縄文百姓 故・大森昌也さんのお別れ会|MK新聞連載記事

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縄文百姓 故・大森昌也さんのお別れ会|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
「縄文百姓 故・大森昌也さんのお別れ会」の記事です。
MK新聞2016年5月1日号の掲載記事です。

縄文百姓 故・大森昌也さんのお別れ会

故・大森昌也さん

故・大森昌也さん

先月の2016年3月24日(木)、大森さんがガンで亡くなり、そのお別れ会(偲(しの)ぶ会)が、4月9日(土)午後、故人が6人の家族とともに創り上げたあーす農場(兵庫県朝来市和田山町朝日767)で行われました。享年74歳。
大勢の参会者、それに長男、次男の家族、長女と2人の末娘たちが加わり、にぎやかなお別れ会となりました。

司会が長男ケンタくんの同級生、和田山で「ありがとんぼ農園」を営む岡山康平さん。
会はケンタくんの、参会者へのお礼の言葉で始まり、まず遠く沖縄からやってこられた僧侶の稲葉耶季(やすえ)さんと山根成人さんとが般若心経と観音経を上げました。
その後、稲葉さんから始まって故人と親しかった人たちを代表する8人と妹の和子さん、長女のちえさんが話されました。

稲葉さんは故人と同年の1943年生まれ、元裁判官で、退官後に出家(臨済宗)。
「2年ほど前、初めてここに来て、一晩話をしました。『私は縄文百姓、百のことを全部自分でする。これからの人類はそうでなければならない』に感動しました。その後送られてくるニュースレターや著作は常に傍らにありました。すばらしい生き方をしている方、心の友としてともに生きてまいったと思っております。お母さまについて、どんなにご自分を大切にしてくださったか、特に教育の面で、とても感謝していると話されました。そして、私が外国に旅行していたとき、スーッと大森さんが出てこられたので、ご挨拶をすると、ふかーい美しい青色の世界に引き込まれていくように見えました。もしかしたらあちらの世界に行かれたのか、次の日、ウクライナに知らせが届きました」。

大森さんの自宅、あーす農場

大森さんの自宅、あーす農場

山根成人さんも故人と同年、姫路の在来種保存の会。
「ここへ学生と一緒に来ると、必ず朝まで飲んでました。死んだときは、お経を上げるよう頼まれていました」。

寺田正文さん、隣町出石(いずし)町の農家。
「あの日は透き通った冷たい空気の空の高い朝でした。空にはペアの白鷺とペアのコウノトリがくるくる舞いながら、北の方へ飛んでゆきました。神様の使いでしたか。1年前、ちえちゃんの結婚祝いの日、一緒に飲んだのが最後。子どもや孫たちに囲まれた暖かな空気の中、目を細め、ほころぶ笑顔。てらちゃん、お父さんに酒たくさん飲まさないでよ、とあいちゃんの叫び声。大森さんの『まったくなあホッホッホ』と上機嫌なときの口癖が今でも聞こえます」。

野崎正輝さん。
「1970年以前、大阪・天神橋の「北反戦」の事務所に獄中から出てきた大森さんがやってきたのが、初めての出会いでした。彼は当時国鉄労組の書記で、中央電話局の大きな闘争に参加しました。その頃、妹の和子さんの弁護士が差別問題を起こし、その糾弾をする中で、それまでの労働運動に加えて、被差別部落解放運動も始めましたが、突如山に上がることになった。彼はいつも自然に対する畏敬の念を持っていました。酒が好きで、へヴィスモーカーでもあり、ぱかぱか煙草を吸ってました」。

丸尾良明さん。八鹿(ようか)高校差別教育糾弾闘争の活動家。
あーす農場がある朝日集落での差別問題にも取り組んだ人で、大森さんへのメッセージを読み上げました。

加藤勝美(この記事の執筆者、同じ大阪市大卒(「自給自足の山里から」の企画者)。
「1998年に京都のMKタクシーのPR紙『MK新聞』に彼の自給自足の生活を紹介する記事を3回連載し、その年の年末から同紙に彼が直接山の暮らしぶりを伝える記事の連載をはじめ、今年4月まで20年ほど続きました。生前の彼との約束で、彼の3冊目の本を作るつもりです」。

