泉涌寺で毎年成人の日に行われる新春恒例の「泉山七福神巡り」とは
目次
毎年成人の日に泉涌寺で行われる「泉山七福神」は、新春恒例の行事として人気が高まりつつあります。
福笹に縁起物をつけていく達成感、3時間ほどで巡れるお手軽さ、たった一日だけという特別感が人気の秘密です。
不老長寿や商売繁盛を願って一度は泉涌寺の泉山七福神に行ってみましょう。
2024年は1月8日(月祝)に行われます。
七福神巡りについて
まず、泉涌寺以外にもたくさんある七福神巡りについて見てみましょう。
七福神とは
七福神とは、インド、中国、日本から選んだ様々な神仏7柱をセットで信仰する、日本独自のものです。
弁財天、毘沙門天、大黒天は仏教あるいはヒンドゥー教に由来する、インドの神仏です。
福禄寿、寿老人は道教に由来し、布袋は実在の人物がモデルの中国の神様です。
恵比須は、日本の漁業や商売の神様です。
このように、由来も出身も様々な神仏を七福神としてまとめてしまうところが、日本の宗教文化の面白さでもあります。
室町時代ごろに、ご利益のある7つの神仏をまとめて信仰する七福神信仰が誕生しました。
現在は七福神のメンバーは固定されていますが、かつては必ずしも定まっていませんでした。
例えば、吉祥天、愛染明王、お多福、福助、稲荷神、猩猩(しょうじょう)、虚空蔵菩薩、宇賀神、達磨、ひょっとこ、鍾馗(しょうき)、不動明王、白髭明神などが七福神に入ることもあったそうです。
七福神巡りとは
七福神巡りとは、七福神を祀った7つの寺社を巡拝し、不老長寿や商売繁盛などのご利益を得る正月行事です。
室町時代に京都で七福神信仰が発展すると同時に始まり、京都の「都七福神巡り」が発祥と言われます。
京都で単に七福神めぐりといえば、都七福神です。
今では全国各地に広がり、一説には300以上あるとも言われます。
京都の七福神巡りについて
京都では、日本最古として知られる「都七福神巡り」が良く知られますが、それ以外にもいくつかの組み合わせがあります。
七ヶ所の選ばれ方もそれぞれ異同があります。
福禄寿 | 弁財天 | 恵比須 | 布袋 | 大黒天 | 毘沙門天 | 寿老人 | |
都七福神 | 赤山禅院 | 六波羅蜜寺 | 恵比須神社 | 萬福寺 | 松ヶ崎大黒天 | 東寺 | 革堂(行願寺) |
京の七福神 | 護浄院(清荒神) | 三千院 | 恵比須神社 | 長楽寺 | 松ヶ崎大黒天 | 毘沙門堂 | 革堂(行願寺) |
京都七福神 | 遣迎院 | 出町妙音堂 | 護浄院(清荒神) | 大福寺 | 松ヶ崎大黒天 | 廬山寺 | 革堂(行願寺) |
京洛七福神 | 護浄院(清荒神) | 出町妙音堂 | 恵比須神社 | 長楽寺 | 松ヶ崎大黒天 | 毘沙門堂 | 革堂(行願寺) |
共通する札所と異なる札所が混在しており、興味深いです。
中でも京の七福神と京洛七福神は、弁財天(三千院と出町妙音堂)が異なるだけで、他は共通しています。
大黒天の松ヶ崎大黒天と寿老人の革堂(行願寺)は4つとも共通しています。
寿老人はともかく、大黒天を祀った寺院は京都でも他に多数ありますが、いずれも松ヶ崎大黒天です。
東寺や萬福寺といったビッグネームと並んで無名の札所が七福神に混じっている点も興味深いです。
中でも大福寺という寺院は聞き覚えがないという方も多いでしょう。
麩屋町二条上ルにある、いかにも町堂といった雰囲気の小さなお寺です。
護浄院(清荒神)や遣迎院(けんごういん)、出町妙音堂などもそれほど知名度は高くないでしょうが七福神に入っています。
以上の4つの七福神めぐりは、いずれも京都各地に散在する七ヶ寺を巡るものですが、泉山七福神は泉涌寺山内だけで行われます。
泉山七福神巡りレポート
