もうひとつのMKタクシー創業物語|MKの”K”の由来となった桂タクシー
目次
MKタクシーという名称の由来は、ミナミタクシーの”M”と桂タクシー”K”です。
MKタクシーの創立記念日である10月26日は、”M”のミナミタクシーの設立日です。”K”の桂タクシーは、当初別資本で2年後に買収したため傍系扱いされています。
桂タクシーが創業の地である桂を離れるまでの、8年間のもうひとつのMKタクシー創業物語をまとめてみました
桂タクシーの創業
MKタクシーの直接の前身であるミナミタクシー株式会社の設立は1960年10月26日です。
ミナミタクシーの創業物語は、こちらをご覧ください。
タクシーの新規参入が認められる
桂タクシーが設立されたのは、ミナミタクシーに遅れること約2ヶ月の1962年1月12日です。
つまり、MKタクシーのもうひとつの創立記念日は、1月12日です。いまやそのことを知る関係者もほとんどいないでしょう。
1960年(昭和35年)当時、経済発展に伴い全国的にタクシー不足に陥っていました。
需要が供給を大幅に上回ることで、タクシードライバーによる違法な客選びである「乗車拒否」が当然のように行われていました。
その結果、タクシーの免許を持たない自家用車による違法な「白タク」が横行し、大きな社会問題となっていました。
この状況を改善するため、運輸省はタクシーの新規参入を認める方針へと転換しました。
供給過剰を背景に大きな利益を見込める事業であったタクシーには、たくさんの新規免許申請が殺到しました。
1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけて新規免許を受けて参入した事業者は、「三五事業者」「三六事業者」と称されます。
今でも業界内ではまれに用いられる呼称です。
桂タクシーもミナミタクシーも、この三五事業者、三六事業者です。
1961年1月12日、桂タクシー設立
いち早く1960年3月8日に新規免許申請したミナミタクシーは、10月1日に新規免許を受けました。
10月26日に会社を設立し、11月9日に新規免許会社の先頭を切って開業しました。
桂タクシーは、ミナミタクシーに遅れること約2ヶ月の1960年5月25日に新規免許申請を行い、12月12日に新規免許を受けました。
ミナミタクシーは新規免許からわずか1ヶ月あまりで開業にこぎつけて業界を驚かせましたが、桂タクシーは翌1961年1月12日に会社を設立し、同年中に開業をしました。
花背の林業関係者が設立した桂タクシー
花背の名士である材木商が発起人代表
桂タクシーは、ミナミタクシーとはまったく無関係の会社でした。
発起人代表を務めたのは、左京区花背の材木商である上手氏が発起人代表です。
花背とは、京都市でも鞍馬や貴船よりもさらに山を越えた北側に位置する山間部の地区です。
山林に恵まれ、古くから林業が盛んな地域でした。
発起人代表の上手氏は、愛宕郡花背村が1949年に京都市に編入されるまで村会議員をつとめ、花背農業協同組合、花瀬森林組合、上桂川漁業協同組合の各現職理事をつとめる、地元の名士でした。
タクシー参入に先立ち、1933年から1942年に戦時統制を受けるまでは、貨物自動車運送事業を経営した経験もありました。
桂タクシーの発起人7人のうち4名は、花背大布施町在住者で、残り3人には京聯タクシーで幹部経験者などの名前もありました。
なお、京聯タクシーは、戦時統合によって誕生した彌榮自動車、相互タクシーと並ぶ3社の一角です。
戦後も京都を代表する大手タクシー会社として企業グループを形成しましたが、経営不振により2015年に破産しました。
競売により営業権を取得した一番株式会社により、京聯ブランドは維持されましたが、2020年5月をもって営業を終了し、京都から京聯は完全に消滅しました。
桂タクシーの設立理由
桂タクシーの新規免許申請書に記された主たる申請理由は、以下のとおりです。
天下の観光地嵐山、桂離宮、苔寺、京都唯一の綜合グランド西京極に近接し、また亀岡街道、向日町に向ふ交通の要点を占め、加ふるに近時住宅街が飛躍的に増加発展、更に将来の工場地帯として洛西の重要一地点として一大発展が予想される。
同じ京都はいっても花背とは遠く離れた桂の地を選んだのは、今も京都を代表する観光地として人気を集める「天下の観光地嵐山」や桂離宮、苔寺に近いことがまず挙げられています。
続いての亀岡街道は、今の旧山陰街道にあたります。京都と亀岡方面を結ぶ大動脈です。
「向日町(むこうまち)に向う」は、物集女(もずめ)街道のことです。桂川西岸を南北に結ぶ重要な道路です。
