9月20日は「バスの日」京都で日本初のバスを走らせた青年の果敢なる挑戦と挫折
9月20日は「バスの日」です。1903年9月20日、二井商会が京都の堀川中立売~七条~祗園で日本初のバス事業を開始したことを記念して、日本バス協会が9月20日を「バスの日」と定めました。
9月20日に始まった日本で初めてのバス事業がいったいどういうものであったのかを調べたところ、そこには若き2人の青年の果敢なる挑戦と挫折がありました。
主要参考文献は、1937年刊行の「日本乗合自動車協会十年史」、1965年刊行の「日本自動車工業史稿」と斎藤尚久「明治30年代の日本の乗合自動車営業」。
日本初のバス誕生まで
詳細不明な全国初のバス
バスの日は、日本で初めてのバスが営業を始めた日を記念して制定されました。
その詳細は、日本バス協会のホームページにおいても、さらっと書かれているだけです。
明治36年(1903年)9月20日京都市(堀川中立売(なかたちうり)~七条~祗園)において二井(にい)商会がバス事業開業
蒸気自動車を改造した6人乗り(幌なし)の車両で運行業
同年11月21日京都府自動車取締規則により正式許可業
しかし、実は本当に日本で初めてバスが走ったのがいつなのかは、不明です。バスの日と定められた9月20日ではない可能性もあるのです。
「日本自動車工業史稿」によると、1903年9月20日の二井商会に先立って営業した可能性のある事例として、以下を挙げられています。
1901年 月不詳 兵庫県・三田-有馬温泉
1902年 月不詳 三重県・伊勢参宮道路
1902年 月不詳 鹿児島県・鹿児島市-川内
1903年1月 広島県・横川-可部
詳細がはっきりしない乗合自動車の事例
兵庫県・三田-有馬温泉
「某外国人が乗合自動車を計画し、車両も輸入したが流産におわった」と伝えられていますが、計画者も車両名も不明です。
計画年も翌1902年とも言われており、本当に計画が存在したかも明らかではありません。
三重県・伊勢参宮道路
1902年1月に蒸気式ロコモビル1台を購入した旅館五二会の主人が参宮自動車会社を設立し、乗合自動車を営業したというものです。
営業開始後すぐに転覆故障したと伝えられ、実際に営業らしい営業となったかは不明です。
ただし、現実に存在したのは間違いない乗合自動車です。
鹿児島県・鹿児島市-川内
1902年5月に蒸気式ロコモビル1台を購入した緒方造船所の社長が森亜自動車を営業したというものです。
詳細は不明ですが、2人乗りの車両で半年ほど営業を行ったとされています。
広島県・横川-可部での乗合自動車
1903年に広島で乗合自動車を運行するために自動車が発注され、米国製エンジンをもとに日本人が車両を組み立て、12月に12人乗りのバスが完成しました。
1月から広島で試運転を開始しましたが、通常のタイヤに12人乗りの重いボディーを乗せた構造のためにすぐにパンクしてしまいました。
ボディーにあうタイヤをあれこれ試しましたがいずれもうまくいかず、1904年の3月には試運転のみで事業を中止することとなりました。
1904年の第一次計画は失敗に終わりましたが、のちに1905年2月5日には横川-可部間でに日本初の国産乗合バスが誕生することになります。
以上はいずれも断片的な記録があるだけで、詳細はわかっていません。記録によって年月や内容にも異同が大きく、確かなことは分かりません。試験運転で終わった可能性も高いです。
今後、新資料の発見によって歴史が書き換えられる可能性もゼロとは言えないかもしれませんが、今のところは詳細不明としか言えません。
ただし、仮に日本初のバスの歴史が書き変わったとしても、バスの日が詳細な資料の残されている二井商会の9月20日から変更になることはないでしょう。
日本で初めてメーターを付けたタクシーが走った日を記念して定められた8月5日の「タクシーの日」も、実は開業日が8月15日であった可能性が高いことが分かっていますが、タクシーの日は変わっていません(8月15日を記念日にするわけにはいかないという事情もあるでしょうが)。
京都に先行する可能性も高い大阪の事例
バス営業について、ある程度の記録が残っている初の事例は、1903年の大阪の事例です。