2019年1月14日(月祝)に泉涌寺の泉山七福神巡りに行ってみました。
泉山(せんざん)七福神巡りとは
泉山七福神巡りとは、毎年成人の日に泉涌寺山内で行われる七福神巡りです。
泉山は東山(とうざん)と並んで泉涌寺の山号であり、泉涌寺の略称としても使われることがあります。
2000年にハッピーマンデー制度が導入されるまでは、成人の日にあわせて毎年1月15日に開催されていました。
今は1月第2月曜日に開催されます。なお、成人の日が1月15日を含む第3月曜日ではないのは、阪神大震災の1月17日が祝日になるのを避けるためです。
泉涌寺山内にある即成院、戒光寺、今熊野観音寺、来迎院、雲龍院、悲田院、法音院の七ヶ寺と、番外の新善光寺、泉涌寺本坊楊貴妃観音堂の計九ヶ寺を回ります。
泉涌寺で泉山七福神がはじまったのは1951年とそれほど古い行事ではありませんが、一日でお手軽に回れるというのと、福笹に順番に縁起物を付けていくという手法が人気を集め、泉山七福神は年々盛大になりつつあります。
2024年は、福笹と授与品セット(4,000円)、色紙(5,500円)のオンライン授与も行われます。
1月8日だけでなく、1月4日~31日までの受付です。
【第一番】即成院<福禄寿>
即成院(そくじょういん)について
即成院は、泉涌寺の入口にあたる総門のすぐ手前に入口があります。
もとは正暦2年(991年)に恵心僧都が開創した光明院に始まると伝えられます。
豊臣秀吉による伏見城築城に伴い、大亀谷東寺町へと移されましたが、明治維新後の廃仏毀釈により廃寺同然となりました。
1875年に泉涌寺の塔頭として再興され、1902年に現在地へと移りました。
毎年10月第3日曜日に行われる「二十五菩薩お練り供養法会」で知られます。
公式ホームページ:現世極楽浄土 即成院
即成院の泉山七福神巡り
泉山七福神巡りのスタート地点である即成院。
即成院の山門をくぐると、すぐに福笹引換所があります。
泉涌寺の泉山七福神巡りには欠かせないのが福笹です。
泉山七福神に欠かせない福笹は、何と無料で配られています。
番外を含めた泉山七福神巡りの九ヶ寺で授与される縁起物である吉兆を集めて、この福笹にくっつけていきます。
即成院という名称から「ぽっくり寺」とも称される塔頭寺院です。
仏教と習合している側面はあるとはいえ、福禄寿は本来道教の神様です。本堂内の一角に福禄寿が祀られています。
本堂には平安時代作の阿弥陀如来像を中心に、二十五菩薩像が取り囲むという豪華な仏像群が安置されています。
二十五体のうち十体は創建当時のもので重要文化財に指定されています。十五体は戦火で失われたため、江戸時代の補作です。
10月第三日曜日には二十五菩薩お練供養会が行われます。
本堂の裏には大きな那須与一の墓があります。屋島の戦いの扇の的伝説で有名な武将です。
有名人だけあって全国に墓がありますが、ここが最も代表的な墓です。
那須与一が即成院で武運を祈願したと伝えられています。
【第二番】戒光寺<弁財天>
戒光寺について
戒光寺は、泉涌寺総門から南東へ150mほど進んだ北側(左側)にあります。
戒光寺は貞応2年(1223年)に八条猪熊の今の戒光寺公園(南区戒光寺町)のあたりに創建されたのが始まりです。
その後、一条小川(上京区戒光寺町)などを点々とし、正保2年(1645年)に現在地へと移転し、泉涌寺の塔頭となりました。
本尊の釈迦如来像は運慶と湛慶の合作とも伝えられる一丈六尺のいわゆる丈六像。
です、普通の丈六像は坐像ですが、戒光寺は立像で高さは5.4mにもなります。
身代わりのお釈迦様としても信仰を集め、「丈六さん」として広く親しまれています。
京都十三仏霊場のひとつで文殊菩薩を祀る第三番札所でもあります。
