2023年は生誕850年、親鸞聖人の京都ゆかりの地をご紹介!
目次
浄土真宗を開き、『教行信証』(きょうぎょうしんしょ)や『和讃』(わさん)などの著作を遺した親鸞聖人(1173~1262)は、今なお多くの人を魅了して止みません。
2023年は親鸞聖人御誕生850年の節目を迎え、浄土真宗各派の寺院では法要が執り行われます。
京都で生まれ、越後へ流罪、東国布教を経て京都へ戻り、その生涯を京都で終えた親鸞聖人の京都ゆかりの地をご紹介します。
誕生~幼少期
親鸞聖人は、平安時代の末期、承安3年(1173年)に京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範(ひのありのり)の長男として誕生しました。
貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こった時代に親鸞聖人は生まれました。
親鸞聖人のご誕生前に起こった保元元年(1156年)の「保元の乱」、平治元年(1160年)の「平治の乱」によって、平清盛を棟梁とする平家が政治の実権を握りました。戦乱の末に敗北した源氏は遺恨を深め、世はさらなる戦乱の時代へと進みます。
さらには、台風や大地震、洪水などの自然災害や疫病がつぎつぎと起こりました。
親鸞聖人5歳のときには「治承の大火」が起こり、都の三分の一が焼失。治承5年(1181年)には養和の飢饉が発生し、4万人を超える死者が出ました。
親鸞聖人の幼少期は、このような混乱と荒廃に満ちた時代でした。
法界寺〈伏見区〉
法界寺は親鸞聖人誕生の地と伝えられている寺院です。
藤原氏の北家にあたる日野家の菩提寺で、永承6年(1051年)日野資業(ひのすけなり)が薬師如来像を造って、薬師堂を建立して寺としました。
日野家に生まれた親鸞聖人は、法界寺付近で誕生したとされます。
法界寺境内の阿弥陀堂は国宝に指定されており、平安時代後期の浄土思想の流行や、末法思想の影響で各地に建てられた阿弥陀堂建築の一つです。
堂内に安置されている阿弥陀如来坐像を取り巻く長押上の障壁に天人壁画が描かれています。
こちらは土壁に描かれた壁画として日本における稀少な例の1つであり、完全なものとして現存する天人壁画としては日本最古です。
拝観情報
拝観時間 | 9:00~17:00 (10月~3月は9:00~16:00) |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 075-571-0024 |
住所 | 京都市伏見区日野西大道町19 |
アクセス | 京阪バス「石田」下車、徒歩約13分 京阪バス「日野薬師」下車すぐ 地下鉄東西線「石田」駅下車、徒歩約20分 |
日野誕生院〈伏見区〉
日野誕生院は、西本願寺の飛地境内にある建物です。
浄土真宗の寺院としては珍しく三方に回廊を巡らせています。
これは親鸞聖人が誕生した当時をしのぶことができるように、あえて平安朝の様式で造られていまるためです。
日野誕生院には親鸞聖人の産湯を採った「産湯の井戸」へその緒が埋められたといわれる「ゑな塚(えなづか)」が残されています。
拝観情報
拝観時間 | 8:30~16:30 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 075-575-2258 |
住所 | 京都市伏見区日野西大道町19 |
アクセス | 京阪バス「石田」下車、徒歩約13分 京阪バス「日野誕生院前」下車すぐ 地下鉄東西線「石田」駅下車、徒歩約20分 |
得度(出家)・比叡山での修行
親鸞聖人は治承5年(1181年)、9歳の時に伯父の日野範綱(ひののりつな)に付き添われ、青蓮院にて天台宗の慈円(じえん)のもとで出家得度されます。
得度の際「今日はもう遅いから、明日式を行いましょう」と告げた慈円に、親鸞聖人は自分の命を桜の花に例え、「明日ありと思う心のあだ桜夜半よわに嵐の吹かぬものかは」と詠んだと伝えられています。
親鸞聖人の歌に感動した慈円は、その日のうちに得度の儀式を執り行ったといいます。
得度して「範宴」(はんえん)という僧名を与えられた親鸞聖人は、比叡山に入山。
以後20年間を親鸞聖人は天台宗の本山・比叡山延暦寺で過ごします。
比叡山に上った親鸞聖人は、慈円が監督を務める横川を中心に天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしました。