大阪の天王寺公園などを会場として開催された第5回内国勧業博覧会(1903年3月1日~7月31日)では、アンドリュース商会より8台の自動車が出品されました。
1903年4月(諸説あり)は、大阪駅のある梅田と会場の天王寺公園(諸説あり)を結ぶバスが運行されたとの記録が残ります。
しかし、開業時期や営業区間、自動車などが記録によってばらばらです。斎藤尚久氏の前掲論文によると、11の文献に記載されているが、完全に内容が一致しているのは1組だけで、あとはてんでばらばらです。
本来であれば、この大阪の事例が日本初のバスの運行というべきところなのですが、不明な点が多すぎます。
社団法人日本乗合自動車協会十年史でも、「当時の模様は遺憾ながら明示させられず」と記載されています。
開業日も含めて不明である以上、この大阪のバス事業を根拠としてバスの日を制定することはできません。
なお、この大阪でのバス事業は、1934年に大阪市が発行した「明治大正大阪市史」によると、その後経営不振により経営主体を変えながらも存続し、大阪市電の第二期線が開通した直後の1908年8月13日に廃業しました。
愛知県が全国初の法規を公布
大阪やそれ以前のバス事業は、いずれも正式に行政の許可を受けたものではありませんでした。
許可を受けようにも、その根拠となる自動車交通法規が整備されていなかったからです。いずれも黙認の形での営業でした。
まず最初に法規整備に手を付けたのは、愛知県です。
第5回内国勧業博覧会で出品されたアンドリュース商会蒸気自動車に注目した名古屋の平野新八郎氏は、バス事業の経営を計画しました。
1903年8月に愛知県庁内で試運転を行ったところ良好だったので、ただちに愛知県への乗合自動車の経営を開始したいという届出を行いました。
この届出を受けた愛知県では、1903年8月20日に全国初の交通安全取締規則である「乗合自動車営業取締規則」を公布しました。
公布までの間があまりに短いことからもわかるとおり、非常に簡易な規則でした。
現在はバスなどの運輸行政は道路運送法という法律に基づき、国(国土交通省)の管轄ですが、当時は都道府県の管轄でした。
結局、名古屋での平野新八郎氏の計画は、自動車が高価で採算があいそうにないため、営業開始には至りませんでした。
開業にはいたらなかったため、バスの日の根拠とはなりませんでした。
京都でもバス事業への機運高まる
バス事業が将来有望であると考える人々により、全国各地でバス事業の出願が行われました。
1895年には日本で初めての電車が開通するなど、特に交通分野で進取の気性に富む京都では、バス事業の将来性を見込み、複数の動きがありました。
まず、1903年8月中旬には複数の者によって京都市内でのバス事業の出願が行われました。
中でもいち早く具体的に動き出したのが、西陣で織物商を営む福井九兵衛氏と友人の坪井清兵衛(壺井菊治郎)氏です。
内国博覧会終了翌日の1903年8月24日に、福井九兵衛氏が坪井清兵衛氏を誘ってバス事業をはじめることを決意しました。
27歳の青年の果敢なる挑戦
福井九兵衛氏について
福井九兵衛氏は、西陣の如水町(一条通猪熊東入ル)で織物商を営んでいました。
斎藤尚久氏の前掲論文に引用されている福井九兵衛氏の手記によると、
自分はかねてから何らかの事業を起こさんと志あり、その理想は一時投機的にあらずして、高尚にして文明なる事業を望む随分欲の浅き注文なり。しかし今内地にて機先を制し乗合自動車を起こせば理想にやや近し。
とあります。
若い青年が新しい事業をはじめようと理想に燃えていたときに、バスという理想的な事業に出会ったのです。
車両購入にあたって、自動車に縁もゆかりもなかった福井九兵衛氏は何のつてもありませんでした。そこで、早速内国博覧会事務局に出向いて出品目録を調べ、アンドリュース商会へと連絡を取り、車両購入交渉をはじめました。
外国の会社との取引もこれが初めてだったため、交渉にあたっては1895年に日本で初めての電車を開業した京都電気鉄道の創立者でもある大沢善助氏の協力も仰ぎました。
蒸気自動車の購入交渉も順調に進んだため、福井九兵衛氏は運輸行政を管轄する京都府との折衝を開始しました。
