タクシーの運賃制度の歴史|自由運賃から円タクを経て戦時統制まで

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タクシーの運賃制度の歴史|自由運賃から円タクを経て戦時統制まで

本日8月5日はタクシーの日。
100年を超えるタクシーの歴史ですが、そお黎明期から戦前までの運賃制度の歴史を振り返ってみます。
草創期の自由運賃から、運賃メーターによる規制が始まり、市内一円均一の円タクの隆盛と失敗を経て、最近まで続いた同一地域同一運賃の統一運賃へと移り変わりました。
当時の道路事情を反映した泥道割増や人数割増などもありました。

タクシー車内などに設置しているMKタクシーの広報誌であるMK新聞では、1982年6月1日号から10月16日号まで、9回にわたって「タクシー運賃史」という記事を連載しました。
当時の記事を再録します。
内容のうち本文はMK新聞に掲載当時のものですが、小見出しと脚注は今回追加しました。

タクシー運賃史① 公認タクシー第1号は明治40年

MK新聞 1982年6月1日号 掲載
MK新聞 1982年6月1日号 掲載

MKが運賃値下げを申請

MKの値下げ申請は、タクシー業界のみならず運輸業界全般に大きな波紋をもたらした*1
二年ローテーション、同一地域同一運賃*2、六大都市一括認可など現在のタクシーの運賃体系がどのように形成されてきたのだろうか、タクシー運賃の歴史をひもといてみよう。

運賃規制がなかったタクシー創業期

1907年、乗用自動車の賃貸営業が東京で開始された*3
これは届け出された公認タクシー第1号であるが、それ以前に「白タク」があったと思われる。
これは記録に残っていないので除くが、この時の運賃料金は自主的に決められた。
警視庁令で「自動車取締規則」が制定されたが、交通安全と営業許可について規制するもので、運賃についての規制はなかった。
その後、営業者の増加によって組合ができ、協定料金が制定されるようになってきた。

自動車取締令で運賃が許可制に

1919年、内務省は自動車の増加に伴い、全国統一の交通保安及び営業規制の見地か「自動車取締令」を制定し、全国の警察別に「自動車取締令施行規則」が制定された。
これにより運賃・料金の許可制が規定されるとともに、料金表の表示や料金表以外の料金請求の禁止および距離運賃による場合は、「タクシーメーターの設置とメーターの検査」等が規制された。

タクシー運賃史②ドロンコ道は割増し

MK新聞 1982年6月16日号 掲載
MK新聞 1982年6月16日号 掲載

創業期から大正期にかけての運賃制度の歴史については前号で記したが、当時いったいどれぐらいの値段であったか、記録の残っている東京の運賃を紹介してみよう。

非常に高価だった1907年

5人乗り 1時間 7円
2人乗り 1時間 3円50銭
この時の鉄道の運賃が、50哩まで1哩につき1銭6厘5毛であったから、非常に高価な乗り物であったことにまちがいはない。

距離制の運賃が導入された1910年

1哩ごとに
5人乗り 1円
4人乗り 60銭
1人乗り 50銭
半日(10哩まで)
5人乗り 18円
4人乗り 10円
1人乗り 7円50銭
1日(30哩まで)
5人乗り 30円
4人乗り 20円
1人乗り 15円
(注)1哩(マイル)は、約1.6km

泥道だと割増運賃となった1912年

東京市有楽町で、メーター付タクシー第1号が走り出した*4
これは前号で述べた「自動車取締規則」によらないメーター運賃で、自主料金メーターであった。

◇基本運賃
最初一哩まで 60銭
爾後1/2哩増すごとに 10銭

◇待料金
5分ごとに 10銭

◇割増料金
深夜、雨天、泥濘は1/4哩ごとに 10銭(注、4~5人乗り)

