石田三成のお墓は京都「大徳寺三玄院」にあり!原則非公開の墓の秘密
目次
関ヶ原の戦いの立役者で義将として人気の石田三成が眠るお墓がどこにあるかご存知ですか?
京都の六条河原で斬首後に三条大橋にさらされた石田三成の遺体は、大徳寺塔頭である三玄院に葬られました。
大徳寺三玄院は通常非公開で、石田三成のお墓にお参りすることはかないません。
2023年冬には、「京の冬の旅」で特別公開されましたが、石田三成のお墓は特別公開の対象外でした。
石田三成のお墓が大徳寺三玄院にある理由や、明治になって石田三成のお墓が再発見された経緯などを紹介します。
三玄院の石田三成墓
「石田三成公御墓地」の碑が建つ塔頭
大徳寺について
大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山寺院です。
正和4年(1315年)に創建され、、建武元年(1334年)には後醍醐天皇によって一時は京都五山のさらに上に位置づけられるなど、重んじられてきました。
幕府の保護を受ける五山十刹からは離脱し、在野の寺院として発展してきました。一休宗純や澤庵宗彭など名だたる禅僧らが代々の住持を務めてきました。
江戸時代には境内に塔頭24・准塔頭57もの塔頭が立ち並んでいました。明治維新後には塔頭の統廃合が進みましたが、今も三玄院をはじめ20の塔頭が並んでいます。
原則非公開の三玄院
大徳寺のほぼど真ん中に位置する大徳寺三玄院は、通常非公開寺院のためあまり知名度は高くはありません。
しかし、大徳寺三玄院はあの石田三成が眠るお寺として、歴史好きの間では有名です。
大徳寺の法堂の西側に「石田三成公御墓地」という石碑が立っている塔頭が三玄院です。
三玄院へは、北大路通沿いの南門から入ると、勅使前までまっすぐ進み、左に折れて道なりに進んだ左側にあります。南門からは350mです。
駐車場のある総門から入ると、道なりに進んだ左側です。総門から180mほどです。
大徳寺を訪れた際はだいたい通るルート上にあるので、三玄院前の石田三成墓を示す石碑を見たことがあるという方も多いでしょう。
しかし、大徳寺三玄院は非公開寺院のために、石田三成の墓だけでなく内部は謎に包まれていました。
石田三成の墓発見の経緯
三玄院開山の春屋宗園が三玄院に葬る
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は21日に捕縛され、10月1日に六条河原で処刑されたことはよく知られています。
処刑後、石田三成の首は三条大橋にさらされました。当時、罪人の首は交通の要衝で人通りの多い三条大橋のたもとにさらすのが習いでした。
三玄院の開山であり、石田三成と生前親交の厚かった春屋宗園が遺体を引き取りました。春屋宗園の指示により、弟子の江月宗玩と沢庵宗彭らが三玄院まで運び、墓を建てて葬ったと伝えられています。
春屋宗園は石田三成をはじめとする戦国武将や、千利休などの茶人など多くの人々と交流のあった禅僧です。
同じく大徳寺塔頭で黒田長政が眠る龍光院の開山でもあります。
弟子の江月宗玩はのちに大徳寺住持を務め、塔頭の孤蓬庵を開きました。
沢庵宗彭は沢庵漬けを考案したとされることで有名です。同様に大徳寺住持を務めましたが、紫衣事件で幕府に刃向かって流罪に処されるなど反骨精神あふれる禅僧です。のちにその禅風が将軍家光に愛され、帰依を受けるなど幕府からも厚遇されました。
明治時代には三成の墓は行方不明に
ただ、後述のように明治の始めに三玄院が合併や移転を経たこともあり、20世紀の始めにはすでに石田三成の墓ははっきりしなくなっていました。
石田三成の再評価を進めた実業家の朝吹英二氏は、1907年に三玄院で石田三成の墓の探索を試みました。
朝吹英二氏は、三井財閥の重役を歴任し、團琢磨らと並んで「三井の四天王」と称された実業家です。
