喜寿のタンザニア紀行 帰ってからのアフリカ①|MK新聞連載記事

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喜寿のタンザニア紀行 帰ってからのアフリカ①|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
喜寿のタンザニア紀行 帰ってからのアフリカ①「西欧と日本のアフリカ観」の記事です。
MK新聞2015年5月1日号の掲載記事です。

西欧と日本のアフリカ観

バザールで(2014年8月25日)

バザールで(2014年8月25日)

都市雑業の人々

昨年2014年8月20日に関空発、30日に帰国後、タンザニアやアフリカに関する本を読み漁ると、現地では見えなかったことが少しずつ見えてきた。
例えば、ダルエスサラームの大きなスーパーマーケットで少し買い物をしたが、東京農大編『タンザニア100の素顔』(2011)43ページには「アフリカ大陸最大規模を誇るスーパーマーケット、SHOPRITE」という紹介があり、同じものかもしれない。
そこは日本の洒落たショッピングモールと変わらず、欧米のブランド店が並んでいた。
またNHKスペシャル取材班『アフリカ 資本主義最後のフロンティア』(新潮社、2011)186ページによると、港町ダルエスサラームでは、毎朝、鉱物資源をいっぱいに積んだトラックが長蛇の列を作り、大企業がザンビアやマラウイ、コンゴなど、内陸国で海外の大資本が採掘した資源をアフリカ大陸の外に持ち出す。
「砂浜で遊ぶ裸の子どもたちの向こうに、資源をたくさん積んで去ってゆく大型船の船影の列」があり、中東、インド、日本、中国などのコンテナ船が沖で何隻も待機しているという。これは旅で見た魚市場の調理をする煮えたぎる大鍋や、素手で小魚の頭や内臓を取り出す人々からは全く想像できないものだ。

あるいは、ダルエスサラームに到着した日に車の中から見た、車の間を縫う物売りや、長距離バスが停まるたびに押し寄せて窓をたたく物売りや、路上でわずかな野菜や果物を売る女性の姿について、文化人類学の松田素二(もとじ)『抵抗する都市』(岩波書店、1999)50ページはこう述べる。
「幼子を抱えた女性が市内のマーケットでズタ袋いっぱいのトマトと玉ネギを買ってきてスラムの路上でバラ売りをしたりする(略)こうした営為は、フォーマルな職業ではないインフォーマルな“都市雑業”と分類されてきた。(略)彼らには生活保護も年金もないし治安の保障もない。公的住宅扶助も失業手当もない」
これは国家によって“補足”されない収入でもある。

抵抗する都市

抵抗する都市

抵抗、反逆としてのダンス

またコーヒー農園労働について松田は『呪医の末裔 東アフリカ・オデニョ一族の二十世紀』(講談社、2003年)162ページでこう述べる。
「エブガ少年には一日16kg、大人24kgがノルマとして課され、それが達成できなければその日の査定はゼロとされ、日当は支払われなかった」。
慣れていない時期に少年が10kgあまりを持ってゆくと、それはゼロと査定された。ただ働きである。
松田が当事者への取材をもとに書いているこの記事は1950年代のケニアの場合だが、南隣のタンザニアでも似たような事情ではなかったろうか。
ルカニ村に泊まった私たち一行5人の“楽しい”コーヒー豆摘み体験からは、60年あまり前の歴史は見えようがない。

私たちが野原で見聞きした「チビテの歌と踊り」も楽しい記憶として残っているが、植民地時代には、人々の踊りは怒りや反抗の証でもあった。
フランスの歴史学者、ガブリエル・アンチオープ(1947年生まれ)は『ニグロ、ダンス、抵抗』(石塚道子訳、人文書院、2001年)で多くの文献に基づいて、黒人の踊りを考察している。
「奴隷たちはダンスによって日常から断絶し、隷属的状態を忘却することができた」(230ページ)。
蜂起への恐怖から白人たちは奴隷が祭り、遊び、会合に集まることを恐れた。
フランス領植民地では1685年に制定した「黒人法(コードノワール)」第16条で、「昼夜にかかわらず、婚礼やその他の名目で、主人の屋敷あるいは他の場所、大道や人里はなれた場所に蝟集(いしゅう)すれば、鞭打ち、百合の花(の烙印)に劣らぬ体罰」を定めている。
アンチオープはまた236ページ以下で、「この集合体が“われわれ”として意識し、他の人々と異なるのだと自覚した瞬間から、もはや群集でも大衆でもなく、(略)共同の行動へ向かって進んでいく」と言う。
ダンスが被隷属者共同体の中心的位置を占め、ダンスの祝祭的特性が重要な役割を果たし、奴隷たちは終日の労苦の後でも長時間踊り続けた。
「ダンスは、奴隷主が強要する文化に対置しうるアフリカ的なひとつの文化の価値づけの試みであった」。

呪医の末裔

呪医の末裔

リヴィングストン、コナン・ドイル、福沢諭吉

次に、ヨーロッパ人のアフリカ観にも触れておかねばならない。
私たちはタンザニアのバガモヨ市にあるカトリック教会も訪れたが、ここは探検家として有名なリヴィングストンの遺体が1874年に英国本土に送られる前に、一時安置されていたところだ。
彼は宣教師でもあったが、他の宣教師への訓令の中で次のように述べた。
「われわれは、彼らのもとへ優等人種の一員として来たのであり、われわれは、神聖かつ慈悲深い宗教の信者であり、混乱し破滅に瀕した人種のための平和の告知者となることができる」(ジェラール・ルクレール『人類学と植民地主義』宮地一雄・宮地美江子訳、平凡社1976年、23ページ)。

日本のある英文学者は、シャーロックホームズ・シリーズの作者コナン・ドイルの諸作品がどれほど黒人への偏見に満たされているかを詳細に分析して、その「非ヨーロッパ世界像の特徴」についてこう指摘する。
「無限の富を秘めながら、他方では猛毒や、それを扱う蛮人や、理性を欠いた劇場を産出する危険な異界である」(正木恒夫『植民地幻想 イギリス文学と非ヨーロッパ』1995年、みすず書房、230ページ)。

では私たち日本人はどんなアフリカ観を持ち続けてきたのだろうか。
この原稿を書き始めたころ、藤田みどり『アフリカ「発見」 日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店、2005年)というどんぴしゃりの本を見つけた。
信長、秀吉のころ、南蛮人が連れてきた黒人に日本人が強い好奇心を持ったことなどから始まっているが、私が京都国立博物館でこの4月に展覧会で見た狩野内膳筆の「南蛮屏風」には、黒人と思われる人物が19人描かれていた。

同書は福沢諭吉がその『世界国尽(くにづくし)』(1869・明治2年)で欧米の本をもとにアフリカ人をどう紹介していたかに触れている。
「土地は広く人少なく、少なき人も愚かにて文字をしらず技芸なく、来たと東の数箇(すか)国(こく)をのそきし外は一様に無智混沌の一世界」(113ページ)。
この本は当時ベストセラーとなり、学制交付の翌明治6年には教科書にもなった。
その時から150年弱経った現在、日本人のアフリカ観はそのレベルからどれほど隔たっているだろう。
大衆小説や少年読物から映画まで、丹念な資料探索から教えられることは多い。そして、気づかされたのだが、1937年生まれの私は小学校低学年時代にアフリカに会っていた!
ワイズミュラー主演のターザン映画である。
ただし、そこに黒人がどんなふうに登場したかは全く記憶にない。

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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