1903年8月28日に京都府庁の警察部保安課長と面談し、保安課当局の意向も以下の通り確認できました。
- 取締規則を発布するまでは許可できない。ただし近く取締規則を発布する予定
- 実行者に許可とし、営業権のみを得る目的のものには許可しない
- 今、仮に無認可で営業する者があっても、規則がないため営業停止を命令することはできない
- 最初に出願営業するものには、相応の便宜を与える
- 規則がないため願書の書式はなく、正式に受理できないため預かることしかできない
福井九兵衛氏は、京都府の意向も確認できたため、車両が到着次第、営業を開始することにしました。
8月24日にバス事業を開始することを決意し、わずか4日後のことです。
驚くべきフットワークの軽さです。
このとき、1876年生まれの福井九兵衛氏は、弱冠27歳という青年でした。
ある意味では無鉄砲ともいうべきこの挑戦は、若さゆえのことなのでしょう。
記録からは不明ですが、おそらく坪井清兵衛氏も同年代だったのではないでしょうか。福井九兵衛氏も坪井清兵衛氏も奉公人10人以上を使う西陣の織元でした。
なお、坪井清兵衛氏は、壺井菊治郎という表記も混在しています。
「日本自動車工業史稿」によると、正しい姓は「壷井」ですが、本人も「坪井」と書くこともあり、どちらが正しいというものではないそうです。
バス事業開始へ二井商会を設立
8月29日、1両2,000円で自動車売買契約が成立し、2週間以内に車両を引き渡されることになりました。
資金は福井九兵衛氏と友人である坪井清兵衛氏の共同出資とし、会社名は福井・坪井両氏の共同経営のため京都乗合自動車二井商会(にいしょうかい)と命名しました。
なお、「日本自動車工業史稿」によると、二井は本来は「じせい」と読むのが正しかったそうです。
9月1日には、いよいよ京都府に自動車営業の出願を行いました。
前述のとおり、このときは愛知県で簡単な自動車交通法規があるだけで、京都府にはまだ法規は制定されていませんでした。
運転手には、自動車を購入したアンドリュース商会の運転技術の教習を受けさせ、堀川中立売に待合所を設置する準備を整えました。
9月10日、納品された蒸気自動車に、1号車、2号車と命名しました。
あとは、京都府の許可を待つばかりです。
8月24日にバス事業を始めることを決意してから、ここまでわずか18日です。
まさに電光石火の早業です。
世間の注目を大いに集める
営業出願以来、バス事業開始について当時の新聞紙は一斉に書き立てました。
「日本乗合自動車協会十年史」に当時の紙面の内容が掲載されています。
9月2日付け京都新聞
「自動車営業の出願」
坪井清兵衛、福井九兵衛両氏により昨日府庁へ自動車営業の願書が提出された。
中央停車場を中立売大宮に置き北野に達するものと、七条停車場、二条停車場、祇園石段下に達するものとの四線とし、自動車2両は両3日中に到着し、来る15日より営業開始の準備を整え、営業認可を得れば、横浜在留の外人、宜次として来京し、運転手を養成するという。
9月9日付け大阪朝日、大阪毎日、京都日出新聞など
「自動車の練習」
西陣の坪井清兵衛、福井九兵衛両氏の出願する自動車がいよいよ一昨日到着したので、本日より運転手の練習を平安神宮前桜馬場で行う。
営業は15、6日より開始予定で、社名は京都乗合自動車二井商会と命名した。
9月9日に新聞に取り上げられると、翌日には競合することになる京都電気鉄道の株が暴落しました。
運転の練習を行ったのは、平安神宮前桜馬場というのは、武道センターや旧武徳殿の西側の南北の通りです。
車両は9月7日に到着し、2人乗りを6人乗りに改造しました。
なお、現在の法律で通常バスに使用される車両は乗車定員11人以上の車両なので、現代ならバスではなく、乗合タクシーともいうべき車両になります。
トラブルを乗り越え、大賑わいの試運転式
9月19日に試運転式を行い、翌20日開業とすること方針を定め、新聞社に広告及び招待状を発送し、開業への準備に万全を期しました。
しかし、試運転式を目前に控えた9月18日にまず一つめのトラブルが発生します。
夜10時に運転手及び助手、職工等は、賃金値上げを訴えて突如ストライキを決行したのです。
従業員の要求は、運転手1日70銭→1円50銭、その他40銭→1円20銭などでした。