公式ホームページ:トップページ – 丈六 戒光寺
戒光寺の泉山七福神巡り
「泉山融通弁財天」として、独立した立派なお堂に祀られています。
弁財天像は最澄自刻とも伝えられており、金銭などの融通のご利益があり、商売人を中心に信仰を集めています。
もとは泉涌寺とは関係ない独立した寺院だったので、塔頭ながら「院」ではなく「寺」です。
当初は八条大宮東の戒光寺町にありましたが、正保2年(1645年)に泉涌寺内に移転されました。
本堂内では大きな丈六の立像を拝めますが、内部は撮影禁止です。
「丈六さん」として親しまれる高さ5.4mもある大きな像で、本堂もこの像を収めるため特殊な形状になっています。
戒光寺では、泉山七福神めぐりの無料のお接待として「あずきがゆ」がふるまわれます。先着3千名とのことです。
長い行列に見えますが、回転が速く、数分で順番が回ってきます。寒い中、盛大に湯気を出しています。
なお、2024年の泉山七福神では、4年ぶりに恒例の接待が復活する予定です。
これが「あずきがゆ」です。てっきり小豆が混じったお粥と思ってましたが、ゆかりがふりかけられた普通のお粥です。
量は少ないですが、体の芯からあたたまります。
無料でご接待いただき、ありがたいことです。
【番外】新善光寺<愛染明王>
新善光寺について
戒光寺から南東へ100m弱進み、東側(左側)の坂を下ると新善光寺です。
札所巡りには「番外」がつきものですが、泉山七福神巡りにも番外が2つあります。
名前のとおり、善光寺の本尊を模した像を本尊として、寛元元年(1243年)に一条大宮に創建されたと伝えられています。
戦火に巻き込まれて衰え、文明5年(1473年)に泉涌寺へと移り、延宝元年(1673年)に現在地へと移りました。
五条富小路の寺町にも同名のお寺がありますが、直接関係はありません。
新善光寺の泉山七福神巡り
続いて三番の前に泉山七福神番外の新善光寺。
善光寺式阿弥陀如来が本尊の塔頭寺院です。
本堂ではなく愛染明王が番外の札所です。
前述のように、愛染明王はかつては七福神の一角にも挙げられることがあり、番外の札所としてぴったりです。
【第三番】今熊野観音寺<恵比須>
今熊野観音寺について
今熊野観音寺は、新善光寺から南東へ100mほど進み、左手の坂を下って200mほど進んだところにあります。
創建当時のことははっきりわかりませんが、熊野信仰の隆盛とともに、京都における熊野信仰の拠点として発展してきました。
たびたび戦火に見舞われて泉涌寺の塔頭となり、1580年に現在地で再興されました。
今も西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所として多くの巡礼者が訪れます。
泉涌寺の塔頭ではありますが、泉涌寺に匹敵する知名度を誇ります。
公式ホームページ:今熊野観音寺
今熊野観音寺の泉山七福神巡り
今熊野観音寺は恵比須さんです。
いちおう泉涌寺の塔頭ではありますが、歴史的にも格的にも独立性が高い寺院です。
七福神の「えびす」は「恵比寿」と書くことも多いですが、泉山七福神では「恵比須」です。
恵比須さんだけあって、縁起物は鯛です。
大師堂には長蛇の列ができています。
恵比須さんは太子堂に祀られているのかと思いきや、本堂のようです。
もしかしたら、泉山七福神の期間だけ遷座しているのかもしれませんが。
御朱印は太子堂なので、そのための行列です。
今熊野観音寺の泉山七福神では、こぶ茶の接待があります。
先着1,000名とのことです。
行列ができておらず人気が無いように見えますが、回転が非常に速いためそう見えるだけです。
寒い中、並ばずにいただけるのはありがたいことです。
