アメリカ反戦兵士たちに寄り添うために②『動くものはすべて殺せ』から(前篇)MK新聞連載記事
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MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、ジャーナリストの加藤勝美氏による連載記事を掲載しています。
MK新聞2019年2月1日号の掲載記事です。
アメリカ反戦兵士たちに寄り添うために②ニック・タース著『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』から(前篇)
軍の捜査記録に基づいたアメリカ初の本
著者の最初の“発見”は2001年6月、大学院生としてヴェトナム帰還兵の心的外傷後ストレス障害(PTSD)についての研究で、国立文書館の文書を調べている時だった。
同館のスタッフから「戦争犯罪を目撃した人がPTSDを発症することがあるか」と尋ねられ、それから一時間足らずの間にニックはヴェトナム戦争犯罪作業部会の黄ばんだ記録書類の束を手にしていた。
この作業部会はミライ事件(日本ではソンミ村事件と呼ばれる)後、陸軍に重大な戦争犯罪事件を起こさせないように、国防総省がひそかに組織した特務班だった(21ページ)。
このファイルには虐殺、殺人、強姦、拷問など陸軍が事実確認した300件以上の報告書があり、退役軍人たちの赤裸々な告白もあり、それはアメリカ国民がテレビや新聞で知っているものとは異なる戦争の話だった。
一人の少年の射殺後、武器を持たないその子の兄の頭を至近距離から撃ったこと、死体から両耳を切り落としたこと、基地の尋問官が子どもを強姦したことなどなど、著者は至るところで残虐行為が行われていたことを確信した。
その後の数年間、情報公開請求をし、元戦争犯罪捜査官などを取材し、全米各地で100人以上の話も聞いた(23ページ)。
帰還兵たちは進んで口を開いた。
訳者・布施由紀子(みすず書房、2015年)のあとがきによると、ニックは1975年生まれ、社会医学の博士号を持つ歴史家でもある。
前記のファイル発見後、指導を受けていた教授に相談すると、その文書が消えてしまわないうちにコピーするように言って、小切手帳にサインをして渡し、ニックは翌日から国立文書館の駐車場に止めた車中で寝泊まりをし、何日もかけて、3,000ページを複写した。
そして教授の予想通り、翌年これらのファイルは公開資料から消えてしまった(326ページ)。
原著は2013年にアメリカで刊行され、軍の捜査記録をもとにヴェトナムでの戦争犯罪の本が書かれたのは初めてのことだった(329ページ)。
ここからが本論になるが、内部告発に踏み切った者は脅され、恫喝され、中傷され、あるいは軽んじられ無視された。
1967年3月16日のミライ事件の暴露後、戦争犯罪の告発がたちまち珍しくなくなり、ビラ、パンフレット、小出版社の本、“地下”新聞が米兵の残虐行為を繰り返し指摘していたが、いずれも共産主義者のプロパガンダか左翼のたわごととして一蹴されていたこのような情報は、だれもが知っているあくびが出る話として軽視され始めた。
そしてレーガンが大統領になるまでは、この戦争はアメリカの敗北に終わったという見方が大勢を占めていたが、レーガンは“崇高な戦い”という新たな位置づけを与え、擁護派の歴史学者は証拠の多くを無視し、アメリカ人の戦争犯罪が単発的な事件に過ぎなかったかのように論じていた(120ページ)。
陸軍の元衛生兵ジェイミー・ヘンリーは危険を冒して、目撃した犯罪について報告し、陸軍犯罪捜査司令部(CID)に訴え出て、何度も公の場で話をしたが、陸軍は確証のない事件の話を繰り返す反逆者とみなした。
しかし、実は1970年代の初めに陸軍の捜査官がヘンリーの部隊の隊員の取り調べをしていた。
ニックが発見した文書は、ヘンリーの告発が疑う余地のないことを証明していたにもかかわらず、軍はその情報を秘匿していたのだった(25ページ)。
「殺せ! 殺せ!」新兵たちを襲う過酷な洗脳作業
1971年1月、帰還兵チャールズ・マクダフがニクソン大統領あて手紙を書き、ヴェトナム民間人を虐待、殺害する現場を何度も目撃したこと、その犯罪者の処罰に関して軍事司法制度が無力であることを訴えた。
数週閥後、軍の兵員管理対策責任者である少将から返事が届き、そこには事務的に「合衆国陸軍は、無意味な殺人や人命軽視を許したことは一度もありません」とあった(7ページ)。
第一騎兵師団の兵士が作った歌の出だしはこんなものだ。「おれらは撃つ、病人、子ども、障碍者/ベストを尽くして、殺傷する/だって殺害数がすべてだから/ナパーム弾はガキにくっつく/牛車が道を走っていく/農民たちは重荷をしょっていく/爆弾が破裂したら、やつらはみんなVC(ヴェトコン)だ」
死体の山を築く行為はアメリカ人がヴェトナムとその国民に対して抱いていた軽侮の念によって助長された。
ジョンソン大統領は「くだらないカスも同然の小国」と考え、ニクソンの補佐官キッシンジャーは「四流国」と呼び、こうした心情は軍の指揮系統にも浸透し、職場の兵士たちはヴェトナムを「アジアの屋外便所」「文明のゴミ捨て場」「世界のケツの穴」と蔑(さげす)み、「皆殺しにして、後の始末は神に任せる」という提案にも人気があった(60ページ)。
(アメリカの歴史学者ジョン・ダワー著『容赦なき戦争』が太平洋戦争下のアメリカと日本でどのように相手に対する人種差別と偏見が流布し信じられたかを詳しく伝えている。原著1986)。
ミライ事件を遥かに凌ぐ大規模殺戮では、通例、重火器が使われ、死体が量産されていったが、そこにはそれの無制限な使用を許す指揮方針がかかわっていた(31ページ)。
兵士の大半は10代か20歳を過ぎたばかりで、その訓練は新兵を幼児並みの精神状態に追い込むように計画されていた。
1日最長17時間、8週間にわたって、非個人化、軍服着用、プライヴァシー剥奪、睡眠不足、恣意的なルール、厳しい処罰が組み合わされる。
「極度の疲労は新兵が進んで命令に従うようになる重要な要素であり、彼らはいかなる形の不服従もただ苦痛を招くだけに終わることを学ぶ」。
新兵たちはためらうことなく人を殺すことを最善とする、暴力と残忍の文化に取り込まれ、ある兵士は教練を受け始めたころは、ただ暴力的な言葉、「殺せ! 殺せ! 殺せ! 容赦なく殺せてこそ兵隊だ!」を繰り返し、躊躇なく殺すことは訓練の場に満ちていた露骨な人種差別感情によって正当化され、細目、キツネ目、吊り目、米食くい虫など、人間性を完全に否定する呼び名を使い、そこには彼らは人間以下の存在だという明確なメッセージが込められていた(34ページ)。
前号で触れたアレン・ネルソンさんはアメリカからヴェトナムへ行く途中、沖縄のキャンプ・ハンセン基地で訓練を受けた。
訓練は、銃、手榴弾の扱い方、ナイフや素手で相手を倒すなど、すべて人を殺すためのもの、教官は大声で「お前たちのしたいことはなんだ?!」。新兵は「Kill!」「Kill!」と獣のように叫ぶ。このようにして彼らは洗脳されていった(『戦場で心が壊れて』136ページ)。
(2019年1月5日記)
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について
ジャーナリスト。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。
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