1907年に石田三成の墓を「再発見」
朝吹英二の委嘱で石田三成の再評価のために史学者の渡辺世祐氏が著した伝記「稿本石田三成」では、石田三成の墓の写真の説明として、次のように記されています。
これは山城大徳寺塔頭三玄院の墓地にありしものにて同院にて三成の墓と伝うるものなり。
形式よりもいうも、年代より考うるも、慶長頃のものたるは疑なきものの如し。
明治40年5月19日時事新報社主催となり朝吹英二氏と図り、これを発掘し、その10月20日、院内円鑑国師の墓の傍に改葬せしものなり。
(大意)
写真の墓は、大徳寺塔頭の三玄院の墓地に石田三成の墓と伝えられてきたものである。
墓石の形式も石田三成が没した慶長年間のものであることは間違いない。
1907年5月19日に時事新報社(産経新聞のルーツのひとつ)の主催で朝吹英二氏と石田三成の墓を発掘し、同年10月20日に三玄院内の春屋宗園(円鑑国師)の墓の近くに改葬した。
上の写真の右端の墓石が石田三成のお墓です。
1908年刊行の「京都府写真帖」やその他の資料を見ても、改葬の直後に周囲の墓石も整理され、今はもう少しすっきりしているようです。
石田三成とされる骨も発掘
大徳寺三玄院で発見された石田三成のものと思われる墓の下からは、骨が出土しました。
1944年刊行の清野謙次著「日本人種論変遷史」には、石田三成の遺骨について記載されています。
大意は以下のとおりです。
1907年に三玄院内の石田三成の墓と伝わる墓石から多少ずれた位置から一人分の人骨が出土した。
朝吹英二氏は遺骨を京都帝国大学の解剖学教室の足立文太郎氏のもとに持ち込んだ。
足立文太郎氏は、破片の集まりに過ぎなかった骨を接ぎ合わせて頭蓋骨の復元に成功した。
遺骨からは、生前は腺病質で頭形は長頭でかなり反っ歯であり、年齢は41歳前後であることがわかった。
ぱっと見は女性の骨と見まごうほどの優さ男だった。
これらの特徴は文献に残る石田三成の特徴と一致している。調査後、遺骨は再び埋葬されたが、頭蓋骨の石膏像と歯二本、第一脊椎骨や計測データは解剖学教室に保存された。
しかし、これらの資料は何かの展覧会で貸し出されたまま返却されなかったのか、行方不明となった。
さいわいにも写真と計測データは手元に残った。
1976年には残された資料を基に、元科学警察研究所主任技官長の長安周一によって石田三成の顔が復元されました。
今もよく用いられる石田三成の復元想像画は、この復元像をもとに前田幹雄画伯が描いたものです。
なお行方不明となったとされる頭蓋骨の石膏像は、2014年に京都大学で再発見されました。石膏像の3Dスキャン等によりさらなる研究が進められています。
2023年の「どうする家康紀行」では発掘された頭蓋骨そのものが行方不明になったかのような紹介がされましたが、行方不明になったのはレプリカの石膏像です。
遺骨は前述のとおり三玄院に改葬されています。
遺骨は三玄院に改葬
改葬とあわせて、文学博士の三上参次氏による以下の撰文の碑が建てられました。
石田治部少輔遺骨改葬の碑
大徳寺塔頭三玄院の塋域に苔石あり。高二尺許銘文磨滅一字を弁ずべからず、相伝えて石田治部少輔の墳として、之に触るれば必ず祟ありと云う。
三玄院は大宝円鑑国師の開基に係る、国師の記に拠るに、治部君は国師に於いて外護の深縁あり、按ずるに、治部君関ヶ原の謀主となり戦破るるに及び、六条磧に斬らる、実に慶長5年10月朔日なり
蓋し国師其遺骸を乞いて之を院中に葬りしならん
頃者朝吹英君治部君の志成らず永く汚名を蒙るを哀しみ、其詳伝を編みて世に公にし、又大阪時事新報社と謀り、其遺骨を国師の墓側に改葬し、新たに碑を建て、以て冥福に資し、憑弔に便す
嗚呼治部君たる者知己を百世の後に得たりと云うべし
余其顛末を叙する事此の如し
明治40季10月
(大意)
石田治部少輔遺骨改葬の碑
大徳寺塔頭三玄院の墓域に高さ60cmの銘文が磨滅して一字も読み取れない苔石があった。
