスさんを入れた6人が低いテーブルを囲んで座り、クリスチャンのアレックスさんの食前の短いお祈りの後、食事が始まる。
各自が皿に料理を盛るのだが、この日は白いご飯、野菜の煮物2種とジャガイモの炒め物。
デザートはアボガドとオレンジ。

食事後、室内と入り口扉の照明を消し、庭に出てまさに漆黒の闇の中で満天の星空を仰いだ。
銀河がきれいに見え、星座に詳しい人なら「あれは何々座」とすぐに言えたろう。
果物を食べながら、スワヒリ語と英語を交えてアレックスさんと雑談をし、私は9時頃には先に部屋に入り、残った人たちは10時過ぎまで楽しそうに話しこんでいた。
部屋は壁の上部に開口部があり、夜気が入ってくる。
8月でも夜は冷え込むから蚊はいない。用意した冬の下着に着替えて、1枚の毛布に潜り込む。(つづく)

 

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「MK新聞」は月1回発行で、京都をはじめMKタクシーが走る各地の情報を発信する情報紙です。
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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