最後に書かれている「住宅街が飛躍的に発展」「工場地帯として(略)一大発展」というのが、最も重要な理由でしょう。
それまで農村地帯に過ぎなかった桂近辺が、都市へと変貌しようとしている時代でした。
人口増加につれて、タクシー需要も飛躍的に増加することが見込まれていました。
桂タクシー設立の裏側にあったダム建設計画
しかし、そもそもなぜ花背の林業関係者がこぞってタクシー事業に参入しようとしたのでしょうか。
桂タクシー設立当時、日本は高度経済成長期に入っていました。まさに急速に木材需要が伸びて林業が最盛期をむかえようとする時期です。
本業に全力と投じるべき時期に、あえてタクシー事業に進出しなければならない理由も、新規免許申請書に記載されていました。
前述の申請理由に加えて、上桂川に高さ45mの防災ダムが建設され、大布施町は全戸水没するとの計画が新聞報道されており、このままでは生業を失った上に路頭に迷うことになるため、「必死の転業策として」申請したとの記載があります。
結局のところ、申請書に記載されている防災ダムが建設されることはありませんでした。
新規免許を得るための一種の方便として噂レベルの防災ダム計画を記載したのかと思って調べたところ、実際にダム計画はあったことがわかりました。
京都市会でも1961年「花脊の鎌倉ダム建設計画に反対する請願」、1969年「鎌倉ダム建設反対の請願」との記録があり、実際にあり得る話しであったことがわかりました。
参考サイト:http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000100638
結局上桂川のダムは、花背ではなく日吉に作られることになり、花背のダム計画は消滅しました。
日吉ダムは、今も大雨の度に大活躍が伝えらています。特に2013年9月16日に渡月橋近辺で浸水被害がありましたが、日吉ダムがなければどれほど大規模な災害となっていたかわからないくたいです。
そんな日吉ダムですが、もしかしたら「花背ダム」になっていたのかもしれません。
ただ上流部で集水域の狭い花背にダムを作ったところで、防災の効果は知れているでしょうから、どう考えてもダム適地は花背ではなく今の日吉ダムだることは明らかです。
花背に建設されようとしていたという鎌倉ダムの詳細は梅井ですが、おそらく鎌倉谷橋付近に建設を予定されていたはずです。
ちょうど花背と右京区京北の境界にあり、北からは鎌倉谷川が上桂川へと流入してくる地点です。
国道477号線沿いに走ると、春には八重紅枝垂桜が美しいスポットというとわかりやすいかもしれません。
ここにダムが建設されると、すぐ上流に位置する花背大布施町の中心部はたしかに水没してしまいます。
桂タクシーが営業開始
川島有栖川町にあった桂タクシー
桂タクシーの本社営業所が置かれたのは、川島有栖川町です。
住所は桂ではありませんが、阪急(当時は京阪神急行)の桂駅から400メートルほどのところです。
すぐ南側は、旧山陰街道(新山陰街道が開通していない当時は山陰街道)がとおり、西側は用水路が流れていました。
営業所の社屋は新築ながら、2年あまりのちの買収後の時点ですでに木の床が腐っていました。林業関係者が作ったにしてはずいぶんと安普請だったようです。
横を流れる川がしばしば溢れ、大雨の翌日などガレージに泥が堆積するありさまでした。
この川は、渡月橋付近の二ノ井で桂川から取水し、桂川西岸一帯を潤す用水路のひとつで、このあたりでは複雑に入り組んでいます
山陰街道から北にある車庫を見たところ。この長細い敷地の奥に営業所の建物がありました。
営業所の西側は今は住宅街が広がりますが、桂タクシーの開業当時は、まだ田園が広がっていました。
こんなロケーションではありますが、洛西エリアの大動脈沿いに作られた営業所でした
山陰街道は、今でこそ細い道路ですが、当時はまだ桂バイパス(現国道9号線)や新山陰街道が開通しておらず、京都と丹波を結ぶ幹線道路でした。
この道路が国道9号線に指定されていたというから、当時の日本の道路状況が思いやられます。
なお、右京区西京極郡町~西京区大枝沓掛町の桂バイパスが全線供用されたのは1964年10月で、買収から1年後です。買収当時は部分開通状態でした
免許申請書の見取り図を見ると、北東の整然とした街並みが広がります。
これは戦前から事業が行われた桂駅西口区画整理事業によるもので、1948年には整然とした町並が完成しました。
他には、東西の山陰街道沿いには建物が並ぶものの、周囲は田畑が広がっていたことが見て取れます。