さすがに3倍もの賃上げは受け入れることができず、中心となった運転手が退去し、残りがストライキから離脱することで何とか無事トラブルを解決しました。
試運転は予定通り9月19日、岡崎公園桜馬場応天門前広場において挙行されました。
市内警察署長、新聞記者等を招待し、6人試乗し、桜馬場を運転しました。
当日は自動車が珍しいものとして、見物人が雑踏を極めました。
「日本乗合自動車協会十年史」に当時の紙面の内容が掲載されています。
9月21日付け京都新聞
「乗合自動車の試乗」
曲がり角などは自転車のようにうまくは曲がれず、梶の取り方の呼吸などはちょっと稽古をしなければ危険であると思う。
揮発油とタイヤの破損などを見込んで1区4銭の賃銭で営業できるかどうかは商会の福井、坪井両氏も明確に計算が立っていないという話しだ。
この計算がたてば誠に有望な営業である。なお、当分は雨天は休業すると。
試運転後には午後9時まで祝宴が開かれ、二井商会は華やかなスタートを切ろうとしていました。
9月20日、晴れて開業・・・もいきなり営業停止のピンチに
このようにして準備は完了し、1903年9月20日に2路線で開業しました。
これが根拠となり、バスの日が9月20日と定められました。
堀川中立売~七条駅の第一線では、午前7時に始発自動車が出発しました。
まだ2台目が改造中だったため、第一線は午後3時に終了し、続いて堀川中立売から祇園石段下までの第二線が午後3時から午後12時まで往復しました。いきなり終バスが午後12時とはびっくりですね。
営業開始にあたっては、乗客や見物人などが雲霞のように押し寄せました。
ところが、何とか開業にこぎつけた当日の午後1時、福井九兵衛氏は突如警察部保安課より出頭を命ぜられました。
以前面談をしていた保安課長より
「8月28日に伝えた方針は個人的な考えであった。警察部としては、取締規則の未発布にもかかわらず営業を開始することは甚だ不穏であるので、近日中に発布されるまでは、事業を一字停止するように。もし強行するのであれば、許可なく事業をする者には科料に処すとの条文を発令する。だから穏やかに休業するのが得策である」
として、営業を中止せよと迫りました。
京都府にバス事業の出願はしていたものの、審査の前提となる自動車交通法規がまだないため、許可が下りていなかったのです。
福井九兵衛氏がいろいろと懇願した結果、切符を発売せず、希望者を乗せて報酬として一定の額を収受し、翌21日からは試運転という名目で営業を行うとの条件で、何とか京都府庁側の承諾を得ました。
幌が無いため雨天時は休業し、冬場はとても寒かったようです。
それにしても、ある程度の資金は持っていたとはいえ、自動車については全くの素人の27歳の青年が、事業開始を思い立ってから1ヶ月もたたずに日本初のバス事業開業にこぎつけたとは驚きでしかありません。
開業当初の路線解説
ここで、9月20日の開業当初の路線について、簡単に説明します。
① 室町線
- 路線 堀川中立売~七条停車場
- 営業時間 7時~15時
- 運賃
室町二条 4銭
室町五条 4銭
七条停車場 4銭
② 川東線
- 路線 堀川中立売~祇園石段下
- 営業時間 15時~24時
- 運賃
堺町丸太町 4銭
寺町二条 4銭
祇園石段下 4銭
祇園石段下は、現在は四条通と東大路通の交差点で、八坂神社の石段の下です。
東大路通は開通前でしたが、当時も今も祇園界隈の中心地です。
七条停留所とは、今の京都駅のことです。当時は今よりやや北側に位置し、市民より「七条ステンショ」と呼ばれて親しまれていました。
両路線の起終点である堀川中立売は、祇園石段下や七条とは異なり、京都人でも景色が目に浮かんでこないところですが、8年前の1895年に京都電気鉄道が路面電車の停留所を設置していました。
1903年当時は、府庁前と堀川中立売を結ぶ中立売線、北野車庫と堀川中立売を結ぶ北野線、四条西洞院と堀川下立売を結ぶ堀川線が開業しており、堀川中立売はターミナル的な存在でした。
なお、四条西洞院から七条駅前まで延伸され、鉄道とも結節されるのは、翌1904年のことです。1903年に堀川中立売に拠点が置かれたことも納得できます。
全国から注目の的に!
