書評『白い土地 ルポ福島「帰還困難地域」とその周辺』三浦英之著|MK新聞掲載記事

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書評『白い土地 ルポ福島「帰還困難地域」とその周辺』三浦英之著|MK新聞掲載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞の2021年4月1日号掲載の、書籍の感想・書評記事です。

三浦英之著『白い土地 ルポ福島「帰還困難地域」とその周辺』(集英社クリエイティブ 2020年10月 1,800円)を読む。
著者:大麻 淳(現代思想研究会会員)

情報は現地に届かなかった

三浦英之著『白い土地 ルポ福島「帰還困難地域」とその周辺』(
三浦英之著『白い土地 ルポ福島「帰還困難地域」とその周辺』(

今年は東日本大震災と東電福島第一原発爆発の複合大災害が起きて、節目の10年を迎える。
出版界においても、いくつかの書籍が企画・出版されることだろうが、本書もそのような類書の一つと言える。

本書の題名は、《白地(しろじ)》という現地の役所関係の人々の間で使われている隠語に由来している。
放射線量が高い「帰還困難地区」でも、政府は積極的に除染して住民の帰還を推進する「特定復興再生拠点区域」を定める一方で、その他は将来的にも住民の居住が見通せないまま放置する区域とすることにした。その後者を《白地》という。
その面積は約310平方kmという。著者は朝日新聞記者として、2019年春から20年春までその「白い土地」周辺に通い続けて、現地を生きる人物ルポルタージュをまとめた。
著者はまた、本書をその間の個人的なクロニクルともいう。

本書は、序章と終章を除いて、11章からなる。
複合大災害に巻き込まれた人物たちにとっての不条理な現実と、生きながら大きく揺れる動く屈折した感慨を追ったルポである。

鈴木裕次郎は34歳。浪江町で約80年の歴史を持つ、新聞販売所「鈴木新聞舗」の3代目である。震災前年の秋に3代目に就任した。
福島市、東京へと避難し、2017年1月に6年ぶりに帰還し、親の反対を押し切って営業を再開した。
しかし配達人は本人だけで、配達エリアは浪江町全域に及び、新聞休刊日以外休むことができない。

一方、著者は2017年秋に福島総局に配属されて、取材のテーマを求めて、福島県立図書館に行き、「東日本大震災福島県復興ライブラリー」に蔵書約10,000冊が揃っているのを見て、途方に暮れた。
他人と同じことをしていては、福島では何一つ記事は書けない。こうして新聞舗で週一回、新聞配達を手伝うことになった。
著者は半年、配達を手伝っての感想をこう述べる。
「目の前にもう一つの新聞の現場がある。読者と密に信頼関係を築き、雨の日も雪の日も新聞を自宅に届ける人がいる。それがあって初めて情報が受け手に伝わる。情報が情報としての価値を持つ。そんな当たり前のことを私は裕次郎から知らず知らずのうちに学んでいたのだ」(80~81頁)。

著者は2017年の3・11に合わせて、配達の日々を朝日新聞の全国面に計15回にわたって掲載した。
タイトルは「新聞舗の春」。
実は評者はこの連載記事を読んでいたので、この紹介文を書くことを引き受けた。
また、この連載を読んで、警視庁のOBが配達を手伝いたいと応募してきたとも紹介している(第4章 鈴木新聞舗の冬)。

浪江町の馬場有(たもつ)町長も連載「新聞舗の春」の読者だったので、著者からの町長の半生の口述筆記の取材依頼に応えることにした。
当時、町長は入退院を繰り返し、体調不良であった。最初の口述筆記は2018年4月6日、町長の自宅で行われた。
のっけから町長は4年前から自分がガンであることを告白した。

浪江町は「悲劇に町」と呼ばれ、馬場町長は「闘う町長」と呼ばれた。
「町内には原発が立地していないにもかかわらず、原発の爆発事故によって巻き上げられた大量の放射性物質を含んだ雲(ブルーム)が浪江町内を縦貫するように北西方向へと流れ、雨や雪と共に降り注いだため、町域全体が極度に汚染されてしまった。国や福島県は当時、それらの雲の流れを事前に察知していたが、その情報は浪江町には伝えられず、街は結果的に――あるいは悲劇的に――町民をあえて被曝する危険性のある地域へと避難させてしまっていた」(95頁)(第5章 ある町長の死Ⅰ)。

3月11日午後7時に国は原子力緊急事態を宣言し、原発の半径3km圏内の住民に避難指示を出していた。
その情報は浪江町に届かなかったし、東電は周辺自治体と結んでいた通報連絡協定があるにもかかわらず、通報しなかった。
町長が翌12日早朝5時のテレビニュースで知ったのは、政府の避難指示が原発から半径3km圏から半径10kmに拡大されたことだった。
余裕をもって原発から30km離れた町西部の津島地区に住民を避難させた。
ところが、14日、原発3号機が水素爆発を起こした。翌15日、再度の避難を余儀なくされ、町内を脱出して二本松市に落ち着いた。その数、8,000人。この際にも東電からの通報はなかった。

