西大谷の暁天講座・朝の法座2022「城から見た戦国時代の本願寺」千田嘉博教授
目次
京都では、7月から8月の早朝にいろんなお寺で暁天講座(ぎょうてんこうざ)という行事が行われます。。
西本願寺の西大谷では、「朝の法座」といいます。
テレビで良く見る有名人の話しを無料かつ予約不要で聞くことができるおすすめイベントです。
2022年7月22日に西大谷の朝の法座で城郭考古学者の千田嘉博(せんだ よしひろ)教授のお話を聞いてきました。
西大谷「朝の法座」
西大谷の朝の法座について
浄土真宗西本願寺派の墓地である西大谷は、正式には大谷本廟と言います。
宗祖である親鸞聖人らのお墓があります。
西大谷では、1958年から朝の法座を開催し、2022年で65回目を迎えます。
暁天講座という名称ではありませんが、同じ内容の講座です。
2022年の朝の法座
日程 2022年7月19日(水)~21日(金)
テーマ
7月20日(水) 八幡 真衣(浄土真宗本願寺派布教使 石川教区江南組本光寺 テンプル食堂よしざき 代表)
「またね!」
7月21日(木) 長峯 顕教(真宗大谷派参務)
「無明の闇」
7月22日 (金) 千田 嘉博(城郭考古学者)
「城から見た戦国時代の本願寺」
会場は礼拝堂
以前は朝の法座会場は、仏殿及び周辺でした。
2022年の朝の法座は、礼拝堂に変更になりました。
新型コロナ対策として一定の広さがある会場が必要であるのと、猛暑対策として空調が使える会場にするのが変更理由でしょう。
朝の法座の受付は、礼拝堂の下です。
境内右奥なのでややわかりにくい位置にあります。
受付では検温を行い、資料を受け取ります。
本日は有名な千田嘉博教授が講師ということで、礼拝堂に加えて第二会場として読経所も使われています。
第二会場では、モニターに会場の様子が映し出されます。
配布された資料は以下のとおりです。
- 千田嘉博教授の講話資料
- 勤行資料
- 朝の法座のチラシ
- 携行本尊のチラシ
- アンケート
- うちわ
- ミネラルウォーター
勤行から
7:00からの勤行から始まります。
まず、重誓偈(じゅうせいげ)の唱和。
重誓偈は、無量寿経の一節で仏を称える歌です。浄土真宗では頻繁に用いられます。
続いて「南無阿弥陀仏」の短念仏の唱和。最後は浄土真宗の法要の最後の定番の回向(えこう)の唱和。
約10分の勤行が終わると、西大谷の担当者からの短い挨拶があり、千田嘉博教授の講話へと移ります。
千田嘉博「城から見た戦国時代の本願寺」
城郭考古学とは
昔の城郭研究は、古文書などの文献資料や、今も残る建造物を対象にした研究がメインでした。
城跡を直接調べる研究手法は近年のものです。
埋蔵文化財を掘って調べる考古学的手法は、主に文献資料が残っていない古い時代を対象にしていました。
文献資料が豊富にある戦国時代は、考古学の対象とはされていませんでした。
今は文献資料の有無にかかわらず、考古学的な手法の有効性が明らかになり、城郭研究でも当たり前のように使われています。
全国で3万箇所あるというお城の研究も進み、城郭考古学という分野が確立しています。
可能性にあふれた戦国時代
戦国時代とは、戦争だらけでいい時代ではありません。今も昔も平和が一番であることは間違いありません。
しかし一方で、戦国時代は可能性にあふれた時代でした。
例えば庶民から天下人へと成り上がった豊臣秀吉などが典型です。戦国時代でなければ考えられません。
戦国時代は、次の時代・社会をどういうものにするかという「産みの苦しみ」の時代でした。
自衛のため守りを固めるお寺
戦国時代は、自分で自分の命や財産を守らなければならない時代です。
武士に限らず、全ての人が自分のために守りを固めていました。
もちろんお寺も同じです。例えば比叡山延暦寺には、今も山中には多くの土塁が残っており、お城としても機能していたことがよくわかります。
戦国時代の絵図を見ると、清水寺へと向かう五条坂にも多重の門が築かれ、両側には弓矢を射るための多数の狭間(さま)が描かれています。
今は一部しか残っていませんが、東寺も四周を水堀で囲んで守りを固めていました。
先進的な構造の山科本願寺
中でもお城としての機能が際立っていたのが、山科本願寺です。
山科本願寺は1478年に造営が始まり、1532年に焼亡した、戦国時代の前半の寺院です。
御本寺を中心に、内寺内、外寺内と中心から階層的な構造をしており、土塁と堀で区切られていました。
出入口には、側面攻撃のための厳重な横矢が設けられており、軍事的に見ても先進的な設計でした。
山科本願寺の周囲には商人や職人が住む町もあり、ひとつの巨大な都市を形成していました。
