大森昌也さんを悼んで|MK新聞連載記事

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大森昌也さんを悼んで|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
張間隆蔵氏の「リバプールの古参ボリシェビキ 大森昌也さんを悼んで」の記事です。
MK新聞2016年10月1日号の掲載記事です。

リバプールの古参ボリシェビキ 大森昌也さんを悼んで

大森昌也さんの言葉

その日、2016年3月24日の午前、友人からの電話で大森さんの死去を伝えられた。
早朝未明だったらしい、とも。
遠くの山林でつかの間、風の音が止んだように妄想した。
昨年初夏、送られてきた「あ~す農場だより」に添えられたいつもの俳句めいた一筆書きは読ませてもらっていた。

なぜか? 顔面左が急に(といっても一ヵ月)はれて 片目に!不便!
ここらでの医者にたらいまわしされ大阪で25日検査入院。さてどうなることやら。
まあなるように。
ではまた。
大森

いつも通りの物言いで、切実なおそろしいものだったが、秋になって暑さもひと段落したところ、胸元に不整脈が発生したみたいに、急に大森さんのことが心配になった。
「自給自足の山里から」を読み返してみるとこんな箇所が見つかった。

百姓として暮らす山村では、春夏秋冬とか、日々流れていく過程を楽しむのであり、そこには断絶や絶望、あきらめはみられない。

ここでの「日々流れていく過程」の内側には「朝に獣を狩り、昼に魚をつかまえ、夜は牛飼い、批評する…自分の思うがままできる」というマルクスの輝ける比喩が入り込んでいる。
けれども「百姓として暮らす」という前提があってこそ成立しているのだから、翻ってその前提が崩れかけて大森さんに不便で不自由な状況となりつつある暮らしの現在は…とつんのめった。
いつもどおりの困ったときにはマルクスの言葉を探した。
「それが人間の身体そのものでないかぎり、自然は人間の非有機的肉体である。もし人間が死んではならないとしたら人間がこの肉体との不断の交流過程(prozess)」にとどまらなければならない」
大森さんが死ぬのではなく、ひとりの縄文百姓が山村での暮らしの過程から姿を消す。
いつかまた山村に姿を現すのだ。

学生運動の中で

大森さんはビートルズの面々とほぼ同年代である。
ポールとジョージが1942年生まれで、ジョンとリンゴが1940年。
大森さんは1960年前後から1973年にかけて日本に生起し終焉した、特異な時代の特異な学生運動におけるロシア・ボリシェヴィキ派のひとりだった。
1960年前後によくいたアルバイトづくめの貧乏苦学生で、どこか日本敗戦の傷を知らないうちに負わされた反権力の鬼だった。
それでいて山好きの純粋な感性があった。

屋根裏部屋のような灰色の学生寮から遠く離れた大学構内の木造倉庫型学生自治会室に通いつめた。
がらんどうの室内には大森さん在学中の1962~6年に限っても、疎外・止揚・国家と革命・暴力装置などといったマルクス・レーニン語が屋根まで氾濫していた。
そういう空気のなかで、60年安保世代の先輩たちから子供扱いされながら田宮高麿(よど号ハイジャック事件)や森恒夫(連合赤軍事件)らが牧歌的な議論と学生向けビラ作りに明け暮れていた。
高校時代にすでに60年安保国会デモに加わった寮生活派の苦労人だった大森さんはどこか別格で、まだ20歳そこそこなのにすでにジジイみたいだった。
活動派の多くの制服ともいえる、年中それ一着しかない汚れたレインコート姿で現れると、デモ隊の先頭に立ち、血相を変えて怒鳴りはじめる。
その場の誰しもがそこに大森さんがいなければ隊列がままならないと思ってしまう不思議な小隊長だった。

1966年3月、いつの間に専門学舎で勉強していたのか、まるで足跡を消すように大森さんは卒業していった。
その後しばらくして、大森さんはどうやら「国鉄労働組合書記」、つまりボリシェヴィキめいた職業革命家になったらしいという噂がごく当たり前のように流されてきた。
そんな伝説的な道を追っていきたいと羨望する後輩たちもいたが、その頃から少しずつやがて激しく時代の渦潮は変転していった。
古きボリシェヴィキは歴史の舞台から退場することを命ぜられつつあった。
大森さんと入れ替わるようにその年初夏の6月、イギリスからビートルズがやってきて、日本の若者を熱狂させた。
数年前からビートルズは世界を駆けめぐっていた。
ほんとうにまるで不思議だった。真夏の8月下旬、古参ボリシェヴィキの牙城だった学生自治会室が炎上し、木造倉庫は跡形もなく全焼した。

ブルジョア プロレタリアート

ビートルズは1960年頃、イギリス北西部の港リバプールで生まれた。
リバプールは19世紀半ばの世界経済の中心だったイギリスの主要貿易港のひとつだった。
近く隣接する工業都市のマンチェスター紡績工業を経営していたエンゲルスは1863年にひとつの重要な結論を余儀なくされていた。
「イギリスのプロレタリアート革命のエネルギーは完全に消滅した」と。
ヨーロッパ諸国で最も裕福なイギリス国民は、最終的にはブルジョア階級になるだろうと。
エンゲルスに言わせれば、ブルジョアプロレタリアートとは衣食住が足りているのにまだまだ所有欲が満たされていない労働者たちである。
マルクスからみれば衣食住からは解放されたが「疎外された労働」にさらにがんじがらめになっていく労働者たちということだろう。
哲学的経済学者だったマルクスはあきらめるはずもなく、1867年にエンゲルスの助けを借りて『資本論』第一巻をドイツのハンブルグで出版にこぎつけた。
そのあと1871年にパリ・コンミューンが勃発した。

ビートルズはブルジョアプロレタリアートの文化的末裔だった。リバプール・マンチェスターと哀切に繰り返して大英帝国の在りし日をビートルズは偲んでいたのではないか。
日本では衣食住が足りてくると余りは子弟の教育費にまわされる。
1950年 24万人
1960年 70万人
1966年 100万人
1970年 170万人
大学生の数はぐんぐん増えていった。

1966年からヘルメット姿の学生たちが姿を現していた。
学生運動史上に浮揚した全共闘は歴史経済的な根拠があったのである。
連合赤軍浅間山荘事件が1972年3月に終息し、それぞれの学生たちがそれぞれの「曲がりくねった道」を歩いて市民社会に復帰するしかなかった。
ブルジョアプロレタリアートだから。

大森さんは同じ年1972年5月19日の大森家離散危機で、とりあえず古参ボリシェヴィキの灰色のコートを脱ぎ捨てる必要に迫られた。
それからさらに人間身体という有機的自然に無差別的に、裸で嘘のない家族をつくり上げることを強いられ、自らそう望むようになったはずである。
大森さんはブラクサベツというようなちいさな世界に立てこもるような人物ではなかった。
1万5,000年前に、東ユーラシア大陸に現れ混交してきた縄文百姓の末裔だった。いつか再びお会いできる日まで、ひとまずお別れです。

 

MK新聞について

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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