いきなりの営業停止のピンチをくり抜けた二井商会は、日本で初めて本格的にバス事業を始めただけに、各方面より注目の的となりました。
「日本乗合自動車協会十年史」に当時の紙面の内容が掲載されています。
東京万朝報
二井商会は乗合自動車の営業出願を行ったが、いまだに許可が下りないため、当分試運転の名目でさる21日より開業したが、珍しいために乗客も甚だ多く、自動車は2両で中立売堀川より七条停車場前を室町線といい、同じく堀川より祇園石段下までを川東線といい、いずれも乗車賃4銭である。わが国では電気鉄道を使用するのは京都であり、今また乗合自動車にも先鞭をつけたのである
ここでは、開業日が9月21日と記載されています。
他に開業日を9月21日とする資料は見当たらないので、東京万朝報の誤記なのでしょう。
もしこれが事実であれば、バスの日は9月20日ではなく9月21日になります。
収入は、1日1台7円~12円くらい、諸経費車両償却費を除き1日3円~4円くらいと。
速度は乗客が振り落されないよう時速10キロ余りと、人間が走るスピードより遅いくらいでした。
運転手の操縦技術が未熟なため、10月14日までに3回の大事故を惹起し、その都度警察より無許可営業と責められました。
京都でバス事業が開始されたとの情報は全国に伝わりました。
丹波、丹後、若狭、大阪、兵庫、越中、加賀、紀伊、岡山、広島、宮崎、熊本、沖縄の各方面より多くの者が視察に訪れ、大阪、兵庫ほか10府県の警察関係者も実地調査に訪れるました。
京都の二井商会は一躍時代の寵児になりました。
10月初めには3台目の自動車も購入しました。
二井商会の経営が順調に進捗するのをみた人力車業者は、自分たちの生活を脅かすのはバスであるとみなしました。
乱暴にも七条停車場などを数回にわたって襲撃したり、悪口を流布するだけでなく、経営者に危害を加えようとの気配さえ見えたので、福井九兵衛氏等は自宅へ絶えず護身用の短銃を用意したなどという過渡期にありがちな苦難をまざまざと味わったといいます。
ようやく京都府が自動車取締規則が発令
無許可状態を脱したい二井商会の働きかけもあり、10月28日、愛知県に次いで京都府令第39号をもって待望の自動車取締規則が発布されました。
この取締規則に則り、翌10月29日に二井商会は全国で初めてバス事業の正式出願が行いました。
試験運転名目での営業を既にはじめていたとはいえ、法規が発布された翌日に出願をするとは、相変わらずの早業です。
出願されたバス路線図
営業しようとする道路及びその区域
第1線 停車場―中立売通―中立売新町―新町通―松原通―室町通―東本願寺―烏丸通―官設鉄道七条駅
第2線 停車場―中立売通―中立売新町―三条通―寺町
第3線 停車場―中立売通―烏丸通―今出川通―出町―出町橋―三宅八幡宮前
停車場の位置
京都市上京区中立売通堀川西入ル役人町263番地
使用すべき車両数
第1線 3両
第2線 3両
第3線 2両
乗車賃銭額
第2線
堀川中立売―新町二条間 金5線
新町二条―室町三条間 金5銭
室町三条―寺町三条間 金5銭
第1銭と第3線は出願以前に許可
念願の正式許可が下りる
願書を見ると、当時はバス停一か所に5分も停車する計画になっています。
今であれば5分もとまっていると故障車と勘違いされかねませんが、いかにノンビリしていたかを想像できます
営業出願を出すと同時に、試運転の仮名義をもって開業していた営業は一時休止し、正式の許可を待ちましたが、容易に許可とはならりませんでした。
続出する共願者とも調整などに、当局も相当頭を悩ませ、次のような方針で審査されました
- 一方に許可する道路は他方に許可せず
- 三間以上の道路といえども雑踏の地御苑内は許可せず
- 許可は最初の出願順による
そして、1903年11月21日、ついに日本初の自動車営業の許可が下りました。
許可までには書類を訂正すること前後12回、道路図面の引き直し8回、道路図は全部実地踏査するなど、実に二十数日を費やしました。
待ちきれず知事官舎に押しかけて大激論を交わしたこともあったそうです。