石田三成の墓と伝えられており、石に触れると必ず祟りがあると言われている。
三玄院は春屋宗園が開基である。
春屋宗園が記したところによると、石田三成と深い縁があり、1600年10月1日に石田三成が関ヶ原で敗れて六条河原で斬られた。
思うに春屋宗園は石田三成の遺体をもらういけて、三玄院に葬ったのであろう。
最近、朝吹英二氏が石田三成の志が成らず、永く汚名を蒙っているのを哀しみ、石田三成の詳細な伝記を編纂して出版した。
また大阪時事新報社とともに石田三成の遺骨を春屋宗園の墓近くに改葬し、新たに碑を建てて冥福を祈った。
ああ、石田三成は百世の後になって、知己を得たというべきであろう。
私はその顛末をこのように記録する。
1907年10月
本当に石田三成の墓かは不明確
調査の直後である1907年4月23日号の雑誌「考古界」には、石田三成の墓発見の経緯について、次のように記されています。
三玄院は既に廃滅したれば、近くの某院につき尋ねたれど、固より要領を得ず、纔に旧三玄院内に一の無縁塚あるを知り得たり。
かくて彼の寺の住職に調査を頼みし結果、三玄院引継ぎ位牌中に、「江東院前令部省岫因大禅定門、慶長5年10月1日」とあるを発見し、愈かの無縁塚の三成の墓ならむことを推定し得たるなりという。
(大意)
三玄院はすでに廃絶しており、近くの塔頭に三成の墓について尋ねてみたが要領を得ない。
旧三玄院の中にひとつの無縁塚があることだけ知ることができた。
近くの塔頭の住職に調査を頼んだところ、三玄院から引き継いだ位牌の中に石田三成のものと思われる位牌を発見し、ついにかの無縁塚が三成の墓であろうと推定することができたという。
上記は、発見時の国民新聞の記事内容の紹介です。
記事のとおりであれば、石田三成の墓とされた無縁塚はかなり根拠があいまいということになります。
歴史地理第10巻第1号に掲載された渡邊世祐「石田三成の墳墓に就きて」でも石田三成の骨と断定できないことが記載されています。
石田三成の墓 1936年刊行 熊田葦城 著「日本史蹟体系」出典:国立国会図書館デジタルコレクション戒名の「江東院」は生まれ故郷の近江東部にちなむものでしょう。
「令部省」は治部省のことを指すと思われます。なお、治部省の漢名は「礼部」が正しいです。
なお、一般には石田三成の戒名は「江東院正岫因公大禅定院」とされています。
大徳寺三玄院について
3名の戦国武将が創建した三玄院
浅野幸長・石田三成・森忠政の3名が創建
大徳寺三玄院は、天正17年(1589年)に春屋宗園を開山とし、浅野幸長・石田三成・森忠政の3名によって建立されました。三玄院の表門は石田三成邸から移築したものだと伝えられています。
三玄院とは、臨済録などに出てくる「体中玄」「句中玄」「玄中玄」の三玄に由来します。
三玄院建立の時点での3名の関係性は不明ですが(というか三成以外は当時まだ10代)、のちに石田三成と浅野幸長・森忠政は袂を分かつことになります。
浅野幸長(天正4年(1576年)~慶長18年(1613年))は、北政所ねねの甥にあたる豊臣一門です。
父は五奉行の一人である浅野長政です。三玄院が創建された天正17年(1589年)の時点ではまだ十代前半の若者だったので、おそらく実質的には父長政が主導したものでしょう。初陣は翌天正18年(1590年)の小田原征伐です。
武功派の武将として知られ、慶長4年(1599年)には石田三成を失脚に追い込んだ「七将」のひとりに名を連ねました。
甲斐一国22.5万石の国持大名として関ヶ原の合戦を迎え、関ヶ原では毛利隊の抑えを務めるなど活躍しました。
戦後は要衝の紀伊国を任され、37万石の大大名となりました。
没後に安芸国42.6万石に転封され、子孫は代々広島藩主として栄え、幕末まで続きました。忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野家は弟の長重の系統です。