親鸞聖人が務めた堂僧とは、常行堂で「不断念仏」(ふだんねんぶつ)をつとめる僧侶です。
不断念仏というのは、ひたすら阿弥陀如来のみ名を称え、阿弥陀如来を念じ続けることで、阿弥陀如来の姿を見る「見仏」(けんぶつ)の境地に達することを目的とする修行です。
親鸞聖人は修行に打ち込みましたが、修行に励めば励むほど見えてくるのは、末法の世では自力で万民を救うことができないということでした。
建仁元年(1201年)、29歳の親鸞聖人は20年に及ぶ比叡山での修行を断念し、民衆とともに救われる道を求めて、下山しました。
青蓮院〈東山区〉
日本天台宗の祖最澄が比叡山延暦寺を開くにあたって、比叡山の山頂に僧侶の住坊(じゅうぼう)を幾つも作りました。
その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。
親鸞聖人は、青蓮院で得度しました。
青蓮院は比叡山延暦寺に所属し、三十三間堂、大原の三千院とともに天台宗の三門跡の一つとして知られています。
東海道の入口、粟田口にあるので青蓮院は粟田御所と呼ばれており、「青蓮院旧仮御所」として国の史跡にも指定されています。
青蓮院境内には「御得度の間」や、剃髪の毛を用いた像が安置される「植髪堂」、残りの髪を納めた遺髪塔などあります。
報恩講で拝読される「御伝鈔」(ごでんしょう)、「御絵伝」(ごえでん)は、ここ青蓮院で聖人が出家する場面から始まります。
拝観情報
拝観時間 | 9:00~17:00(16:30受付終了) ※春・秋に夜間ライトアップを開催 |
拝観料 | 大人500円 中高生400円 小学生200円 |
TEL | 075-561-2345 |
住所 | 京都市東山区粟田口三条坊町69−1 |
アクセス | 京都市バス「神宮道」下車 徒歩3分 地下鉄東西線「東山駅」駅下車、徒歩約5分 |
比叡山延暦寺
親鸞聖人が修行を行った延暦寺は奈良時代末期、伝教大師 最澄(767年~822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院です。
「延暦寺」とは単独の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔、西塔、横川などの区域に所在する150ほどの総称です。
最盛期は3千を越える寺社で構成されていたといわれています。
延暦寺の敷地はなんと甲子園球場500個分に相当します。
親鸞聖人が主に勉学されたのが横川といわれています。慈円が検校(けんぎょう)であった横川の楞厳三昧院(りようごんさんまいいん)の常行堂において、不断念仏を修する堂僧として勉学に励まれていました。
28歳になられた親鸞聖人は無動寺谷大乗院に篭るようになります。
大乗院で如意輪観音の夢告を預かった親鸞聖人は比叡山を下りる決断をします。
拝観情報
拝観時間 | 東塔地区 9:00~16:00(通年)西塔・横川地区 9:00~16:00(12月~2月は9:30開門) |
拝観料 | 大人1000円 中高生600円 小学生300円 |
TEL | 077-578-0001(代) |
住所 | 滋賀県大津市坂本本町4220 |
アクセス | 叡山ケーブル・ロープウェイ「比叡山山頂」駅下車、徒歩6分 |
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百日参籠
比叡山を下りた親鸞聖人は、聖徳太子の創建と伝えられる京都洛中の六角堂(頂法寺)を訪れ、100日間籠もります。
参籠を続けて95日目の夜明け、親鸞聖人の夢の中に、聖徳太子が観音菩薩の姿になって現れ、お告げを授けられます。
それは、厳しい修行をおこなわなくても、煩悩をもった人間がありのままの姿で救われる、阿弥陀仏の絶対の救済があることを示した夢でした。
この夢告を受けた親鸞聖人は夜明けともに、当時吉水に庵を結び「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)の教えを説いていた法然上人のもとを訪ねます。
雲母坂(きららざか)
雲母坂は、京都から比叡山に登る主要道路で、歴代天台座主が就任するごとに勅使が雲母坂から比叡山上へと登っていました。比叡山千日回峰行(ひえいざんせんにちかいほうぎょう)の阿闍梨(あじゃり)が通る行者道であり、比叡山と京を結ぶ、歴史ある坂道です。