役所相手にも一歩も譲らず交渉を行う福井九兵衛氏の姿が目に浮かびます。
栄光からの転落。あっという間の廃業
正式に許可を得て開業
正式の許可を得て11月22日より営業を開始するに先立ち、2日間楽隊を出して宣伝し、乗客に対しては景品を出すことに決定した。
その結果、多数の乗客が乗車し、好成績を上げました。
あまりの混雑から便数を増やすために、急遽堀川中立売-七条駅線は三条寺町で折り返し運転に変更し、1日40往復を行いました。
開業にあたって作った宣伝ポスターには「東洋率先」の文字が踊ります。
東洋で初めてバス事業を開始したという自負がにじみ出ています。二井商会以前にも詳細不明なバス事業はありましたが、少なくとも福井九兵衛氏らにとっては、間違いなく日本初の事業だったのです。
そして、この正式開業日が、二井商会のピークでした。
たび重なるトラブルに寒さがとどめ
まず9月27日には三条柳馬場で、10月5日には中立売通で歩行者との接触事故を起こします。
ケガは大したことはありませんでしたが、治療費や慰謝料などを支払わざるをえませんでした。
10月14日には四条縄手で酔客がハンドルに触れたために転覆し、乗車していた芸者の衣装賠償金を支払らわされました。
乗客の多数乗車することは、タイヤなど損傷が増えるという結果となってあらわれ、特にタイヤ修繕の専門工場がなく、一時しのぎの修繕で急場をしのいでいました。
ここに来て、自動車について素人だったことが影をさしてきます。
試運転後の休止期間が長期にわたったこと、車両購入未払金の支払い、自動車に対する認識が一般に欠けていたことが原因となり、二井商会の経営状態も冬場に入ると同時にしだいに悪化しました。
さらに3号車が火を発するなどの大事故も起こり、ガソリンが2缶2円50銭→4円20銭に高騰し、すべての状況が極めて不利に推移しました。
最後のとどめとなったのは、冬の寒さでした。
二井商会の車両は無蓋車両でした。とても京都の寒い冬を走るのに適しているとは言えません。寒さが深まる12月に入ると、乗客は激減しました。
前述のように、人力車の妨害があったことも事実で、妨害が二井商会の経営悪化の主因のように書かれることもありますが、より根本的な部分の問題だったのでしょう。
お話しとしては、古い業界の妨害によって新しい試みが失敗に追いやられた、というのは面白いのですが。
二井商会の挑戦の終焉
運賃値上げも功を奏さず、何とか車体を改造するために資金を集めて株式会社化することにしました。
福井九兵衛氏は運転資金を賄うために株式会社化を計画し、12月15日から株式募集に乗り出しました。
順調に出資者も集まりかけていましたが、12月21日に室町三条でガソリンに引火し、従業員が全治2ヶ月の重傷を負い、ガソリンもますます高騰するなど逆風が吹きました。
ピンチに陥った福井九兵衛氏は1904年の1月から営業を休止して株式募集に全力を挙げて奔走しました。
しかし当時は日露戦争前夜。とても資金が集まる状況ではありませんでした。
本業の織物業から資金を融通するのも限界となり、1904年1月31日に廃業の憂き目を見るに至りました。
「日本自動車工業史稿」に引用されている福井九兵衛氏の2月中旬の手記によると、
二井商会の借金取りに朝から晩まで攻撃され、うちにもいられず、商会の閉鎖と不渡手形の発表にて門外へも出られず、五尺の体置き所もなく、殺風景極まる悲惨なる逆境に陥りたり。
神は自分らを試みらるるか、はたまた不幸を自分らに集めらるるか、27,8歳は不可なるか。自動車3両を背負いて一方には借金山ほどあり、自動車を叩き売らんと焦慮すれど二束三文、金穴を見出して再び旗揚げせんとすれど、戦国に金主なきを如何とせん。
自動車は錆び付く、借金は子を生む。一日は一日より糧はなくなる。
と記されています。
日露戦争が開戦したのは、二井商会廃業8日後の2月8日のことです。
福井九兵衛氏らに残されたのは、7,000円という借金のみでした。
バス事業開始を決意してからここまでわずか5ヶ月、「東洋率先」を高らかに掲げてから3ヶ月弱のことです。