森忠政(元亀元年(1570年)~寛永11年(1634年))は、織田信長の小姓として知られる森乱(蘭丸)の弟です。
父の可成と可隆、長可、成利(乱/蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)の兄5人がいずれも討ち死と壮絶な歴史を歩んだ森父子の末弟です。次兄の長可が長久手の戦いで討ち死にしたため、天正12年(1584年)に森家の家督を継ぎました。三玄院が創建された天正17年(1589年)当時はいまだ十代とはいえ、豊臣姓を与えられる7万石の当主でした。
慶長4年(1599年)の石田三成襲撃事件では反三成方につき、信濃国川中島13万7,500石で関ヶ原を迎えました。
関ヶ原の合戦では東軍について真田昌幸の抑え役を務め、慶長8年(1603年)には美作国18万万7,500石の国持大名となりました。
寛永11年(1634年)に京都で亡くなり、石田三成と同じく三玄院に葬られました。孫の代に改易され赤穂藩2万石の小大名として幕末まで存続しました。
長谷川等伯ゆかりの寺院
三玄院は長谷川等伯ゆかりの寺院としても知られます。
等伯は三玄院の襖絵を描きたいと春屋宗園に願い出ますが、まだ名もなき絵師である等伯は相手にされません。そこで、等伯は春屋宗園が不在の間に勝手に三玄院に上がり込み、一気に襖絵を描いてしまいます。
あまりの出来栄えに驚いた春屋宗園は等伯の腕を認め、その後の大活躍へとつながります。
マンガの「へうげもの」でもこのエピソードがおもしろおかしく描かれました。
このとき描かれた襖絵は廃仏毀釈によって三玄院から流出し、今は圓徳院と楽美術館に移っています。
明治に塔頭の整理統合で廃絶
しかし、明治に入ると経済的に困窮した大徳寺は塔頭の整理統合を行うなかで、三玄院は1878年に同じく大徳寺の塔頭である清泉寺・大源庵と合併しました。
あわせて西隣にあり1874年に廃寺となっていた龍翔寺1へと三玄院は移転しました。
現在の三玄院の伽藍も龍翔寺のものを引き継いでいます。
石田三成の墓なども合併時に西隣の旧地から移転したはずですが、詳細は不明です。
三玄院の石田三成以外の墓
1922年出版の「京都名家墳墓録」によると、三玄院には石田三成以外にも以下の墓があると記載されています。
- 石田正澄(三成の兄)
- 石田朝成(正澄の子)
- 石田主水正(正澄の子)
- 伊達弥助(明治期に西陣織の近代化に貢献)
- 寺沢広高(唐津12万石。関ヶ原では東軍)
- 久我通兄(江戸中期の公家。右大臣)
- 久我敏通(通兄の子。宝暦事件で失脚)
- 久我建通(敏道の子の養子。内大臣)
- 舟越五郎右衛門(旗本で古田織部の弟子。関ヶ原では東軍)
- 古田織部(茶人。関ヶ原では東軍)
高野山奥の院の石田三成墓所
石田三成が実際に葬られたのは大徳寺三玄院ですが、高野山にも石田三成の墓があります。
高野山奥の院の参道沿いには、ずらりと歴史上の人物の墓所が並びます。そのなかに石田三成の墓所もあります。
石田三成墓所の五輪塔には天正18年(1590年)の銘があり、生前に建てた逆修塔です。生前に死後の冥福を祈って作るお墓です。
今も奥の院に残る天正18年以前の石塔としては最も大きなものです。当時の石田家はまだ小大名だったので、石田三成がいかに高野山を信仰していたかがわかります。
高野山奥の院の経蔵は、慶長4年(1599年)に石田三成が造営したもので、重要文化財に指定されています。
今日は三成の新暦命日。
お墓は二つ
大徳寺三玄院は、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られて埋葬された寺院
高野山奥の院は、逆修墓といって生前(天正18年)に作ったお墓ですリモート参拝用にTLへ流しておきます。