当初は南の山陰街道側の出入り口のみでしたが、のちに水路上に通路を架橋し、西側からも出入りできるようになりました。
なお、桂タクシー設立時の本社所在地は、”右京区”川島有栖川町でした。
葛野郡(かどのぐん)川島村は1931年に京都市に編入されてから、1976年に分区により西京区が設置されるまでは、右京区でした。
現在の桂タクシー跡地の状況
現在の桂タクシー本社跡は、ガレージとして利用されています。
歩道の下には、暗渠化された水路が通っています。
周囲には戸建て住宅がずらりと並び、桂タクシーがあったころとは様変わりしています。
かつて、ここにMKタクシーの前身があったことを知る人ももういないかもしれません。
桂タクシーの苦闘
無事に開業にした桂タクシーですが、その経営は順調とは行きませんでした。
当時はタクシー業界のみならず、あらゆる業界で労使紛争が頻発していました。
ミナミタクシーでも数々の紛争が起こっており、桂タクシーも例外ではなかったでしょう。
1962年の12月23日には、代表取締役が上手氏から、取締役であった柿谷氏へと交代しました。
花背運輸株式会社の社長でもあった柿谷氏も労働攻勢の強さや、やんちゃなドライバーの教育にも手を焼き、経営も順調ではなかったようです。
林業から畑違いのタクシーへの進出は、やはり無理があったのでしょう。
開業からわずか2年で会社を手放すことになります。
あるいは花背のダム問題が落ち着きそうになったことも背景にあったのかもしれません。
なお、設立時の取締役には花背大布施町在住者が4名いましたが、うち3名については、少なくとも2000年の段階では電話帳上は健在であったことが確認できます。
MK創業者・青木定雄が桂タクシーを買収
桂タクシーの順調な拡大
ミナミタクシー創業者である青木定雄が桂を買収したのは1963年7月3日でした。
買収によって、ミナミタクシー31台と桂タクシー15台のグループ計46台となりました。
桂タクシー買収当初は、運転者の約半数が無届欠勤を行うなど、会社を手放さざるをえなくなった原因の一端も見て取れます。
この経営陣交代後、桂タクシーは順調に経営を拡大し、1年後にはドライバーも55人まで増えています。
買収後、桂近辺の人口増加による需要増加などを背景に、増車を重ねてわずか6年で3倍の規模にまで増加しました
1963年11月16日 15台→22台 7台増車
1964年9月8日 22台→30台 8台増車
1966年12月3日 30台→33台 3台増車
1968年3月16日 33台→39台 6台増車
1969年9月12日 39台→43台 4台増車
銀閣寺に第二車庫を新設
本社併設の車庫では22台程度しか収容できないため、22台→30台に増車するのにあわせて、1964年9月8日に第二車庫の認可を受けました。
この第二車庫の場所というのが、今のMK石油銀閣寺SSです。今は営業所から2kmの範囲でしか車庫は認められませんが、当時はこんな遠隔地でも認められたようです。
運行管理者も車庫に配置し、納金機や仮眠室も設置していたので、事実上別の営業所でした。
第二車庫には、1965年12月に永井石油(現MK石油)の銀閣寺SSがオープンしました。
伏見の新本社に移転
買収から6年後の1969年9月21日から、新しい賃金体系である「MKシステム」が導入されました。
MKシステムが、ミナミのMと桂のKを取った「MK」という名称の魁です。
新賃金システム導入以降、MKタクシーはサービス向上に力を入れていくことになります。
1969年12月ごろ、桂タクシーは桂の川島有栖川町から、竹田出橋の名神高速道路高架下に移転しました。川島有栖川町の営業所敷地は売却しました。
本社営業所は順次拡大し、営業所社屋はのちに北側へと移転し、当時の営業所建物はすでに解体されています。
建物の跡地は、今の伏見営業所の車庫として使用されています。
エムケイ株式会社の登記上の本社住所(京都市竹田中川原町53番地の1)は、今もかつて本社があった名神高速道路の高架下です。
今の伏見営業所の社屋の住所ではありません。社内でもそれほど知られていない豆知識です。
桂タクシーとミナミタクシーの一体経営が実現
伏見への移転により創業の地である桂を離れた桂タクシーは、5ヶ月後に上鳥羽から移転してきたミナミタクシーと同居しました。
同じ敷地内に本社と営業所を設け、事実上一体となって経営されることになります。
この先はミナミタクシー史と重複することになるため、これをもって桂タクシー創業時代を終わります。
なお、正式に両社が合併し、エムケイ株式会社となったのは、1977年3月のことです。