泥道とは割増運賃というあたり、道路事情の悪さがしのばれる。
当時の市電運賃は4銭であった。

タクシー運賃史③ 給料は銀行支店長並み

MK新聞 1982年7月1日号 掲載
MK新聞 1982年7月1日号 掲載

組合による協定料金制度

タクシー台数の増加により、各地で自動車業組合が結成され、協定料金が制定された。
1917年、東京自動車組合の協定料金は次の通り。

▽幌型自動車
1哩まで 60銭
爾後1/2哩までごとに 10銭

▽箱型自動車
3/4哩まで 60銭
爾後2/5哩までごとに 10銭

▽待ち料金(幌・箱ともに)
5分ごとに 10銭

当時の市電の運賃は五銭であった。次に大正末期の東京主要会社の行先別料金の一例を示す。

有楽町より
東京駅 80銭
新橋駅 70銭
品川駅 2円50銭
渋谷  17円
川崎大師 9円

東京に次いで京都でもタクシーが登場

市電を一番に走らせた新しがりやの京都だけにタクシーの登場も早く、大正初期、後川文三*5氏(のちの京都新聞社社長)が京都タクシーを創立*6
ハイヤーも祇園に東洋自動車ができ、大平、大和、大塚など、たちまち二十数社が営業を開始、花柳界を中心とした営業を行っていたが、芸妓さんがお得意でハイヤーが芸妓好みの特別車体で都大路を走り回った。
この古き良き時代の京のハイヤー料金は1円50銭、これに対して5円のチップが通り相場で、乗務員の月収は80円と銀行の支店長クラス並みであった。

タクシー運賃史④ なんと人数割増料金

MK新聞 1982年7月16日号 掲載
MK新聞 1982年7月16日号 掲載

エリア内均一運賃の円タクが人気に

タクシーがどこまでいっても1円だったころ…というCMがあるが、これは昭和初期、大都市を中心に広まった。
1927年、東京市内1円という料金体系ができ、わかりやすい運賃として市民から歓迎された。
ぐるぐるまわっても1円では損だと思われるかもしれないが、ちゃんと迂回立寄料金というものが設けられており、迂回立寄一回につき50銭が追加され、さらに待料金として4分または5分ごとに10銭もあった。
さらに注目すべきことに、人数割増運賃が導入されていたことで、一人増すごとに20銭が追加された。
また時間制(貸切)運賃は1時間4円から8円でこの間は適宜決定された。
1円という金額は、当時の国鉄の初乗り運賃額5銭から比較すると20倍にもなり、タクシーが市民の足というには、ほど遠いものだった。

深夜割増運賃の登場

そしてこのころ、もうひとつ深夜割増運賃も登場している。
警視庁の旅客自動車営業乗用賃銭許可標準内規によれば、午前1時から5時*7まで5割増の料金をとることが許されていた。
つまり徴収するかしないかは、各事業者の自由意志にまかされていたのである。

この自由意志の割増料金はこのほか市外片道の場合に限り5割増という制度もあった。
市内1円といっても、このころの市域は狭く、東京では15区しかなかったのである。
京都でも上賀茂、梅津、吉祥院は市外であった。

タクシー運賃史⑤ 大阪のタクシー黎明期

MK新聞 1982年8月1日号 掲載
MK新聞 1982年8月1日号 掲載

新規参入により激しい競争が行われた大阪

今まで東京中心に話を進めてきたが、大阪のことも触れてみよう。
1917年8月、大阪タクシー自動車(株)が発足。
T型フォードで、初乗り1マイルまで90銭、爾後1/4マイルごとに10銭であった。
東京より高かったが、当時の円単位のハイヤーより安いと人気を集めていた。

ハイヤーは第一次大戦景気により箱型5人乗りと高級化していたのである。
ハイヤーは1911年、なんば新地の島津自動車商会が幌付き3人乗りで、市内1時間5円、市外6円、雨天2割増で営業を開始しており、それ以来、タクシーの出現までに18社、80台にまでなっていたのである。

大衆化路線の成功で、タクシー業に参入するものも多く、当然競争が起きていた。
1924年、シトロエンの3人乗り60台をもって、大阪小型タクシー(株)が営業を開始した。
初乗りが2マイルまで70銭、爾後1/2マイルごとに10銭という”小型運賃”が登場した。この小型の評判に、中央タクシー会社も同じ年、フィアットの小型タクシーを走らせている。

行灯導入で夜でもわかりやすく

このころ空車表示にも工夫がこらされるようになり、セルロイド板をフロントガラスの継ぎ目に差し込んで営業をしていたものが多かったが、大タクが夜間用にアンドン(屋上灯)を初めて取り付けメーターのハタ(操縦桿)にも空車表示板を取り付けた。
アンドンは他社にも広がったが、ハタは大タクのみが取り付けていた。