親鸞聖人も雲母坂から比叡山を下りたとされます。
京都側の入り口には親鸞聖人の旧跡を示す石碑があります
親鸞聖人も歩いた雲母坂は人気のハイキングコースで、シーズンともなればたくさんの方がハイキングに訪れます。
しかし、コースの途中には抉れた道や、倒木がありますのでしっかりとした装備で安全にハイキングを楽しんでください。
六角堂(頂法寺)〈中京区〉
京都市の中心部、烏丸通と六角通りが交わる北東にあるのが六角堂です。
正式名称は「紫雲山頂法寺」ですが、御堂が六角形であるためこのように呼ばれています。
聖徳太子が創建した寺院として平安時代末期より観音信仰の霊場として信仰を集めました。
元は天台宗の寺院でしたが、現在は単立寺院となっています。
比叡山を下りられた親鸞聖人は建仁元年(1201年)に六角堂に百日間参籠します。
親鸞聖人が六角堂を選んだ理由としては聖徳太子を深く尊敬し都における太子ゆかりの寺院だったからといわれています。
95日目の明け方に夢に現れた聖徳太子の言葉に従い、親鸞聖人は法然上人のもとを訪ねることになります。
拝観情報
拝観時間 | 6:00~17:00 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 075-221-2686(池坊) |
住所 | 京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248 |
アクセス | 京都市営地下鉄 烏丸線・東西線「烏丸御池駅」5番出口から徒歩3分 |
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法然上人との出会い
法然上人の専修念仏の教えとは、極楽浄土は自らの力で行うものではなく、阿弥陀仏の力によってかなえられるものであるという「他力」の教え、つまり阿弥陀仏がすべての人間を往生させてくださると説く教えでした。
誰でも、一心に念仏を称えれば救われるとする専修念仏の教えは、厳しい戒律を守り修行の末に悟りを開くことを理想とする当時の仏教界においては異端視され、批判の対象にもなっていました。
しかし、その教えに聖徳太子の夢告と通じるものを感じた親鸞聖人は、100日間、法然のもとへ通い続けました。そしてこの教えを確信した親鸞聖人は、法然の門下に入ることを決意します。
これを機に親鸞聖人は法然より「綽空」(しゃっくう)の名を与えられました。
法然のもとで研鑽を積んだ親鸞聖人は、元久2年(1205年)33歳のときに、法然の著書『選択本願念仏集』の書写と許さ法然の肖像画の制作を許されます。
特に『選択本願念仏集』は門弟の中でもごくわずかの人物にしか許可されず親鸞聖人は法然から高く評価されていました。
安養寺(吉水草庵跡)〈東山区〉
安養寺は延暦年間(782-806)に最澄によって創建されました。現在は時宗の寺院として円山公園の敷地内に位置してします。
法然上人は西山広谷(長岡京市)に住みましたが、やがて東山吉水に庵を結びました。それが安養寺です。
親鸞聖人はこの地で選択本願念仏集の書写を許可されるなど、法然上人から将来を嘱望される人物として認められていきます。
拝観情報
拝観時間 | 8:00~17:00 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 075-561-5845 |
住所 | 京都府京都市東山区八坂鳥居前東入る円山町 |
アクセス | 京都市営バス 京都駅より206号系統にて「祇園」バス停下車 八坂神社、円山公園方面へ徒歩約15分、知恩院鐘楼横 |
岡崎別院(親鸞屋敷跡)〈左京区〉
親鸞聖人はこの地に庵をむすび、ここから吉水の法然上人のもとへ通われたと伝えられています。
境内に残る八角形の池は、親鸞聖人が越後流罪の際に、姿を映して名残を惜しんだものと言い伝えられており、「鏡池」とも「姿見の池」とも言われています。
2022年2月~2023年夏ごろまで工事の為境内は立ち入り禁止です。
拝観情報
拝観時間 | 工事の為立ち入り禁止 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 075-561-5845 |
住所 | 京都府京都市左京区岡崎天王町26番地 |
アクセス | 京都市営バス 『岡崎道』で下車後、バスの進行方向(東へ)徒歩5分 |
越後~東国布教
