エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【381】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2020年1月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めて暮らしたい
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
言わずと知れた斎藤茂吉の代表歌である。1912(大正元)年作、歌集『赤光』所収。赤茄子はトマトのこと。
「有名なことにかけては『赤光』中屈指の歌」と言われ、これまで、数えきれないほど評釈の対象にされてきた。
ネットで検索すれば、たちどころに有名無名の人々が解釈、解説を得意げに披露しているし、茂吉の自註だってある。
「だから、何?」、わからない、という人がいる一方で、何気ない日常に美学的な時空を意識させる名作という評価をする人、かなりひねった深読みをする人、有名歌への反発か、あざとい駄作だと切り捨てる人も。
なので、いまさら「この歌が好き」などともったいつけて取り上げ、何ごとかを言おうとするのも気が引けるのだが、私がこの歌を初めて目にしたときに強く惹かれたのは、単純に、同じ経験が自分にあったからだ。
大学の夏休み。友人と二人、原付スクーターで九州の佐多岬から北海道の宗谷岬まで、野宿で日本縦断をした。
山陰地方の山間部。曲がりくねった細い道をただひたすら走っていた。途中、人も車もすれ違うことはなかった。
そして、あるカーブを曲がりきった瞬間、視界に入ってきたのが、道端に山のように積みあげられた真っ赤なトマト。
熟れきって、はちきれて、崩れ落ちた廃棄トマトを畑のすみに寄せ集めたものなのだろう。
炎天下、じゅくじゅくに腐れきったトマトの鮮烈な赤。「はっ!」と思った時には、バイクはもう走り過ぎている。
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
私は、のちにその残像について語ることしかできない。腐れていたトマトそのものではなく。
残像とは、トマトそのものを見た瞬間でも、トマトそのものを見たその場所でもなく、そこから「幾程」か離れてしまってからなんとか捕まえることができた網膜の中にあったトマトのことだ。
そして、そのトマトについて私が記している今は、2019年12月の京都。あなたがこの文章をどこかで読んでいるのは2020年の正月。
美は、いつどこから立ち現われてくるのか。
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
MK新聞について
「MK新聞」は月1回発行で、京都をはじめMKタクシーが走る各地の情報を発信する情報紙です。
MK観光ドライバーによる京都の観光情報、旬の映画や隠れた名店のご紹介、 楽しい読み物から教養になる連載の数々、運輸行政に対するMKの主張などが凝縮されています。
40年以上も発行を続けるMK新聞を、皆さま、どうぞよろしくお願いします。
ホームページからも最新号、バックナンバーを閲覧可能です。
MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)