東電の幹部が3月下旬になって二本松市東和支所の浪江町仮役場に初めて訪れた。
町長は幹部に対して、当面の避難生活に必要な一定額の見舞金の支払いと東京電力の社長自らの謝罪を要求した。
数日後、近隣10市町村に一律2,000万円の見舞金支払いを決めたが、町長は受け取りを最終的に拒否した。
理由は浪江町は双葉郡内で最大の人口2万1,000人を抱え、一律では一人1,000円にも満たないからである。拒否したのは浪江町だけだった。
東電の社長・清水正孝が浪江町の仮役場に謝罪に現れたのは5月4日だった。
具体的な補償も、賠償も、支援の額さえも口にしなかった。社長の来訪を聞きつけた住民が、社長に「町民に謝らないで帰るのですか!」、「清水、土下座しろ!」と叫び、清水は住民の前でガクリとひざを折り、額を地面に押しつけた(第6章 ある町長の死Ⅱ)。

町長は被災地の窮状を直接政府に訴えるため、東京の首相官邸に乗り込んだのは5月10日だった。
総理大臣である菅直人への陳情は手ごたえのないものであった。
しかし「中央の現実を知って逆に力が湧いてきたのです」と証言する。「暗中八策」と称して復興の骨子となる重点的政策を箇条書きしたものを職員全員に配ると、自分の役割を理解し、計画を着実に推進していこうとする力強さを感じた。

6年に及んだ浪江町の全町避難の中で、市長が最も力を入れた施策の一つが原発事故を起こした東電に対する浪江町民への賠償請求だった。2013年5月、馬場は全国で初めて自治体が住民の代理人となり、原発事故による慰謝料の見直しを求めて原子力損害賠償紛争解決センターに東電との和解の仲裁を申し立てた。人口の7割に当たる1万5,000人が申し立てに加わった。

町長が政治生命を賭けて取り組んだもう一つのテーマは記憶の継承である。町長は長年、「原発立地自治体」と「原発周辺自治体」に対する国と電力会社の対応の格段の違いに悩まされてきた。
かつて浪江町議会も1967年に町内に東北電力の浪江・小高原発の誘致を決議していた。
その決議は原発事故後に2011年12月に撤回されたが、建設計画はほぼ直前まで進められ、土地買収に応じないのは2人だけであった。
「安全神話」によりかかり、原発立地自治体の豊かさを羨ましかった。

一方で、著者は3・11の翌日、実は東京から宮城県三陸町の津波取材に向かう途中の二本松でカーラジオによって1号機の爆発を知ったが、そのまま三陸町に向かった。
著者は実は、「原発記者」だった経験がある。
2007年の中越地震による東電柏崎刈羽原発の火災事故以来2年間、自然災害から原発をいかに守るかをテーマに、国内外を広く取材してきているのだ。
その経験から「安全神話」を信じ、「海外の原発はいざ知らず、日本の原発は人的、物理的にも多重防護で守られている」と信じていた。
だから、福島を通り過ぎて、三陸町に向かったことを今も後ろめたさを引きづっている。その事実を馬場に話したのが町長との最後の対話であった。

4回目の口述筆記は4月23日に予定されていたが、延び延びになり、結局実現しないまま、町長は6月27日に亡くなった。享年69歳。葬儀に参列した著者はこう記す。
「原発周辺自治体の首長として、財政の豊かな原発立地自治体をうらやみ、『喉から手が出るほど原発が欲しかった』と私に語った。一転、原発事故が起きると、政府や東京電力から情報が寄せられず、謝罪や支援も立地自治体と大きく差をつけられた。

羨望と絶望。
彼の人生とはすなわち、全国の原発周辺自治体が抱える宿命的な悲哀を体現したものではなかったか」(156頁)(第7章 ある町長の死Ⅲ)。
津島地区は浪江町の住民が最初に避難した地区である。その地区は、戦後、満州開拓団の人々が帰国して山野を開墾して、アワや芋を育てて生き延びた地区である。
満蒙開拓、敗戦による引き揚げ、そして原発事故。3度の「国策移住」を強いられた人も少なくない。
そんな一人の岸チヨ、88歳は、満州でソ連軍の進駐を前に集団自決用の毒物を飲んだ母親に解毒剤を飲まそうとしたが拒まれ、見殺しにしてしまったのを、今も悔いている(第8章 満州移民の村)。

2019年10月12日、台風19号が福島県にも大きな被害をもたらした。
著者は「放射性廃棄物」や「除染廃棄物」を詰めたフレコンバッグという土嚢袋が田村市で流失したとの情報を掴み、現場に直行し、流失の現場の動画を撮影した。
台風通過から4日目に環境省の調査団が現場に到着し、同行取材を行った。
調査団が空のフレコンバッグを回収する動画をツイッター上にアップすると、40万回再生されたが、同時に「風評被害を拡げるな」との反響もあった。
著者には「報道には『他人を傷つける』という行為を内包している」という覚悟があった。
後日発表されたところでは、台風19号によるフレコンバッグの流失被害は55袋に達した(第9章 フレコンバッグと風評被害)。

3・11に衝撃を受けながらも、現地から遠く離れて暮らす評者には、3・11に遭遇した人物たちの体験した不条理なり、行動なり、感慨なりが今一つ遠隔のことであった。それだけに、著者の己をさらけ出しながら、取材対象に肉薄し、随所に鋭い観察眼を活かしたルポは得難いものである。

大麻淳

1942(昭和17)年、山口県生まれ。
大阪市立大学商学部卒、同大学大学院経営学研究科修士課程修了。
上海外国語学院日本語教師、大阪府日本中国友好協会事務局勤務。
香港で現地貿易会社経営を経て、現在、現代思想研究会会員。

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