タクシー運賃史⑥ 円タクとメーターの競争

MK新聞 1982年8月16日号 掲載
MK新聞 1982年8月16日号 掲載

円タクとメーターの激しい値下げ競争

1924年7月、市電ストで市民の足がマヒしたとき、市民はタクシーの便利さを知らされ、タクシーの大衆化の契機となった。
同じ年に、東京より3年早く旧市内1円という均一料金タクシー”円タク”が登場した。

宗右衛門町にあった工藤自動車は、この円タクを宣伝するために、1926年、社名を均一タクシー(株)に変え、レイランドの3人乗りで営業、すぐ続いて、大阪均一タクシー会社と、大阪一円タクシー会社の二社も円タクに参入した。
円タクはかなりの会社に広まったが、いぜんメーター制の有利を主張し、大タクなどは円タクとならなかった。
しかし、安心して乗れる円タクに客を取られ、マイル制メーター各社は、初乗り90銭を30銭にという大幅な値下げを断行して対抗した。

全国へと広がる円タク

大阪の円タクは、その営業所の位置により一円均一の区域がズレていた。
このため、乗客にわかりやすいように、市内を色分けした地図を車内に貼り、どこまでが1円かすぐにわかるようにしていた。
ともかく、円タクの人気は高く、東京をはじめ全国各都市に広まっていった。
1926年3月、大タクがストライキを行った。これが日本のタクシーストのはじまりである。
当時は一車一人制、乗務員の給与は歩合制であったが、給料比率は低く、25%程度であり、このころリース制、完全名義貸しの制度がはじまり、全国に広まっていった。

タクシー運賃史⑦ 円タクの失敗と法律の整備

MK新聞 1982年9月1日号 掲載
MK新聞 1982年9月1日号 掲載

不正の横行による社会的地位の低下

円タクは高価なメーター器(当初は国産はなかった)も不要で、人気も高く、乗務員も会社もホクホクとなるはずであった。
ところが、メーターがないために労務管理が十分できず、15回営業しても10回と報告し、5円を横領するといった料金不正が起こりだしアッという間に、全国的に料金横領がはびこることとなってしまった。
会社側は、そうした中で収益を上げるため、次々とリース制を導入し、中には完全名義貸しだけの会社もあらわれ、タクシーの社会的地位はこうした中で確実に低下していった。

銀行の支店長なみの給料で高嶺の花だったタクシー運転手は、ここにきてついに、運転者不足が起こりだしたのである。
このため、例えば大阪では、登録台数3,200台あったものの、実在車両数は2,500台程度になってしまっていた(1930年)。

自動車交通事業法の成立

このような円タク→リース制というタクシー業界の乱れに対し、政府は法律の整備を進めることとし、1929年、タクシーの主務官庁を鉄道省とする、自動車事業法案要綱が発表された。
同じころ、内務省の自動車法案もあり、この二つが合体して、1931年、第59回帝国議会において、自動車交通事業法が成立、6月4日に公布された。
施行は各方面との調整が遅れ、1933年8月となった。

これが現在の道路運送法の下敷きとなったものだが、リース制は完全に禁止され、料金は不統一のまま、完全な統制は行われなかった。

1931年向上社「重要新法律理由 : 要綱図解」国立国会図書館デジタルコレクションより
1931年向上社「重要新法律理由 : 要綱図解」国立国会図書館デジタルコレクションより

タクシー運賃史⑧ 運賃論争から統一運賃へ

MK新聞 1982年10月1日号 掲載
MK新聞 1982年10月1日号 掲載

大論争の末に統一認可料金制度に

1933年施行の自動車交通事業法では、運賃決定に際して、大臣の認可が必要とされた。
条文によると「自動車運輸事業ヲ営ムモノハ、命令ノ定ムルトコロニヨリ、運賃ソノ他に関スル事業計画ヲ定メ、主務大臣ノ免許ヲ受クベシ」となっている。
この主務大臣とは鉄道大臣のことである。

この法律のねらいとするとことは、表向き増加する自動車に対する規制が警察だけでは対応しきれなくなったためとされたが、本当のねらいとするところは別なところにあったようだ。
このころ、業界と行政中をひっかきまわした大運賃論争がくりひろげられていたのである。
統一認可料金、つまり今でいう同一地域同一運賃という原則に対して、賛否両論が闘わせられていたのである。
この大論争も1934年にはほぼ決着がつき、不満の声を残しながらも統一認可料金が実施されたのである。