27歳の青年の挑戦は、ここに終わりを告げました。
同じく1904年8月には次の言葉を記しています。
人の未だ成らざるを成し、しかして時のために敗れ、身は自動車界の犠牲と化す。
天なり命なり失敗に進む。
道は平々坦々たる大道なるに藩士、成功の道は羊腸岐体もただならじ。
その寸効だもなさざるに、身はすでに創を負う。
(中略)
西哲いわく失敗は成功の基なりと、果して然る乎。
けだし、われは行路難をうたいつつ、楫をも備えざる小舟に身を委ねて大洋を横断するものの如し。
泛々たる風に漂い、涛に弄され時々刻々危し、嗚呼小舟よ健在なれ、しかして速に達せよ。
時代を先取りしすぎたため、車両整備や道路状況などの社会的条件が追いつかず、わずかな期間でバス事業は失敗に終わりました。
しかし、大資本のバックアップがあったわけでもなく、二十代の若さで新規事業に果敢に挑戦した福井九兵衛氏には拍手を送りたいです。
その後の福井九兵衛氏
バス事業失敗後、福井九兵衛氏は自動車史からは姿を消します。日本自動車工業史稿等にもその後の記載はありません。
少なくとも34年後の「日本乗合自動車協会十年史」編纂時点において福井九兵衛氏は存命であり、様々な資料を提供した旨が記載されています。
また福井九兵衛氏がバス事業挑戦に関して記した一連の手記は、バスの歴史を語る上で欠かせない資料となっています。
日本初のバス運行という大事業を成し遂げた青年、福井九兵衛氏ですが、結局自動車業界での成功はできませんでした。
日本初のタクシーを運行したタクシー自働車株式会社がその後全国展開し、今も間接的に系譜を受け継ぐ会社が多数あるのとは対照的です。
しかし、日本のバス業界に先鞭をつけたという業績は、これからも全く色あせるものではないでしょう。
これからも、毎年9月20日のバスの日を迎えるたびに、その偉業が思い出されることでしょう。
その後の福井九兵衛氏については、断片的に記録が残っています。
西陣で1912年に設立された大正貯金株式会社では、福井九兵衛氏は取締役に名を連ねています。
1960年に西陣織物館より刊行された「西陣織物館記」には、「西陣史」編纂時に以下の記載があります。
昭和3年4月、沿革誌編纂の計画を知って、上京区西堀川通今出川下ル織物裂地商(元織物業者で組合代議員)、西陣故事研究科として知られた、福井九兵衛より、多年蒐集せる資料を織物館に寄贈
「西陣史」をはじめ、西陣織の歴史を記した資料には、福井九兵衛氏の提供した資料や談話の引用が各所に見られます。
若くして始めたバス事業では大失敗に終わり借金取りに追われる身になった福井九兵衛氏ですが、その後再起に成功して西陣の名士として活躍したことがわかります。
また福井九兵衛氏の長男である福井栄治郎氏は京都帝国大学を出て大蔵省の官僚となり、戦後には大阪税理士会の会長や日本税理士会連副会長などを歴任しました。
再起に成功した福井九兵衛氏も悠々たる老後を送ったのではないでしょうか。
福井九兵衛氏のバス事業挑戦の年表
1876年 生誕
1903年
8月24日 バス事業への参入を決意
8月28日 京都府庁と面談
8月29日 アンドリュース商会と車両購入契約を締結
9月1日 京都府へ自動車営業を出願
9月7日 車両2両が到着
9月19日 試運転式。新聞広告掲載
9月20日 開業。京都府より営業中止の要請
10月14日 これまでに3件の大事故惹起
10月28日 京都府が自動車営業取締規則を公布
10月29日 自動車営業を正式に出願
11月21日 京都府より自動車営業の許可
11月22日 正式営業開始
1904年
1月31日 廃業
参考書籍
① 社団法人日本乗合自動車協会十年史
発行 1937年12月30日
編纂者 小川兼四郎
1927年4月18日に設立された社団法人日本乗合自動車協会の10周年記念事業として編纂された書籍です
社団法人日本乗合自動車協会十年史 – 国立国会図書館デジタルコレクション
② 自動車工業史刊行部会編「日本自動車工業史稿」
③ 同志社商学39.斎藤 尚久「明治30年代の日本の乗合自動車営業」