長女・ちえさんと末娘・れいさん

長女・ちえさんと末娘・れいさん

大森ちえさん。
「移住してから30年、本当にたくさんの人に愛されてきたからこそ今まで続けてこられたと思います。私たちの農場での日々は言葉では伝えられない大変な生活でした。分校に行っても、家畜の世話や農作業で服が汚れている、長靴の子はほかにいませんでした。正直、鬼なのか仏なのか分からない父でしたが、ここは開かれた場所だったので、海外からもたくさんの人が来ました。去る人も多かったのですが、長男、次男が相方と出会い子どもができ、私も相方と出会うことができました。それは本当に父に感謝しています。これから父と対話をしていきたいと思っています」。
この後、東ティモールから届いたメッセージを披露。
「私たちは彼が神の国に旅立ったことに深い喪失感を感じています。彼の献身的な支援に深く感謝しています。あなたのよき友人より。タウル・マタン・ルアク大統領」。
なお、大森さんが長男のケンタくんと2006年2月、同国を訪ねたとき、ルアクさんは、インドネシアと戦う民族解放自衛軍の総司令官だった。

大森宅近くに建てられた図書館(書庫)に飾られた母・田鶴子さんの短冊

大森宅近くに建てられた図書館(書庫)に飾られた母・田鶴子さんの短冊

野口和子さん(大森さんの妹)。
「母にとって兄は王子様でした。家は貧しいおんぼろ屋の雑貨商みたいな。大した収入はありませんが、兄が座ればスッと食事が出てくる。何をするにも母がお膳立てをして、兄は箸、茶碗がどこにあるかも知らない、お坊ちゃま。そして、中学、高校に通っても家から一歩も出ない。ノート、鉛筆など学用品などを買ってくるのは私の仕事。田舎だからとぼとぼ歩いて、20、30分はかかる。高校も、母が倉庫からスッと自転車を出してきて、乗っていったらいいだけの至れり尽くせり。姪たちも『おばあちゃんの育て方が間違ってたんやなあ』。子どもたちの母親がいなくなって、大変な時期は私はあまり知らない。時々、兄からお金の無心があって、言われるたんびに送る。そして「何を買うてくれ」「私は通販か?」。それも含めて兄の要求に一度も「いや」と言ったことがない。いやでもなく、それが普通でした。甥も姪も「あの親父にどんなひどい目にあってきたか」と耳にたこができるほど言うんです。聞けば聞くほど大変やったみたいです。でも、すばらしい子どもたちに育ったと思うんです。兄は最期に言いました。『お袋のところに行く』。何十年も断絶してたくせに、何がお袋やと思いましたが、いい人生だったんじゃないですか。すばらしい子どもたちに恵まれ、すばらしい友人たちに恵まれて、いい人生だったと思います」。

次男のげんくん。
「父は理想が高く、エネルギーにあふれて、子どもとしてはよく怒鳴られ、苦労をしました。怒る姿が強烈でした。その頃は、父をいい風には思わなかったのですが、失ってみると想像以上の喪失感があり、父の存在と、残してくれた大きさを感じます。これからは父とは違う、自分らしい百姓を、そして家族と生きていきます。このあーす農場をよりよい場所にしていきたいと思います。この4月から、村の区長を務めることになったので、この地域を大地とともに培っていきたいと思います。この後は、父の好きだったビールと酒を楽しんでください。ありがとうございました」。

付記
以上の話された内容はそのごく一部です。
お別れ会の後、すぐに書き上げる必要があり、不正確な紹介になっているかもしれません。その点はお許しください。
また、今後、大阪市大の卒業生や友人たちによる追悼会の開催、追悼集の編集も考えられますが、確定次第、本紙上でもお知らせできると思います。
次号からは、関係者による追悼文を掲載していく予定です。
(文責・加藤勝美。2016年4月13日記)

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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