東京

初乗り1マイルまで 30銭
爾後1マイルまでごとに 10銭
待料金5分ごとに 20銭

大阪

初乗り2kmまで 30銭
爾後800メートルごとに 10銭
郊外 2割増

参考までに、当時の市電運賃は5銭、市バス運賃は10銭、タクシー乗務員の賃金は、水揚げ高の約2割5分程度のものであった。

タクシー運賃史⑨ 京都の観光タクシー

MK新聞 1982年10月16日号 掲載
MK新聞 1982年10月16日号 掲載

不況による経営悪化

円タクが50銭になり、30銭となったは時の流れで、不況のどん底へと突き進んでいたからである。

こうした世相になってくると、タクシー運転手が銀行の支店長並みの月収だったというのは過去の話しとなり、経営は困難になってきた。

観光タクシーのはじまり

この不況を打開すべく、京都の業者は団結して観光遊覧事業を開始した。
1935年3月、京都観光自動車協会がスタート、市内の旅館とタイアップする一方、史跡の講習会を行い、パンフレットを配ってPRした。
市内Aコース、伏見Bコース、嵐山Cコース、宇治Dコース、近江コースそれに特別なコースなどがあったが、びわ湖コースのチラシによると、天智天皇山科御陵、逢坂山関所、蝉丸神社、三井寺観音園城寺、瀬田唐橋などをまわって”高級貸切自動車5人乗金5円也”とある。
さらに名勝史址説明付、鉄道団体特別割引と記されているところをみると、当時の京都ではこのような割引きが許されていたということになる。

こうした観光コースの開発は、不況克服という使命があったというものの、すぐれた企画力であり後の観光バスがこのコースを取り入れている。
600人の団体観光も行った観光タクシー事業であったが、観光などというのんびりしたことができる時代ではなくなり、間もなく立ち消えとなってしまたった。

おわりに

MK新聞連載の「タクシー運賃史」は、戦時体制へと変わりつつある1935年の内容で終わっています。
最後に終戦までのタクシーについて簡単に紹介します。

1939年交通毎日新聞「紙上モーター展」国立国会図書館デジタルコレクションより
1939年交通毎日新聞「紙上モーター展」国立国会図書館デジタルコレクションより

燃料事情の悪化により、1941年にはタクシーのガソリン使用が禁じられ、木炭など代用燃料による運行を余儀なくされます。
戦時統制が強化され、鉄道やバスと同じくタクシーでも戦時統合が行われました。
東京だと大和自動車交通、日本交通、帝都自動車交通、国際自動車のいわゆる大手四社に、京都だとヤサカ、相互、京聯の三社へと統合されました。

戦況の悪化とともに、1944年には流し営業が禁止され、一般のタクシー利用は事実上制限されるようになりました。
やがて戦災により車両も営業所も壊滅的な被害を受け、運行するドライバーも不足し、稼働不能な状態に陥り、終戦を迎えることになります。

タクシー黎明期より紆余曲折のあったタクシー行政ですが、戦時統制を経て需給調整・同一地域同一運賃などを中心としたいわゆる護送船団方式が確立しました。
高度経済成長期においては一定の合理性もあった護送船団方式ですが、競争のないことでタクシー業界の活力を奪い、制度疲労をおこしていきます。
いわゆる「タクシー自由化」が実現するのは、21世紀に入ってからのことです。

主要参考文献

東京交通新聞社 渡辺清「タクシードライバーが綴る バックミラー風俗史」
京都府自動車整備振興会 荒金義喜「京都自動車史」
三樹書房 佐々木烈「日本のタクシー自動車史」

*1:1981年、MKタクシーは運賃据え置きを表明していたが、同一地域同一運賃の原則を維持するために様々な圧力を受けて、MKタクシーも値上げを申請。しかし値上げ以上の顧客離れによって減収に陥ったため、1982年3月11日に運賃値下げを申請していた。のちに値下げ申請は却下されたために提訴し、1985年1月31日に大阪地裁で勝訴することになる。

*2:1985年1月31日大阪地裁判決では、同一地域同一運賃制度は独禁法違反と判断することになる

*3:東京の帝国運輸株式会社が2台の自動車で運転手つきの貸自動車の営業を開始

*4:この第1号が走りはじめたとされる8月5日が「タクシーの日」である

*5:の誤植である

*6:タクシー営業を開始したのは1914年7月15日

*7:現在のタクシーの深夜割増時間帯は午後10時~午前5時

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