お寺は政治軍事だけではなく、経済の拠点でもあったのです。
単純な構造の武士のお城
一方で当時の武士のお城は単純な構造でした。
階層的な山科本願寺とは異なり、中心が不明瞭な並列的な配置となっています。
織田信長の初期の居城である清須城や能登府中などが典型です。
16世紀になると山城が発達しますが、六角氏の観音寺城なども、今の山の手の住宅街のような構造です。
近年評価が高まっている三好長慶が居城にしていた芥川山城でさえ、本丸に準ずる曲輪がいくつもあり、階層的とはいえません。
大名の居所が中心となり、周囲に家臣らの曲輪が整然と配置されるという形にはなっていません。
大名といっても、実態は有力者たちの連合政権であり、1人の絶対的な権力者が支配するという形態でなかったことがお城の構造にも反映されています。
城下町もまだ存在せず、政治軍事の拠点ではあっても、経済の拠点ではありませんでした。
お寺に学んだ安土城
初めて山科本願寺並の階層的な構造を持ったお城が織田信長の安土城です。
山科本願寺と同様に、本丸を頂点とした構造と城下町が特徴です。
安土城以降は、これがお城の基本形態となりました。
今も残るお城はだいたい階層的な構造となっているため、お城はそういうものだと思いがちですが、安土城より前はそうではなかったのです。
山科本願寺などお寺に学んで取り入れられた構造なのです。
さらに進化していたはずの大坂本願寺
天文法華の乱で山科本願寺を失った本願寺は、新たに大坂本願寺を拠点とします。
今、大阪の北御堂ミュージアムには大坂本願寺の復元模型がありますが、城郭考古学者としては不満の残る復元となっています。
四角形で横矢もない単純な構造で、それぞれの町が土塁や櫓で独立した形で復元されています。
山科本願寺であれほど先進的な設計をしていたのに、大きく退化した形で復元されてしまっています。
実際の大坂本願寺は、山科本願寺よりさらに先進的な設計がなされていたはずです。
今もよく姿を残す本證寺
大坂本願寺は跡形も残っていないため、具体的にどういう設計であったかは不明です。
しかし、同時代の本願寺の有力寺院として、三河の本證寺が今も姿をよく残しています。
三河一向一揆の拠点であった本證寺は、寺内を中心に周囲の町まで深い堀と高い土塁で囲まれた階層的な構造になっていました。
多くの商人や職人が集まり、当時徳川家康の居城のあった岡崎よりも繁栄していました。
本證寺の周辺の武士の城と比べても構造も規模も段違いの先進性を備えていました。
本證寺を見ても、大坂本願寺が先進的な構造をしていたことは明らかでしょう。
いろんな形があり得た戦国時代後の社会
戦国時代にはいろんな可能性がありました。
いろんな人が様々な社会を目指しました。
例えば伊賀では、村の有力者たちが横並びで連合を作る惣国一揆という社会が目指されました。
強い人は必要なく、みんなで決めるという社会です。
その社会を反映して、伊賀では小さなお城がたくさん残っています。
お城を見れば、どういう社会であったかも見えて来るのです。
周辺に追いやられたお寺
結局、戦国時代は圧倒的な力を持った武士が全てを握るという社会になることで、終わりを迎えました。
お寺よりも遅れていた武士ですが、織田信長がお寺に学ぶことで力を付け、圧倒的な武力を背景にお寺などに打ち勝っていったのです。
前述の安土城もお寺のまねですし、楽市楽座もお寺のまねをしたものです。
日本の城下町では、中心が大名、その周辺が大名の家臣、そして周縁部がお寺という構造になっています。
これは世界的には珍しい都市構造です。ヨーロッパでは、だいたい都市の中心にお城と教会の両方があります。
戦国時代に武士がお寺に完全勝利した結果、お寺は都市の周縁部へと追いやられたのです。
今の都市構造にも決定的な影響を与え続けています。
もし戦国時代の勝者が異なれば、今の社会も全く異なるものだったでしょう。
おわりに
早朝アクセスにはやっぱりタクシー
涼しい朝から楽しめる西大谷の朝の法座ですが、アクセス困難な早朝にはじまるのが難点です。
7:00の朝の法座の開会に間に合うには、かなり早朝に自宅を出る必要があります。
しかし、深夜も早朝も24時間営業しているMKタクシーなら早朝でもアクセス可能です。
うとうとしているうちに西大谷に到着します。
MKタクシーなら迎車料金も不要です。
MKタクシーのご予約は075-778-4141まで
便利な配車アプリも是非ご利用ください! → MKスマホ配車
京都観光には観光貸切タクシーもおすすめです。
暁天講座関連記事
清水寺
智積院
西大谷
その他
まとめ