今日一日、三成に想いを馳せてくれたら嬉しいです。#石田三成新暦命日 pic.twitter.com/44TKUH7eea
— 石田三成@ZIBU (@zibumitunari) November 5, 2023
三成に過ぎたるもの
立本寺教法院の島左近の城
島左近は、江戸中期ごろに成立したとされる「古今武家盛衰記」に「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」と記されている石田三成の重臣筆頭です。「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城」というバージョンもあります。
関ケ原で鬼神のごとく戦い討ち死にしたとされる島左近ですが、遺体は発見されていません。戦場から脱出し、戦後も生き延びたという説も古くからあります。
一説には、京都に落ち延び、立本寺の塔頭教法院で潜伏しながら生涯を過ごしたとも言われています。実際、立本寺教法院には「妙法院殿嶋左近源友之大神儀」という墓石が現存し、寛永九壬申年(1632年)六月二十六日に亡くなったと刻まれています。生年は天文9年(1540年)とされているので、かなりの長寿を全うしたことになります。
関ヶ原の首謀者であった石田三成自身は処刑されましたが、家臣団は誰も罪に問われていません。それどころか、関ヶ原で数倍の敵を相手に一歩も引かず、最後まで主君を守って戦い抜いた家臣団は高く評価され、多くは高禄で他家に招かれました。
島左近であればその気さえあれば引く手あまたであったでしょう。ただ、三成亡きあと左近にとってもはや仕えるべき主君はいなかったのでしょう。
2024年6月5日にこの教法院の墓が発掘調査され、20cm下から棺に入った人骨が発掘されました。伝承どおりであれば、島左近の遺骨です。
島左近の墓は、建屋新設など再整備後にあらためて公開される予定です。
立本寺教法院の墓地は、教法院の向かい側にあります。相合図子通り沿いの入り口には、「関ヶ原大軍師 島左近之墓」という1935年に建てられた石碑が立っています。
墓地内には「島左近墓所→」という比較的新しい石碑が要所要所にあり、たどっていくと島左近の墓にたどり着きます。
立本寺は、当時寺町今出川の上京区立本寺前町にありました。宝永5年(1708年)の宝永の大火後、現在地へと移転しました。
島左近のものと伝わる墓は立本寺教法院以外にも全国に数箇所あります。
奈良市の三笠霊苑で偶然見つけてびっくりしたこともあります。
実際には関ケ原で討ち死にした可能性が高いのですが、島左近は源義経と同様の英雄不死伝説の対象だったのです。
多くの人の「生きていて欲しい」「生きているはずだ」という想いが、全国各地に島左近伝説を生みだし、島左近のものと伝わる墓がいくつもできたのでしょう。
石田三成とMKタクシー
三成に
過ぎたるものが
三つあり嶋左近
佐和山の城
そして
MKタクシー
— 石田三成@ZIBU (@zibumitunari) September 23, 2024
MKタクシーは、石田三成を応援しています。
毎年関ヶ原の戦いの日前後にツイッター上で繰り広げられる「関ヶ原の戦い」には、MKタクシーのアカウントも参戦するのが恒例となっています。
有名企業も参戦天下分け目の「関ヶ原2020」が大盛り上がり 「すごい、三成迎えにホントにMKタクシーきた!!」
MKタクシーの公式YouTubeでも、ツイッターと連動した映像を公開しています。
いつの日か、石田三成が東軍を倒し、タイムパラドックスにより三玄院の石田三成墓が消えることがあるでしょうか。
京都MKタクシーのご用命は
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石田三成の関連記事
- 現在の龍翔寺は1925年に再建された塔頭[↩]