京都と大津の紫式部「源氏物語」ゆかりの地を巡る
2024年は大河ドラマ「光る君へ」が放映され、源氏物語への関心がおおいに高まっています。
源氏物語の舞台となった京都や大津には、源氏物語にも登場するゆかりの観光スポットがたくさんあります。
紫式部や源氏物語に思いをはせながら巡ってみてはどうでしょうか。
京都の源氏物語ゆかりの地
勧修寺「明石」
『源氏物語』の作者・紫式部の4代前の祖先は、藤原高藤という内大臣です。山科に鷹狩りに来ていた折、雨宿りしたのが縁でその家の娘(列子)と結ばれました。その家のあった地に後に建てられたのが勧修寺(かじゅうじ)です。
高藤と列子の娘胤子は宇多天皇に稼ぎ、醍醐天星の生母となりました。この話が明石の話のモデルになったとも言われます。
清凉寺「絵合」
「嵯峨釈迦堂」の別称で有名な清凉寺(せいりょうじ)は、光源氏のモデルの一人と言われる源融(とおる)が営んだ山荘・棲霞観(せいかかん)とその後身である棲霞寺の故地です。
源氏物語の中で光源氏が建立した「嵯峨野の御堂」のモデルとされています。棲霞観の造営年代ははっきりしませんが、嵯峨上皇崩御の後、その後院であった嵯峨院の敷地の一部を譲り受けて建てたもののようです。
融は晩年、阿弥陀仏建立を発願しますが、完成を待たず寛平7年(895年)に薨去。その翌年、遺志を継いだ息子達の手で阿弥陀三尊を本尊とする仏殿が棲霞観内に建てられ、「棲霞寺」と号しました。
大覚寺「松風」
大覚寺は、平安時代、嵯峨天皇が建立された嵯峨離宮を起源とします。嵯峨天皇が自身の子達の臣籍降下に際して「源」姓を授けたのが「源氏」の始まりです。
源氏物語の主人公「光源氏」のモデルとされる「源融」は、嵯峨天皇の第十二皇子です。
源氏物語「松風」の巻では、『造らせ給う御堂は、大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺也』とあります。この御堂は、源融が建立した「棲霞観(せいかかん)」をモデルとしたとされており、大覚寺境内にありました(現在は、清凉寺境内となる)。
源氏物語の筆者である紫式部が「式部日記」の中で、嵯峨野の月はたいへん素晴らしく、その中でも特に素晴らしいのが大覚寺の大沢池の月であると紹介しています。
醍醐寺「初音」
末摘花(すえつむはな)の兄阿闍梨が住まっていた寺。光る君が訪れた場所としては登場しませんが、この寺は訪れるべきでしょう。源氏物語執筆当時の建築物が京都市内で唯一残る寺です。
醍醐寺は豊臣秀吉ゆかりの三宝院の庭園や、「醍醐の花見」で有名ですが、元々は貞観16年(874年)に理源上人という高僧が現在の上醍醐(山門から徒歩約40分)に庵を結んだのが起源です。その後、醍醐・朱雀・村上の各天皇(源氏物語成立の約40~80年前)の庇護を受け、寺勢を拡大し、10世紀には広大な境内が形成されました。
源氏物語ゆかりの地として訪れたいのは、五重塔。源氏物語の舞台の多くは、場所は特定できても、物語の執筆当時、つまり今から1,000年前と同じ光景を残しているところというのはまれです。
醍醐寺五重塔は源氏物語が書かれる50年も前の天暦6年(951年か952年)には建立されていたという、京都府で現存する建築物で最古のものです。紫式部が見た五重塔と同じということです。塔の内部に入ることはできませんが、かなり近くで外観を見ることができます。
寺にはもちろん本堂や他の建物もありますが、源平の争乱や応仁の乱でほとんどが焼失しました。運良く五重塔だけが残って今日の平安中期の面影を伝えています。
仁和寺「若菜上」