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【第四番】来迎院<布袋>
来迎院について
来迎院は今熊野観音寺の南隣ですが、いったん鳥居橋まで戻る必要があります。
大同元年(806年)創建とも伝えられますが、建保6年(1218年)に泉涌寺の塔頭として開創されました。
古くから「ゆな荒神」として安産祈願の寺院として信仰を集めてきました。
応仁の乱で荒廃しましたが、前田利家らによって復興されました。
浪人として山科に閑居していた大石内蔵助が檀家となり、見事討ち入りの本願を成し遂げました。
お茶室の含翠軒(がんすいけん)は大石内蔵助によって建てられました。
公式ホームページ:来迎院(泉涌寺塔頭)
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来迎院の泉山七福神巡り
泉山七福神の第四番札所は、忠臣蔵の大石内蔵助ゆかりの来迎院です。
普段は静かな来迎院も泉山七福神が行われる今日ばかりは大賑わいです。
来迎院は本堂よりも、高台にある荒神堂の方が人気です。
ここの三宝大荒神は、空海縁の日本最古の荒神様として篤い信仰を集めています。
荒神といえば民間信仰ではお馴染みですが、その由来は謎に包まれています。
泉涌寺には塔頭・別院が九ヶ寺ありますが、来迎院の向かい側にある善能寺のみが番外を含めた泉山七福神から外されています。
長らく荒廃しており、整備されたのは1971年と、泉山七福神ができたあとだったからでしょう。
いつの日か善能寺も他の泉涌寺と同じように泉山七福神の番外に名を連ねるかもしれませんね。
【番外】泉涌寺<楊貴妃観音>
泉涌寺楊貴妃観音堂について
楊貴妃観音は、寛喜2年(1230年)に南宋から招来された像です。
もともとは楊柳観音として信仰されていましたが、その美しさから江戸時代になると唐の皇帝玄宗が、亡き楊貴妃を偲んで作った像であるといわれるようになり、今も美人祈願の像として人気を集めています。
楊貴妃観音は泉涌寺の顔といった存在です。
公式ホームページ:皇室御香華院 御寺 泉涌寺 – 京都東山 御寺 泉涌寺の公式WEBサイトです
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泉涌寺楊貴妃観音堂の泉山七福神巡り
泉山七福神の番外二つ目は塔頭ではなく本体の泉涌寺です。
いつもは拝観料が必要ですが、泉山七福神巡りの日は、泉涌寺も無料公開されます
まるで禅寺のようなたたずまいですが、真言宗泉涌寺の総本山です。創建以来、長く密・禅・律・浄の四宗兼学のお寺であり、真言宗に属することになったのは明治以降です。
泉山七福神めぐりの番外に選ばれているのは楊貴妃観音です。
先ほどの愛染明王と違って、観音菩薩が七福神へ入ることは普通はありません。
七福神どうこうを超越して、人気が高い楊貴妃観音は札所に入ったのでしょう。
異国情緒が漂い他に類を見ない楊貴妃観音ですが、重要文化財に指定されたのは1997年と意外と最近です。
今はいつでも見られますが、1955年までは100年に一度しか公開されない秘仏でした。一生に一度見られるかどうかという仏像だったのです。
1951年に泉山七福神巡りが始まった当初は、楊貴妃観音は番外札所に含まれていませんでした。
開扉されるようになった1955年から、楊貴妃観音が泉山七福神巡りの番外札所に加わりました。
【第五番】雲龍院<大黒天>
雲龍院について
応安5年(1372年)に勅願によって創建された寺院です。
泉涌寺に9ヶ寺ある塔頭のなかでも、別格本山として高い格式を与えられています。
古くから写経道場としても知られ、今も写経体験が盛んに行われています。
公式ホームページ:御寺泉涌寺 別院 雲龍院
