書評:犬塚芳美「破損した脳、感じる心」|MK新聞連載記事

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書評:犬塚芳美「破損した脳、感じる心」|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
犬塚芳美著「破損した脳、感じる心―高次脳機能障害のリハビリ家族学」の書評記事です。
MK新聞2012年11月1日号の掲載記事です。

夫の壊れた脳は私が治す

発端は2年余り前の2010年6月1日深夜、ワンちゃん(夫)が石に躓いて真っ直ぐ後ろに倒れて頭部を強打、救急病院に運ばれた。
診断は急性硬膜外出血、左脳の半分が血腫に圧迫されていた。
夫を殺し、自分も死のうと思い詰めた妻は見舞いの親戚にもそれを口走り、高齢の叔母さんは「子どもがいないとそんなふうに思うんやろなあ」と呟く。
そしてそこから脳の回復・再生の苦しい歩みが始まる。

犬塚芳美『破損した脳、感じる心―高次脳機能障害のリハビリ家族学』

犬塚芳美『破損した脳、感じる心―高次脳機能障害のリハビリ家族学』

一般病棟に移り、リハビリが始まる。
意識朦朧の夫に「毎晩飲んだくれて、あれほど注意したのに」と不安と苛立ちをぶつけはするが、ここを乗り切るのは夫ではない、自分の力が試されているのだと覚悟する。
著者はリハビリを病院任せにせず、自分がいいと思ったことも試していく。
「夫が次々と行動の自由を奪われ規則が増えていく」のに我慢できず、時に医師、看護師とぶつかることもあるが、壊れた左脳だけでなく、右脳も刺激したいと、一緒に俳句作りを始める。
事故から1ヵ月後、夫は「くちなしの香の中進む車椅子」などを生み出すが、医師はそれを信じなかった。
医師には「右脳支配の分野に損傷はなく、感性の分野は驚くほど鋭敏」と伝えるが、左脳に係わるリハビリでは簡単なこともできず、思わず夫に荒げた声をぶつける。

本人に自覚があれば苦しみを分担できるが、本人はあっけらかんとしている。
すべての重圧は、介護するつれあいの肩にかかってくる」(P139)。
この本はワンちゃん自身が回復後に記した文も二つ載せていて、「自分の置かれた事態がわかっていなかった。のほほんと生きていたのだから、自分は治ると無邪気に思っていた」とある。
感性について言えば、例えば社会学者・故鶴見和子の『脳卒中で倒れてから』(婦人生活社・平成10年)には「健康なときには見えなかったものが見えるようになってきた」(P28)とあり、倒れた後、迸るように和歌が生まれたことはよく知られている。

さて、著者は1952年、愛媛県生まれ、京都工芸繊維大学卒、京都市内でブティック経営のデザイナー、またいろんなメディアに映画評を執筆、関西の映画館情報満載の『CINEMA、CINEMA、CINEMA』(創風社出版・平成21年)の編著者。
夫は事故当時50代半ば、文中に散見する話を拾うと、映画・映像の美術監督、ドラマのセットを作るのが主な仕事で脚本から映像をつくり出す。
これは健康ならば80代でも出来る仕事で、妻の願いは夫のその現場への復帰である。

彼の育った家庭は家を顧みない夫に代わって家計を支えた母が難病になり、入院すると夫は自宅に愛人を連れて来、息子のワンちゃんは居場所がなくなり、母が亡くなると父は家を売り飛ばした。
「誰かを頼りたい盛りに一人で放り出され」、「子供が道端に寝ころんで駄々をこねるように、無茶を繰り返していたような気がする」と著者は言う。
一方、男子に混じって勉強をし、相手に左右されない人生を選んだはずの著者が彼と一緒になったいきさつはわからない。
ワンちゃんは撮影場所を歩き回るため一日で靴は真っ白になり、口やかましい妻だが、毎晩靴磨きをした。
夫は妻に甘えっきり、凭れっぱなしの生活で、妻も結局はどこかでそれを許していたのでは。というふうに考えてくると、この偶発事は2人の人生が呼び込んだものではないかとも思える。
著者自身、「起こるべくして、起こったとしか思えない」(P64)と書いている。

事故後、ありったけ以上のものを夫に注ぎ込んだ妻だが、それは決して望んだものではない。
けれども、そうするしかなかった。いわば、呼び込んだものでありつつ、決断・覚悟を迫るものでもあった。
このように、他人事として書いている私自身75歳の今日まで大事故に遭うことなく、介護の経験もない。
ただ、物書きとして何冊かの本のため取材をし、資料を集め、書き下ろしてきた経験を踏まえて言えるのは、決して自分が望んだのではない負の体験こそが最も貴重なものらしいということだ(フクシマやスターリン治下収容所などの体験者にこれは当てはまらないだろうが)。
ワンちゃん・芳美さんのこれからはまた別の物語になるのだろうが、それにしても改めて実感する、オンナハツヨイ!

付記

突然、重度の障害者となった体験者の本としては文中で触れた鶴見以外に、免疫学者の故多田富雄『寡黙なる巨人』(集英社・平成19年)、介護者としては映画監督大島渚の妻小山明子『パパはマイナス五十点』(同・平成17年)、『しあわせ日和 大島渚と歩んだ五十年』(清流出版・平成22年)などがある。
たまたま『破損した脳~』を読んでいた時に訪ねてきた娘が、この本を手に取って読み耽り、凄く面白い本があると教えてくれたのが、脳梗塞で瞬きしか出来なくなったフランスの編集者ジャン=ドミニック・ボービーが瞬きで文字を伝えて書いた『潜水服は蝶の夢を見る』(河野万里子訳・講談社・平成10年)は、外見は植物人間がどんな思いを抱えていたかを伝える、その希有な例である。

◎亜紀書房
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℡03・5280・0261
http://www.akishobo.com

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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