「西山なる御寺」―現代語で言えば「西山にある寺」―に、朱雀院が出家後篭もったこと書かれていますが、この「西山」は現在の京都市北区の衣笠から右京区の嵯峨野にかけての山々を指すと考えられます。
この辺りには現在では、金閣寺や等持院、そして石庭で有名な龍安寺がありますが、これらの寺はすべて室町期に建立されたものです。その先にある仁和寺が「西山なる御寺」にあたると昔から推測されています。
源氏物語成立の120年ほど前、仁和2年(886年)に光孝天皇によりこの地に創建されることになったものの、光孝帝は亡くなってしまい、息子の宇多天皇が完成されました。宇多天皇自身も息子の醍醐天皇に譲位してからはここで出家し、法皇となりました。
そのいきさつが朱雀院のストーリーと類似していることからも仁和寺をモデルとしたという説も納得できます。また、源氏物語で数々登場する嵯峨野(野宮や大堰川など)にも近いところです。
現在の伽藍の多くは江戸時代に徳川家光が再建(一部は明治時代の火事の後再建)したものです。遠く双ヶ岡から山々に囲まれた仁和寺の姿を見ると、朱雀院が静かに隠った面影が少しは感じられます。
三室戸寺「浮舟」
浮舟の古跡とは
「宇治十帖」にちなみ古来より「宇治十帖の古跡」が設けられ、多くの人々が「源氏物語宇治十帖」を偲びながら、ゆかりの地として巡るようになりました。三室戸寺鐘楼脇に「浮舟古跡」と刻まれた古碑がありますが、これは250年前の寛保年間に「浮舟古跡社」を石碑に改めたものです。その折古跡杜のご本尊「浮舟観音」は当山に移され、今に浮舟念持仏として、伝えられています。
350年前の承応年間に鋳せられた当山鐘銘にも「浮舟」の名は刻まれています。また「山州名跡志」にも「浮舟宮」とあり、少なくとも江戸初期からは名勝として知られていたものでしょう。
宇治山の阿闍梨とは
光源氏の異母弟「八宮」はもとより「薫君」も「宇治山の阿闍梨」を仏道の師として深く帰依していました。当時、宇治には山寺として知られた寺は三室戸寺のみで、当寺の僧をモデルとして描いたのではないでしょうか。
因みにやや時代が下りますが「宇治拾遺物語」には藤原一門の三室戸僧正隆明が名声高き僧として記されており、当寺が藤原期に有名寺院であったことが知れます。
阿闍梨の住む山寺と浮舟の父八宮の山荘の位置
八宮の山荘は、宇治川の瀬音が聞こえる宇治川右岸にあり、山寺は鐘の音が微かに届<山中とありますので、現在地でいえば、八宮山荘は宇治橋下流、山寺は三室戸寺ではないでしょうか。
大津の源氏物語ゆかりの地
石山寺「眞木柱」
藤原彰子に仕えていた紫式部は、彰子から新しい物語を所望されましたがいい案が浮かばず、寛弘元年(1004年)石山寺観音堂に七日間こもって祈念しました。すると、名月が瀬田川から琵琶湖の水面に映えるある晩、月を眺めるうちにひとつのストーリーが湧いてきました。
『今宵は十五夜なりけりとおぼし出でて、殿上の御遊恋ひしく…』
こうして、その名月の場面は須磨・明石の巻に活かされることとなり『源氏物語』は書き始められ、四年後の寛弘5年(1008年)には五十四帖より成る『源氏物語』が成立しました。
延暦寺 横川中堂・恵心堂「夢浮橋」
延暦7年(788年)、最澄が比叡山に開いた天台宗総本山で、世界文化遺産です。広大な山内は、東塔、西塔、横川の3つの寺域からなります。国宝の根本中堂の本尊薬師如来像の前では「不滅の法灯」が1200年灯り続けています。
源氏物語では謎の死を遂げた夕顔の死をいたんだ光源氏が、四十九日の法要を行った場所として登場。また「横川の僧都」のモデル源信が修行し、浄土教の基礎を築いたと伝えられるのが、ここ比叡山延暦寺です。
三井寺
紫式部の父、藤思為時が出家した寺院です。
天台寺門宗の総本山で藤原家との深い交流のある寺院です。