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雲龍院の泉山七福神巡り
泉山七福神の第五番は、泉涌寺よりさらに奥に位置する雲龍院。
雲龍院はでは憤怒相の「走り大黒天」が祀られています。
雲龍院では通常拝観は中止し、泉山七福神のみ受け付けされています
正確には塔頭ではなく別院で、別格本山に列せられる泉涌寺内でも特に重要な寺院です。
【第六番】悲田院<毘沙門天>
悲田院について
悲田院は、泉涌寺から東山泉小中学校を隔てて西のやや離れた位置にあります。
学校ができる前も竹林が広がっており、もともと離れていたようです。
平安京造営時に作られた福祉施設である悲田院を前身に持つとされます。
延慶元年(1308年)に寺院として再興され、17世紀前半に現在地へと移転し、泉涌寺の塔頭となりました。
高槻藩主の永井家歴代の墓があります。
悲田院の泉山七福神巡り
泉山七福神の第六番は、他の塔頭群と少し離れた位置にある悲田院。
快慶作の仏像や土佐光起作の襖絵もあるそうで興味深いですが、公開はされていません。
泉涌寺内でもやや離れているため、普段は閑散としていますが、泉山七福神の日は大賑わいです。
毘沙門天といえば虎です。魔除けの虎が並びます。
福々しい神仏が並ぶ七福神にあって、異彩を放つのが武神である毘沙門天です。
もともとは四天王のひとりに過ぎませんでしたが、次第に独立して信仰を集めるようになり、日本では七福神にまで出世しました。
悲田院の見どころは、境内からの眺望です。
ちょうど泉涌寺が位置する尾根の突端にあるため、境内からは京都市街が一望できます。
左から京都駅ビル、京都タワー、奥に愛宕山。愛宕山から地蔵山へと続く連山もくっきり見えています。
【第七番】法音院<寿老人>
法音院について
嘉暦元年(1326年)に創建され、寛文4~5年(1664~1665年)に現在地へと移転しました。
書院は伏見城の遺構であるとも言われています。
仏の姿を写し取る「写仏」でも知られます。
公式ホームページ:法音院
法音院の泉山七福神巡り
いよいよ泉山七福神最後の第七番は法音院。
ぐるっとまわるので、第二番の戒光寺の向かい側に位置します。
泉山七福神は一番から順番に回るので、進むにつれて人の数は減ります
ここは寿老人をまつったお堂があります。もとは道教の神様ですが、仏教寺院でも長寿の神様として祀られることがあります。
以上で、泉山七福神巡りは終了です。
バス停のある東大路通の泉涌寺道から数えても総歩行距離は3kmあまりしかないので、全9ヶ寺を回るのも簡単です。
いろんな七福神の中でも、もっともとっつきやすいのが、この泉山七福神巡りです。
おわりに
泉涌寺山内だけで行われる泉山七福神巡りの移動は、基本は徒歩になります。
道路は歩行者で込み合うため、緊急車両等を除き自動車で進入することは好ましくありません。
泉山七福神巡りで困るのは、帰り道です。
福笹にたくさんの縁起物をぶら下げた状態で、混雑するバスや電車に乗るのはマナー違反ですし、危険です。
そんなとき、やはり便利なのはタクシーです。
タクシーなら泉山七福神の福笹を持ったまま自宅までドア・トゥ・ドアで帰ることができます。
泉山七福神巡りの帰りには、是非タクシーをご利用ください。
1981年12月1日のMKタクシー山科営業所における全員業務集会では、御寺泉涌寺を護る会の事務局長である上田将博様にご講話いただきました。
1995年2月6日のMKタクシー山科営業所における全員業務集会では、泉涌寺の寺務長である川村俊朝様にご講話いただきました。
京都MKタクシーのご用命は
お電話で ➡ 075-778-4141
京都観光には観光貸切タクシーもおすすめです。