親鸞聖人が吉水の法然の元で、専修念仏への理解を深められておよそ6年が経った承元元年(1207年)「承元の法難」(じょうげんのほうなん)と呼ばれる大事件が起こります。
後鳥羽上皇が紀州・熊野に参詣中、法然の弟子の安楽や住蓮が行っていた法会に、上皇の女官が参加し、出家してしまいました。
上皇はこれに激怒し、かねてより他宗派による専修念仏批判の声が大きかったこともあり、朝廷は念仏の禁止の決定を下します。
安楽や住蓮を含む4名の門弟が死罪、法然と親鸞聖人を含む7人の弟子たちが還俗のうえ流罪という厳しい処罰が下されました。
親鸞聖人は越後国へと流されます。
流罪となった親鸞聖人は「もはや私は僧ではなく、かといって世俗の者でもない」と、「非僧非俗」(ひそうひぞく)の立場を宣言。これ以降「愚禿釈親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)と名乗ります。
越後では妻の恵信尼(えしんに)と子供たちと暮らしました。
親鸞聖人がいつどこで結婚したかは分かっていません。
越後での親鸞聖人の生活は厳しいものでしたが、人間が人間として生きる厳しさと実感し、すべての人が平等に救われていく道として、念仏の教えを説いていきました。
建暦元年(1211年)に流罪が赦免された親鸞聖人は常陸国(茨城県)に向かいます。
親鸞聖人は常陸を20年にわたって布教活動拠点にします。
この間に親鸞聖人は「教行信証」の執筆を始めました。
帰京、入滅
越後への流罪、東国布教を経て親鸞聖人は京都に戻ります。
親鸞聖人が帰京した理由は諸説あり、現在も確証に至っていません。
一説では、親鸞聖人が帰京する直前の嘉禄3年(1227年)京都では「嘉禄の法難」(かろくのほうなん)(1227年)という専修念仏弾圧事件が起こります。
再び専修念仏が危機に際したことが、親鸞聖人の帰洛のきっかけとなった考えられています。
また、京都の地で親鸞聖人の主著である「教行信証」の参照、校正を行う必要があったとも考えられています。
京都では説法の傍ら、親鸞聖人は「教行信証」の執筆に没頭しました。
「教行信証」は東国布教で常陸に滞在中にほぼ完成していたと考えられていますが、親鸞聖人自筆の「教行信証」には60代~80代までの筆跡が混在することから添削、加筆をしていたことが分かります。
光圓寺〈下京区〉
光圓寺の寺伝によると、親鸞聖人の帰京後の住まいが本寺であったとされています。
入滅の地も本寺であるとされ、親鸞聖人のご遺体は事情があって善法院に移されたと伝わっています。
拝観情報
拝観時間 | 10:00~16:00 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 075-351-7069 |
住所 | 京都市下京区松原通新町西入藪下町7 |
アクセス | 京都市営地下鉄 烏丸線「五条駅」徒歩約8分 |
角坊(すみのぼう)〈右京区〉
諸説ある親鸞聖人入滅の地のひとつ。
安政4年(1857年)、西本願寺第20代広如上人がこの地を善法院跡とされ、当時相国寺の所有していた土地を購入してお堂を建立させたのが現在の角坊です。
拝観情報
拝観時間 | 8:30~16:30 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 075-841-8735 |
住所 | 京都市右京区山ノ内御堂殿町25 |
アクセス | 京都市営地下鉄 東西線「太秦天神川駅」徒歩約5分 |
延仁寺〈東山区〉
親鸞聖人はお亡くなりになった翌日に東山鳥辺野の延仁寺の付近で荼毘に付されたと言われています。
延仁寺の寺伝では、天台宗の宗祖最澄が開基であるとされています。
当初は「西光寺」と称していましたが、東本願寺第21代厳如上人により1883年に荼毘所が寄与され延仁寺と改称しました。
拝観情報
拝観時間 | 8:30~16:30 |
拝観料 | 境内自由 |
TEL | 075-561-4379 |
住所 | 京都市東山区今熊野総山町2 |
アクセス | 京都市営バス 「今熊野」下車 徒歩約20分 |
おわりに
いかがだったでしょうか?
幼小と晩年をお過ごしになった京都にはゆかりの地がたくさんあります。
2023年、親鸞聖人御誕生850年の記念すべき年に是非、親鸞聖人ゆかりの地を巡ってみてください。
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